刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

なぜヤマト王権の始まりが分かるの?( ^)o(^ )

2024-09-01 00:00:04 | 古代史
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#2022-02-13 10:56:24に改訂して硬化しましたが、リンク切れなどがあり、修理して少しだけ見直しました。よろしければまた、お付き合いください。

#2020-05-13 10:34:05に掲載しましたが、その後、日本全国の土器の併行関係と編年や弥生時代に倭人が漢字を読み書きできたことなどが判明しましたので、図を取り替え、文章を追加しました。お付き合いください。

以下のような内容で宮崎正弘先生のメルマガの読者の声に投稿しました。掲載いただいた宮崎先生には心より御礼申し上げます。

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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)5月13日(水曜日)弐
       通巻第6498号  
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貴誌6496号で高柴昭様よりいわゆる九州王朝説を支持するご意見があり、その根拠として日本の正史「日本書紀」とシナの史書「魏志倭人伝」、「宋書」、「旧唐書」との記述内容に喰い違いがあることなどをあげておられます。しかし、その中に考古学の成果がほとんど考慮されていないのが残念です。貴誌6495号で「日本書紀」と「魏志倭人伝」について述べたとおり、書かれている内容が事実か否かを様々な証拠で確かめないと編纂当時の権力者の罠にかかります。

以下に述べますが、近年の考古学などの研究成果は、日本建国時代の真相解明を十分可能にしています。

三世紀末にヤマト王権が成立したと考えられている奈良県桜井市の纏向遺跡は、二世紀末から三世紀初頭に突然登場した政治都市です。発見された外来系土器から各地の首長クラスの人々が集まって、祭祀を行っていることが分かります。ヤマト王権のシンボルとなる前方後円墳については、200年前後に築造された纏向石塚古墳が最古のものだと推定されています(石野博信「邪馬台国時代の王国群と纏向王宮」新泉社、2019 pp.137-139)。前方後円墳の様々な属性を調べると、北部九州と吉備のものが最も多く、次に出雲です。特にその後の首長霊祭祀で用いられる祭器は吉備をルーツとするので、吉備出身の大王が各地の王を纏向に呼び寄せたと推理できます。また、吉備や出雲が北部九州の影響を強く受けていることも分かるのですが、今までのところ纏向遺跡から九州の土器がほとんど見つかっていません。あっても1%未満です。これから大量に見つかる可能性も全くないとは言えませんが、今のところこの時期の九州との人的交流がほとんどなかったと考えられ、従来提唱されてきた学説が否定されることになります。

【検証2】前方後円墳のルーツ?

①北部九州は大陸や半島から当時の先進的な物資を取り入れる玄関口です。「魏志倭人伝」にも「一大率」が女王に贈られてくる品を検査して間違いなく届けることになっているので女王は、その痕跡の無い纏向には居なかったと分かります。専門家の中に畿内説が多いのですが、すでに安本美典氏が論証されているとおり、纏向は邪馬台国ではないと言えます。

【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!(^◇^)(『歴史REAL 邪馬台国』洋泉社MOOK、2017.11.19 p.4より)

②九州に在った邪馬台国が大和に東遷した説や神武天皇が三世紀末に日向から東征した説も否定されます。

③さらに北部九州には当時の畿内系の外来土器が数多く見つかっています。上の事実と合わせて考えると、ヤマトの大王は元々は北部九州出身ですが、纏向での祭祀に北部九州の人々が参加していないので、当時は対立していて、最終的にヤマト勢が北部九州を吸収した、つまり失地回復してヤマト王権が成立したということを示しています。ですから九州王朝説は否定されます。

④しかも北部九州の外来系の土器の中に畿内系だけでなく山陰・北陸、近江、東海、楽浪郡、三韓などのものが多数あり、時期的にその量が異なるので、単純な過程でヤマト王権が成立したのではないことも分かります。

また、各地の土器編年の並行関係が分かるようになってきました。下図の左側に刮目天の仮説から分かった歴年代を修正し、年表と共に示します(;^ω^


(詳細説明は「【検証15】台与からヤマト時代の北部九州だよ」「【検証16】3世紀後半の伊都国だよ」などを参照))(2024.8.31 黒字追加)


鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有
この記事から弥生後期後半の倭国大乱から古墳初頭の日本建国の戦い模様を推理できます。(2024.8.31 黒字追加)



上の図から矢戦の痕跡は北部九と熊本県北部の集落で見られますが、それ以外の列島各地に戦争の痕跡は見られないことが分かりました(^_-)-☆。(2024.8.31 黒字追加)


上の図によって、日本書紀の崇神天皇紀四道将軍の記事から景行天皇九州遠征・ヤマトタケルの遠征の記事にある遠征ルート上に三世紀後半の矢戦の痕跡が見られますから、日本書紀は、270年頃~280年頃に実際に起こった日本建国の戦いを基にして、年代を引き延ばして天皇の記事を創ったということが判明しました。この戦争の結果、纏向遺跡でヤマト王権が成立したことが分かりました。(2024.8.31 黒字追加)

このように考古学成果によって、従来の多くの学説は古臭いものになっています。文献に記述された内容が事実かどうかをこれまでの考古学成果などで判定し、より合理的な仮説を立て、様々な検証を繰り返す必要があるのです。

一応、現在入手できる資料をもとに一連の事象を適切に説明できるヤマト王権成立過程を仮説推論(アブダクション)によって組み立てました。これによって、今まで謎とされたことが数多く説明できますので、ご批判を仰ぎ、更に検証を重ねて仮説の詳細化・拡張などを行って古代史を解明したいと考えています。拙ブログに詳細を載せていますので、こちらで建設的な議論をしていただけると幸いです。
(刮目天)
(2024.8.31 黒字追加)

最後に、最新の考古学上のトピックについてです。従来北部九州で出土した砥石と思われたものの中に硯(すずり)の欠片があったと分かってきました。すでに福岡市雀居遺跡では木製の組み机が出土していますし、弥生後期には漢字を読み書きできる倭人が居たことを示しています。これによって、1948年に福岡市室見川河口で発見された銅片「室見川銘板」は、日本で作られた最古の金石文であることも判明しました。

【わかった!】室見川銘板のなぞ

従って魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事などが、漢字を知らない倭人の発音を魏の役人が聞いて漢字に直したという通説が成り立たなくなります。魏志倭人伝が当時の倭国のことを正直に伝えるものではなく、政治的な目的から書かれた魏使の報告書をもとに作られた政治文書だったと考えられますので、行程記事に基づく邪馬台国の位置論を再検討すべき時期に来ています。

【検証22】難升米という人物は?(その1)
この人物が本当の倭国王です。107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升の孫と推理しています。難升米は司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏と談合して、司馬懿の功績を実際よりも大きく見せるために女王卑弥呼をでっち上げ、邪馬台国への行程記事を創ったと推理しています。ですから、このデタラメな行程記事に対して、いくら天才的な解釈を発明しても、みんなが納得できる卑弥呼の居城には到達できないのです(;´Д`)。(2024.8.31 黒字追加)

【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)






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