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【刮目天の古代史】日本は古(いにしえ)の中国だった!( ^)o(^ )

2023-11-06 06:34:07 | 古代史
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2023-11-05 22:50:01に記事にしましたが、参考文献の(注1)と(注2)を追加しました。最初に邪馬台国宇佐説を学説にした富来隆先生から数多くのヒントを頂きました。よろしくお願いいたします。

山口県・広島県・岡山県・島根県・鳥取県を中国地方と呼びますが、いつかは忘れましたが、国会で中国(中華人民共和国)をシナと発言するのはどうなのかというような質問が石原慎太郎氏に来て、中国というのは西日本の五県なのだよと答えた動画を見た記憶があります。今、改めて思い出して、さすがだ!やはりそうなんだ!と一人で納得しています。つまり、あの国は世界の中心という中華思想から日本国民にだけ押し付けている国名なのです。ですから、例えば米国などはChinaですから「チャイナ」、「シナ」どちらで呼んでも侮辱したことにはなりませんよね(^_-)-☆。

そこで、なぜこの五県を中国と呼ぶのか?だれも気にしてはいないようですが、通説では大和朝廷のあった畿内と日本の玄関口の九州(筑紫)との中間にある地方だという説になっているようです。

しかしこれも記紀神話で葦原中国「あしはらのなかつくに」が、「高天原と黄泉国、根之堅洲国の中間に存在するとされる場所で、地上世界を指すとされる。」とあるためですが、「また、中国には「中心の国」という意味もある。」とあるのです(wiki「葦原中国」)。これは中華思想ではなく、大国主命が国造りした豊葦原水穂国を天孫のために国譲りさせたので、地上を支配させるために瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に天降りさせ支配させたという神話です。神武天皇が大和で即位する前から葦原中国という土地なのです。

だから、中国(なかつくに)は「中心となる国」という意味なので、通説の「中間の国」という意味ではないのです。

すでに解明した史実を考え合わせると、これは三世紀に纏向遺跡で日本が建国される前から中国地方が「なかつくに」と呼ばれていたということを意味しているのです。

107年に後漢安帝に朝貢した奴国宮廷楽師の師升らが反乱を起こし、国王であった宋史王年代紀第十八代王素戔嗚尊(スサノヲ)を殺して、倭国を奪った事件がありました(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。クーデターを逃れた奴国王族が移り住んだ場所が中国(なかつくに)なのです。

スサノヲの王子イタケルはムナカタ海人族に助けられて祖母イザナミの実家で成長し、その子孫が山陰から北陸・越(こし)を根拠地とするムナカタ族を束ねる王久々遅彦(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗)となって倭国大乱で活躍しました(注1)(2023.11.6 赤字追加)

師升の一族の伊都国男王難升米は苦しめられましたが、公孫氏が半島を平定し、204年に帯方郡を設置したので倭国は息を吹き返し、菊池川流域の最前線基地で指揮を執っていた久々遅彦を奇襲して討ち取った事件があったと推理しています。王を喪って途方に暮れていた玄界灘を支配して半島南部の鉄を狗奴国勢に供給していた赤坂比古(和邇氏の祖)が難升米に懐柔され、姫巫女(卑弥呼)の告げる太陽神の神託に従って政治を行う条件で狗奴国を裏切って倭国側についたと推理しました。その時、北九州の赤坂比古の陣屋(八束鬚神社、現在北九州市仲宿八幡宮)に居た幼い王子高野御子(たかのみこ、のちの大国主とされた人物)が赤坂比古に身一つで生まれ故郷の兵庫県豊岡市竹野町鷹野神社元宮(五社神宮)に追放されたときの話が因幡の白兎の神話とされています。ウサギは宇佐(兎狭)で最初の国造りを行った大国主のことでした(「新説「因幡の白兎」だ!」「【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。



奴国はナーガ(龍蛇神)を信奉する国という意味で(注2)、奴国初代王は天御中主(あめのみなかぬし)です(「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。天は海を意味するので、ナーガを信奉する海人族の王という意味なのです。地名にも那珂、那賀、長柄、中山などナーガに因む地名が各地にあります。江南出身の倭人(アズミ族)が入植した地名につけられました。(2023.11.6 赤字追加)

そして、スサノヲの弟ニギハヤヒも奴国を脱出しています。吉備は瀬戸内航路の汐待で人々が賑わう場所でした。製塩も行われていました。国生み神話の場所のひとつですので、父である第十七代王伊弉諾尊が部下に支配を任せていたのだと推理しています。倭国の対外交易の名産品のひとつが海産物で、保存のために大量の塩が必要だったはずです。師升王の倭国で交易をするために讃岐や播磨などの人々が途中吉備に立ち寄り、吉備でも交易が盛んにおこなわれたはずです。裏切り者の在地の豪族が吉備に集まる人々から徴税して隆盛になっていたので、ニギハヤヒはムナカタ族の支援を受けて吉備の勢力を討ちました。吉備を平定して隆盛になり、奴国を再興したと推理しています(「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。

王年代紀第十九代王天照大神尊(先代旧事本紀の天照国照彦火明饒速日尊)です。ヤマト王権の基礎を築いたので倉敷市楯築王墓に葬られた人物だと推理しています。楯築神社のご神体亀石は中国神話で人類の始祖神とされる天皇伏羲と同じ人面蛇体なのです。纏向遺跡で見られる弧帯文もナーガ(龍蛇神)のデザインなのです。新唐書に「日本は古の倭の奴国」とあるとおり龍蛇神の国、龍王が支配する国なのです。


(三皇五氏系列之伏羲氏:被尊为三皇之首)


このニギハヤヒ大王が居た吉備と最初に見た奴国王スサノヲの子孫の大国主が、出雲・伯耆・因幡・備後などを活動域としていましたので、「中国」は「なかつくに」つまり奴国王(ナーガ)の国という意味だったのです。

安芸は「呉(広島)の地名の由来は?「榑(くれ)」とは造船用の木材を意味する」にあるとおり、古代から奴国王(龍王)配下の海人族が森林を育成・伐採し丸木舟を生産していたようです。

残る山口県は長門というのが古い名称ですからナーガの国への入り口を意味する地名です。以下の日本書紀に基づく通説「穴戸・穴門」よりは古いはずですよ(^_-)-☆。

長門は、古くは「穴門(あなと)」と呼ばれ、「穴戸」と書くこともあった。『日本書紀』によれば、大化6年(650年)穴戸の国司(草壁醜経)が白雉を献上した。天智4年(665年)には長門国が初見される。この間に改められた。 穴門とは海峡(関門海峡)を指しており、日本神話にも「穴戸神」の名が見える。古墳時代に成立した穴門国造の領域と阿武国造の領域をあわせて、7世紀に穴戸国が設置された。7世紀後半に長門国に改称した。」(Wiki「長門」)。

(注1)富来隆『「虚空津姫」と「狗古智卑狗」と』(大分県地方史研究会、大分縣地方史 32-33 1-9, 1964-01)に、狗古智卑狗の発音は、(カジリ)に使う琴が前漢時代(紀元前二世紀から一世紀)に空侯(クウコ)と呼ばれることから空侯ツ彦(クコツヒコ)かもしれないと指摘しています。そうすると狗古智卑狗「空侯ツ彦」はカジリに使う琴によって武内宿禰と一致します。また木霊(久々遅命)と指摘されていることから、スサノヲの王子イタケルと一致することが分かりました。全国で行われている上棟式の祭神が屋船久々智命で兵庫県豊岡市久久比神社の祭神久々能智神(くくちのかみ)だと分かりました。

(注2)富来隆「卑弥呼」(学生社1970 )に「蛇神をトビ・トベとよぶことのほかに、なおナガ・ナガラの呼び名もあったらしい」とあります(p.94)。ナーガに因む地名についても解説されています。一部抜粋されたものをネットで見ることができます。

【関連記事】
中国神話は日本人の神話だった?
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その19)2022-08-27



王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




ということで通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

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6 コメント

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「中国」の起源 (ToTYourDay)
2023-11-06 23:50:15
 要件のみにて失礼。
 言うまでもなく、「中国」なる二字単語は、中国文明発祥時代から通用し、貴兄の愛好する「孟子」をはじめ、大量の古典書に、山のように現れて、列島に漢字が伝わる遥か、遥か以前から通用しているように見えます。
 後世まで列島に将来されなかった「孟子」を引き合いに出すのはまずいとしても、陳寿「三国志」魏志第三十巻には、東夷伝以外でも、裴注の魚豢「魏略」西戎伝の補追にも「中国」が頻出します。貴兄は、時に、聞きかじりに、一も二もなく同調しますが、簡単に裏が取れるものは、ご自身の目で確認されたらどうかと思います。
 因みに、貴説で纏向(遺跡?!?)で三世紀に「日本」が建国されたとの意見がありますが、根拠となる文献資料はあるのでしょうか、大変、不合理なご意見と思います。
 なお、「シナ」が好ましくないのは、高名な岡田英弘氏の少壮時代、つまり、戦前、軍部と周辺の賊徒が戦意昂揚のために、しきりに「シナ」と蔑称していたことから来るものであり、別に、英語がどうこう言うものではありません。
 ひょっとして、貴兄も、戦前、戦中に、この蕃風に同調していたのでしょうか。<??>
 大変、危惧されますから、控えた方が良いと思うのです。いえ、これは、何も貴兄に強制しているものではありません。ご参考までです。
以上
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Re:「中国」の起源 (刮目天 一(はじめ))
2023-11-07 06:19:23
いつも、貴重な意見を頂戴して有難うございます。今回の記事は東アジア大陸に興亡した王朝の呼称の是非の話ではありません。日本の古典に表れる日本列島の「中国(なかつくに)」と中国地方の由来を話題にしたものですが、確かに、さわりで石原慎太郎氏の話題を出したので、そのような辛口のご意見を頂いたのだと思います。

しかし「シナ」という呼称が、中共やその人民に対する蔑称だというのは、正しい理解ではないと考えています。むしろ侮蔑や迎合などの感情を取り払った中性的な呼称だと考えているので積極的に使っています。

これは説明が長くなりますが、「シナ」という呼称は漢字で「支那」と書かれます。wiki「支那」にその語源が詳しく解説されていますが、かいつまんで説明します。

「支那」は大陸の人々も使用した時期もあるようです。『7世紀の玄奘の時代には仏教関係の書物で中国を賞賛する意味合いで使われていたと考えられるが、18世紀頃にはすでに中国で「支那」という表現が一般に使われることはなくなっていた[5]。』とあります。

日本においても漢訳仏典を通じて空海が使用したとあります。明治政府は清と国交を結んでから清国と呼んでいましたが、アヘン戦争に敗北し改革が遅れたことから悪い印象がもたれて、この時期に日本で使われた「支那」にはこれらが反映された蔑称だという指摘があるようです。当時の日本は大日本帝国という正式名称があり、東アジアの盟主の地位を得た「アジアの一等国」ですから、多くの日本人も他国を対等に見ていなかったとは思います。

しかし、現代ではそのような状況ではありませんので、古来より興亡を繰り返した東アジアの大陸国家に対しては、歴史的に見て世界の中心の国という中華思想の表れである「中国」という呼称を使うかどうかは、日本人の自由だと思います。むしろ、日本やその他の国々を蔑視した中華思想に迎合することになると思いますので、戦前も戦後もアジアの盟主であった日本人の気概を無くした情けない話だと思います。これはこの三十年間日本国民が容認してきた国民貧困化政策の表れでしょう。早くまともな国に戻って欲しいものです。

> 後世まで列島に将来されなかった「孟子」を引き合いに出すのはまずいとしても、陳寿「三国志」魏志第三十巻には、東夷伝以外でも、裴注の魚豢「魏略」西戎伝の補追にも「中国」が頻出します。貴兄は、時に、聞きかじりに、一も二もなく同調しますが、簡単に裏が取れるものは、ご自身の目で確認されたらどうかと思います。

ということで、このご指摘は的外れだと思います。また、このご意見の中に「孟子」が「後世まで列島に将来されなかった」というのは何が根拠か是非知りたいので、お教えください。

当方は「伊都国の意味がヒントだった?」で述べたように当時の倭国王難升米が楽浪人などとの交流によって「孟子」で述べられた殷王朝初期の政治家伊尹(いいん)の事績を知り、范曄「後漢書」にある師升が王都とした「回土(ウィト)国」を「伊都国」と書いたと分かったのです。実際、当方は漢籍に堪能ではないので、聞きかじりに近いものですが、この事実は、邪馬台国論争を解決に導く大発見だと自分で思っていますので、もしもこの点についてご異論をお聞きできると幸いです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
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日本建国に関する史料 (刮目天 一(はじめ))
2023-11-07 07:51:10
>因みに、貴説で纏向(遺跡?!?)で三世紀に「日本」が建国されたとの意見がありますが、根拠となる文献資料はあるのでしょうか、大変、不合理なご意見と思います。

ヤマト王権の成立は、三世紀初頭に大和盆地の最初の宗教・政治都市纏向遺跡が作られて、210年頃に前方後円墳纏向石塚古墳が造成され、その後、日本列島に普及します。三世紀より前には大和盆地に王墓とよべるものが出土していません。

根拠となる文献史料は記紀になります。ただし、政治的に創作されたので初代神武天皇から、初代大王と考えられる崇神天皇までは創作です。崇神天皇の四道将軍の遠征ルート上に三世紀後半の矢戦の跡が出土しています。また景行天皇の九州遠征のルートにも同じ時期の戦争の痕跡が見られ、考古学や民俗学の証拠から尾張王建稲種命の事績だと推理しました。日本建国の英雄ヤマトタケルのモデルとして記紀に記されていることが分かりました。そして崇神天皇紀に三輪山の大物主大神(大国主の和魂)の神託があり、初代大王として応神天皇がヤマトの最初の祭祀王として即位したことが判明しています。古代史解明において、文献は、書かれた内容が政治的なものですので考古学などの成果から推理する必要がありますが、文献が無ければ歴史を書くことができないのは明らかですね(^_-)-☆
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「孟子」談義 (ToYourDay)
2023-11-08 14:36:18
 簡単なところから説明します。
 『孟子の天命説(革命説)そのものは、{中略}日本の一姓相伝(万世一系)的な国体観と合致しない。そのため、中国の航海者たちの間には、明代の「有携其書(孟子)往者舟即覆溺」(五雑俎)などのように、孟子を積んで日本に向かう船は沈むという伝承があった。』 -Wikipedia
 「などのように」とまとめているように、用例は、一件とか数件でなく、又、明代に言い出されたものでもなく、広くそのように言われていたと言う事です。(明代以前に将来されていた記録があるようです)
 肝心なのは、「日本」ができる前から、中国では、「孟子」の思想は流布していたということです。貴兄ほどの博学の士が、Wikipediaを読んでおられないとは、意外です。要点は、「倭国王」が、「不徳の王」は排斥される、という「孟子」思想を好んだとは思えないということです。
 因みに、伊尹自体は古来有数の有名人なので、別に、「孟子」を読まなくても、「史記」などの史書に語られているものと理解しますから、「孟子」に固執さえしなければ、ここは通過できるのです。
 因みに、古田武彦氏は、第一書において、「伊都」を、「伊」の字義から、『本来の「都」(みやこ)』と解していて、貴兄と軌を一にしているようですが、当方は、「倭人伝」に都(みやこ)はないという意見なので、にわかに同調できません。念のため。
 ちなみに、当方は、貴兄と基調が違うので、「聞きかじり」を、他文献で確認せずに「事実」と賞美することは避けています。
以上、一件限りの応答で失礼。
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「纏向遺跡」談義 (ToYourDay)
2023-11-08 14:59:51
二件目です。
「ヤマト王権の成立は、三世紀初頭に大和盆地の最初の宗教・政治都市纏向遺跡が作られて、210年頃に前方後円墳纏向石塚古墳が造成され、その後、日本列島に普及します。三世紀より前には大和盆地に王墓とよべるものが出土していません。」
と回答いただいたのですが、指摘の意味が通っていないようなので、蒸し直し傍ら、問い直します。
 「ヤマト王権の成立は」なる主語の述語はどこに行ったのでしょうか。「日本列島に普及します」なのでしょうか。
 「大和盆地の最初の宗教・政治都市」とは、何の意味でしょうか、三世紀時点、そのような言葉は存在しません。「都市」は、倭大夫「都市牛利」にしか現れません。
 「纏向遺跡」に、感嘆符、疑問符を付けた趣旨はご理解いただけなかったようです。三世紀に「遺跡」というと、当時の「権力者(?)」から、「わしはまだ生きとる」と叱られそうです。
 三世紀とか二百十年ごろとか確定的におっしゃいますが、どんな文献資料で、確定的に裏付けられているのでしょうか。
 貴兄の論考の「真の論敵」は、中国で厳密に編纂されていて、根拠も時代も明確な「倭人伝」です。余程、余程丁寧に論じなければ、それこそ、ごま粒ほどの「躓き石」で転けてしまいます。脚もとが固まっていてこその辻説法でしょう。
 くれぐれも、ご自愛いただきたいものです。
以上
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Re:「孟子」談義 (刮目天 一(はじめ))
2023-11-08 20:29:25
またまた、貴重なお時間を頂戴してとてもありがたいコメントをいただきました。心より感謝いたします。
「後世まで列島に将来されなかった」のご説明ですが、wikiに孟子の天命説(革命説)が日本に根付きにくいという記事は当方の伊尹の事績と直接かかわりがないので読み飛ばしていました。
万世一系の日本の国体観とは相いれないことは、おっしゃる通りですが、二世紀初頭に奴国の王権を奪った宮廷楽師師升の思想はまさに革命説に基づくものです。二世紀末から三世紀半ばに活躍した倭国王難升米が孟子を読むはずないと決めつけるようなご指摘はあたらないと思います。と言いますのも、「孟子 盡心上編」には以下のわずか二行の文章しかないようです(中國哲學書電子化計劃より引用)。
公孫丑曰:「伊尹曰:『予不狎于不順。』放太甲于桐,民大悅。太甲賢。又反之,民大悅。賢者之為人臣也,其君不賢,則固可放與?」
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孟子曰:「有伊尹之志,則可;無伊尹之志,則篡也。」

倭国王難升米は自分の祖父か曽祖父の師升の行為を正当化するために、伊尹についてより詳しく書かれた「史記 殷本紀」も読んだものと容易に想像できます。
その上で倭国王師升の子孫の難升米以外に倭国の王都の回土(ウィト)国を伊尹に因む伊都国と書いたものと断言できます。伊都国と書ける人物は魏志倭人伝の登場人物の中で彼以外に考えられないということなのです。

お陰様で、ご指摘の『「孟子」に固執さえしなければ、ここは通過できるのです。』により、難升米が「孟子」や「史記」を読んだ上での行動だったと確信できました。どうもありがとうございます。

>因みに、古田武彦氏は、第一書において、「伊都」を、「伊」の字義から、『本来の「都」(みやこ)』と解していて、貴兄と軌を一にしているようですが、当方は、「倭人伝」に都(みやこ)はないという意見なので、にわかに同調できません。念のため。

古田氏の第一書も目を通していませんでしたが、これは「伊」の漢字の説明にあったので気づきました。『本来の「都」(みやこ)』の第一義は「天子の居城」ということで間違いないと思います。先生が「(魏志)倭人伝」に隠された難升米が本当の倭国王だったことに気づかれていなかった、いやまだ認めておられないということだと思います。「基調」が違うのではなく事実を事実として受け入れる姿勢が重要だと感じる次第です。生意気な回答でまことに恐縮ですが、真実を追求する立場からですのでどうぞお許しください。
より理解が深まりましたのでとても有難いです(^_-)-☆
 
次の話題「纏向遺跡談義」の回答を作りましたが、長くなったのでブログにしますね。少々お待ちください(^_-)-☆
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