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┃□□□ 致知出版社社長・藤尾秀昭の「小さな人生論」
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┃□□□ 2012/8/15 致知出版社( 毎月15日配信)
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│121 │8月15日――「先縁尊重」に生きる
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『致知』はこの9月1日発行の10月号で創刊34周年になります。
創刊からこの雑誌の編集に携わってきた者としては
随分と長い道のりを歩いてきたという実感があります。
この34年、
それぞれの一道を拓いてきた人たちに折に触れ、
させていただいた質問があります。
それは
「人生で大事なものは何か」
という質問です。
たくさんの人たちの答えを一語に集約すると、
「先縁尊重」
という言葉に表現できると思います。
原点の人を忘れないで、大事にするということです。
例えばAさんからBさんを紹介され、
Bさんと大変親しくなり、Aさんを忘れてしまう。
あげくは無視したり、不義理をする。
そういう原点の人を大事にしない人は
運命から見放されてしまう、ということです。
私の知っている経営者にこういう方がいます。
その人は丁稚奉公に入った店の主人から、
ある日突然、理不尽に解雇されたにもかかわらず、
毎年正月に、
その元主人の家に年始の挨拶に行くことを欠かさなかった、といいます。
普通なら恨みに思っても不思議はないところですが、
自分がこうして曲がりなりにも商いをやっているのは、
その元主人が自分に仕事を教えてくれたおかげだという原点を
忘れなかったのです。
この人はまさに先縁尊重を実践した人です。
この人の会社が創業44年、なおも隆盛しているのは、
この精神と無縁ではないと思います。
先縁の原点は親です。
親がいなければ、私たちは誰1人この世に存在していません。
その親を大事にしない人は、やはり運命が発展していきません。
親は、いわば根っこですね。
根っこに水をやらなければ、あらゆる植物は枯れてしまいます。
親を大事にするというのは、根っこに水をやるのと同じです。
「父母の恩の有無厚薄を問わない。
父母即恩である」
と西晋一郎先生はいっています。
まさに、至言です。
この覚悟のもとに立つ時、人生に真の主体が立つのだと思います。
そして、その親の恩をさらにさかのぼってゆくと、
国というものに行きつきます。
この国のあることによって、
私たちの祖先はその生命を維持継承してきたのです。
即ち、国恩です。
国恩あることによって、私たちはいまここに、生きています。
最近はこの“国の恩”ということを意識する人が少なくなりました。
そういう国民は発展しないと思います。
いま日本に確たるものがなく、
漂流しているがごとき感があることと、
国恩という言葉も意識も薄れていることとは無縁ではないと思います。
幕末明治の人、山岡鉄舟にこういう言葉があります。
人は至誠をもって、四恩の鴻徳(こうとく)を奉答し、
誠をもって、私を殺して万機に接すれば
天下敵なきものにして、これが即ち武士道である
武士道とは人間道、人生道といい変えてもいいでしょう。
四恩とは国とか親とか主君とか先祖とか天の恩。
鴻徳とは計り知れないほど大きいということ。
即ち、そういう目に見えない四恩に答え、
私心なく、自分のやるべき仕事を誠を尽くし
全力をもってやりきれば、天下に敵がなくなる、ということです。
これは何も武士だけに限りません。
一般の人も含めて、かつての日本人が共通して持っていた価値観です。
こういう思いこそ、
日本を日本たらしめているものの根底にあったものです。
ローマはローマたらしめているものを守ろうとする意識が薄れて滅びたといいます。
私たちは後世に対して
日本を日本たらしめているものを守っていかねばなりません。
8月15日、日本敗戦の日。
この原点を忘れず、
りりしい国づくりに微力を尽くしていきたいものです。
熊本県の勇志国際高等学校の校長・野田将晴氏が月刊誌「致知」の最新号(9月号)の「日本人の誇りを取り戻せば子どもたちは変わる」という対談の中で、こんな体験を述べていました。
氏は県警時代、24歳の時青年協力隊でマレーシアに行った。向こうでは、「戦争の話は絶対するな、石を投げつけられるから」と耳にたこができるぐらい、言い聞かされたが、いざ現地では戦争の話ばかり聞かされたそうな。「日本のおかげで、マレーシアは独立できた」と。
でも、半信半疑だったが、ある時、自分が柔道を教えているラティフという青年に、なぜキミは日本人の若者を見ると家に連れ帰って家族で歓待するのか、聞いてみた。
すると彼は、
「僕はマレー人だ。しかし、誰よりも天皇陛下を尊敬している。マレーシアは何百年もの間、イギリスの植民地化にあり人々は奴隷の如く扱われてきた。
独立は絶対に不可能と思っていた。そこに日本軍が来て僅か五十日でイギリス人を追い払ってくれた。その経験が戦後マレーシアの独立に繋がった。
大東亜戦争の後、日本人は謝ってばかりだけれども、なぜそんなバカなことをするのか。日本の若者は祖国の歴史をもっと誇りに高く思ってほしい、それに気づいてほしい」
といって、だんだんが語気を強めながらオイオイ声を上げて男泣きに泣きだしてまった。
そのとき以来、野田氏は、私はこのことを日本の若者に伝えなければいけないと思い、地方議員時代は東京裁判の間違いを一貫して訴えてきたし、現在は校長なので、子どもたちに正しい教育教えるのが私の役割と明言しております。
もう一つのエピソードも、「致知」から得た内容だが、何月号だったか失念しましたが、そのときメモを元に再現すると、おおむねこんなお話でした。
ある日本の女性がインドネシアをおとづれたとき、「日本はあなたの国を占領して大変ご迷惑をかけた」と挨拶した。
応対したインドネシアの教授から「とんでもない。私たちは日本が大好きです」と女性にとって意外な答えが返ってきた。
日本がくる前にやってきたオランダはインドネシアを何百年も統治したが、この国から何でもかんでも取っていくばかりだった。しかし、日本はオランダを追い出し、そのあとインドネシアのために学校をたて、産業を起こした。
日本は戦争に負け帰っていたが、日本人が教えた独立の精神はしっかり根付いており、国民は銃をもってオランダと戦い悲願の独立を果たした。その戦いのために残って参加し命を落とした日本人もたくさんいる。といったことを教授は日本の女性に話したという。
でも植民地にしたことは良くないと、日本女性は反論した。すると教授はこういった。
日本が「植民地」にした韓国や台湾はいまや先進国の仲間入りをしているが 、欧米が統治した国でそこまで発展した国がありますかと反論した。これには、女性もぐの音もでなかった。こうして女性は、それまでもっていた自虐史観を脱却できたという。
通信制の学校でありながら、
歴史教育、道徳教育を通して日本人の誇りを植え付け、
問題行動を起こす生徒たちを更生させていった
熊本県の勇志国際行動学校の野田将晴校長。
┌───今日の注目の人───────────────────────┐
歴史教育で生徒たちを変えていった
野田将晴氏の名言
『致知』2012年8月号
特集「知命と立命」より
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●日本人としての誇りを取り戻すことさえできたら、
人間としての誇りも自分に対する自信も取り戻せる。
そこから夢や希望が湧いてくる。
人を愛することもできるようになる。
この7年間で私はそれを確信しました。
●教育は国家百年の大計であるといわれます。
若者の姿を見れば日本の将来が見えてくるという意味で、
私は校長に就任して極めて深刻な危機感を
持たざるを得ませんでした。
私が感じた現代高校生のイメージは「幼い」の一語でしたね。
いい替えれば極端に自己中心的なんです。
これこそまさに戦後の人権教育のツケだという思いを強くしました。
●私は教育に携わってまだ8年目ですが、
いろいろな世界が広がってきました。
その中で一つ確信を得たのは、
教育の本質とは祖国の尊い歴史と文化を
次世代に語り継ぐ営みだということでした。
生徒と教師が祖国への誇りを取り戻せば、
いまマスコミを騒がせる問題の多くは
解決できるのではないでしょうか。
●教育者は、先ず自らを常に鍛錬する姿勢が求められるし、
その姿勢があって始めて生徒に対して指導する資格がある。
生徒に志を持てと指導する以上、
教師自らが高い志を持っていなければならない。
使い古された言葉ですが「教師は聖職者」です。
働く環境をデザインすることによって社員の意識や働き方を変え、より高いパフォーマンスを発揮することができるのです。
固定観念に囚われず、本質を突き詰めていけば、答えは必ず見えてくる。
全然知らない分野の仕事を依頼されることも多いので、「アイデアが尽きることはありませんか」と、よく質問を受けるんですが、アイデアは自分が無理矢理ひねり出すものではなく、答えは常に相手の中にあると思っています。
僕はいつも、打率10割、すべてホームランにしようと思ってやっています。何人ものクライアントを抱えていると、つい目の前のクライアントを大勢いる中の一人と捉えがちですが、それは違います。
クライアントにとっては1回、1回が真剣勝負で、社運を賭けて臨んでいるわけですから、失敗なんて許されないですよ。
商品の本質を見抜く上で最も大事だと思うのは、「そもそも、これでいいのか?」と、その前提が正しいかどうかを一度検証してみることです。
過去の慣習や常識にばかり囚われていては、絶対にそれ以上のアイデアは出てきませんから。
自分が常にニュートラルでいること、それが重要です。邪念が入るとダメですね。
人間なので好き、嫌いとか気性の合う、合わないは当然あるじゃないですか。ただ、合わない人の言っていることでも正しければ、その意見に従うべきですし、仲のいい人でも間違っていれば「違いますよね」と言うべきでしょう。
感情のままに行動するのではなく、必要かどうかを判断の拠り所とする。いつも本質だけを見ていようと思っていれば、判断を間違えることはありません。
内村航平選手の金メダル獲得などで、
全国に感動を与えたロンドン五輪・日本体操男子。
本日は、大阪の清風中学体操部の団体20連覇に大きく貢献し、
選手育成に携わり、冨田洋之、鹿島丈博、西川大輔、池谷幸雄ら
数多くのオリンピック選手を育てた城間晃氏のお話をご紹介します。
┌───今日の注目の人───────────────────────┐
「宝くじは買わないと当たらない」
城間晃(シロマスポーツクラブ理事長)
『致知』2009年5月号
特集「執念」より
http://www.chichi.co.jp/monthly/200905_pickup.html#pick2
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私が日頃から一番よく言うのは「人に聞け」ということですね。
体操は自分で点数をつけるんじゃない。
人が見て点数をつける。
人が感動するような演技をするためには、
人に聞けばいいんです。
八百屋のおじさんでも誰でもいいから、いろんな人に聞け。
とりあえず千人の人に聞け。
そうしたらおまえは頂点に立てるよ、と。
そして「教えてもらえる人間になれ」と。
そのためには挨拶もそうですし、
礼儀もわきまえていなければいけません。
もう一つは「宝くじは買わないと当たらない」ということです。
オリンピックも「行こう!」と思わないと行けない。
宝くじを買いもせず、じっと待っていても
当たるわけがないのと同じように、
強くなろうと努力もしていない、
そう思ってもいないのに、強くなれるはずがない。
本当にそう思ったら、ちゃんと行動に移すはずです。
「人の話を聞く」という事柄にしても、
結局大切なのは基本ですよね。
木でも、根っこがなければ幹や枝の部分が伸びた時に
倒れてしまいます。基本というのは根っこのことなんです。
高度な技術ばかりいくら磨いて試合に勝ったとしても、
必ずスランプに陥る時がくる。
その時に、選手はもう一度基本に戻らないといけないんです。
でも基本ができていなければ、戻れるところがない。
だから私は、ちゃんと根っこを張ってから上を伸ばしていけと、
選手や指導者らに言うんです。
最初が肝心、最初に目いっぱい時間をかけるべきですね。
基本を確実に百%やる。
そこから進めなければ、一流選手にはなれません。
┌───今日の注目の人───────────────────────┐
「後輩の仕事観を変えた27歳の説教」
横田尚哉(ファンクショナル・アプローチ代表)
『仕事力入門』より
http://www.chichi.co.jp/book/shigotoryoku_nyuumon.html
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就職活動で苦労して会社に入ったものの、
理想と現実のギャップにぶち当たり、
外れくじを引いたように感じている人も多いかもしれません。
しかし本来仕事には、当たりも外れもありません。
当時はつまらなくて仕方がないと思っていたはずの仕事が、
後にその人の大きなベースとなるようなことが
往々にしてあるのです。
私が入社して四年半が経ち、二十七歳になった時のこと。
広島に技術部門が新設され、私は大阪本社から転勤を命じられました。
その広島の勤務地に、新卒で入社してきた
後輩のエンジニアがいました。
他の同期は東京や大阪本社に配属され、
彼一人だけがぽつんと広島にいる。
周りの先輩とは年が離れていて普段話せる人もいない。
季節は夏を迎えていましたが、
彼は毎日つまらなさそうな顔をして
図面と向き合っていました。
私はそんな彼に「いま何の仕事をしてる?」と声を掛けました。
すると彼は
「横田さん、私もう、ずっとこんな雑務ですよ。
同期は東京で打ち合わせに参加したとか、
自分の資料がプレゼンに使われたとか、
楽しそうに話してる。
自分はアルバイトにでもできるような
雑務ばっかりさせられて……。
もっと技術屋的な仕事がしたいです」
と言って不貞腐れていました。
私は「あぁ、そうか」と返事をして、もう一度、
「おまえがいまやっているのはどういう仕事なの。
その図面の縮尺は何分の一?」と聞きました。
すると彼は「えっ、ちょっと待ってくださいよ」と言って、
端っこに書いてある縮尺の数値を読もうとした。
「おまえ、数字を見ないと分からないのか。
半年間もずっとその図面の作業をしてきて、
いまだにそれを見ないと分からないのか。
半年間勿体ないことしてるよなぁ。
一つの図面を散々見続ける経験なんて滅多にできんことやで。
どんな図面がきても、これは何分の一の縮尺だと
パッと見て言える。それが技術屋の仕事というもんや。
おまえは朝から晩までそれだけをしていて、
なんで覚えられんのや」
私の言葉を聞いて、彼は初めてハッとした表情を浮かべ、
「自分はこの半年間、雑務としか思いませんでした」
と言いました。
「おまえの先輩が雑務としてこの仕事を与えたか、
経験として与えたかは分からない。
いずれにせよ、おまえはそれを経験にはしなかった。
この半年間ただ“消費”をしただけで、
“投資”にはなっていない。
図面を見ただけで、縮尺も何も瞬時にして分かる。
その技術は教科書にも書いていなければ、
学校の先生も教えてくれない。
これは経験でしか得られないものなんや。
おまえはその経験の場を与えられてる。
おまえはすごく恵まれてる。
同期の人間なんかより、おまえのほうがずっと恵まれてる。
それをおまえは分かってないだけや」
彼はこのことがあってから、目の色を変え、
嬉々として自分の仕事に励むようになりました。
二十代は夢や理想が人一倍強いため、
会社や上司に文句を言いたくなることも多いかもしれない。
でもそれは自分の知っている、
ごく狭い世界の話であることが多いのです。
広島にいた彼は、いま自分が置かれている環境で
できることは何だろう、ここにいる特権とは何だろうと
考えたこともなく、無益な日々を送っていた。
しかしここから何を学んでいこうかという気持ちや、
何かを得てやろうという思いさえあれば、
誰もが充実した日々を過ごせるはずなのです。
┌───今日の注目の人───────────────────────┐
「京セラ創業期秘話 ~前篇~」
稲盛和夫(京セラ・日本航空名誉会長)
『人生と経営』より
└─────────────────────────────────┘
創業して3年目(昭和36年)の5月、
会社は順調に発展していたが、私は自分の考えを
根底から覆されるような事件に遭遇した。
研究者として、自分の開発したファインセラミック技術を
世に問いたいということが、会社設立にあたっての
直接の動機であったが、そのような私の姿勢を
根本的に見直さなければならなくなったのである。
前年春に採用した高卒男子11人が、
血判まで捺した要求書を持って、
私に団交を申し入れてきた。
要求書には、定期昇給やボーナスの保証などの
要求が記さている。
彼らは、その要求書を私に突きつけて、
「会社が将来、どうなるのかわからず、不安でたまらない。
毎年の昇給とボーナスの保証をしてほしい。
もし、保証できなければ、
いつまでもこの会社に勤めるわけにはいかない」
と言う。
私には、とても彼らの要求をのむことはできなかった。
初年度から黒字を出すことができたとは言え、
会社はいまだ手探りの状態で、明日のことなど皆目わからない。
1年先の保証すら請け合えるものではなかった。
しかし、彼らは自分たちの要求が聞き入れられなければ、
全員が辞めると言う。
会社で話し合っても埒(らち)があかないので、
私はその頃住んでいた京都、嵯峨野の市営住宅に
場所を移して話し合いをつづけた。
「先々の給料やボーナスを保証しろというが、
今日どうやって飯を食おうかと日々悪戦苦闘しているのに、
そんなことができるわけがないじゃないか。
君たちを採用するとき、
『できたばかりの会社で、今は小さいが、
一緒に頑張って大きくしていこう』と言ったはずだ。
だから、なんとしても会社を立派にして、
将来みんなで喜びを分かち合えるような会社にしたいと考え、
このように毎日頑張って仕事をやっているのじゃないか」
私は、このように彼らに話し、懸命に説得を続けたが、
当時は社会主義的な思想が蔓延し、
労使の対立という枠組みの中でしか、
ものごとを見ない風潮があった。
そのため、経営者はいつも、そんなまやかしを言って、
労働者をだます。やはり、給与や賞与を
保証してもらわなければ安心して働けない」
と、夜が更けても頑として納得しない。
結局、3日3晩ぶっつづけで話し合うことになった。
3日目に私は覚悟を決めて言った。
「約束はできないが、私は必ず君たちのためになるように
全力を尽くすつもりだ。
この私の言葉を信じてやってみないか。
今会社を辞めるという勇気があるなら、
私を信じる勇気を持ってほしい。
私はこの会社を立派にするために命をかけて働く。
もし私が君たちを騙していたら、私は君たちに殺されてもいい」
ここまで言うと、私が命懸けで仕事をし、
本気で語りかけているのがようやくわかったのか、
彼らは要求を取り下げてくれた。
しかし、彼らと別れて一人になったとたん、
私は頭を抱え込んでいた。
(……明日へ続く)
┌───今日の注目の人───────────────────────┐
「京セラ創業期秘話 ~後編~」
稲盛和夫(京セラ・日本航空名誉会長)
『人生と経営』より
└─────────────────────────────────┘
(※本日はここから↓)
経営者である自分自身でも明日のことが見えないのに、
従業員は経営者に、自分と家族の将来にわたる
保証を求めていることを、初めて心の底で理解したからである。
私は、このことに気がつくと、
「とんでもないことを始めてしまった」と
思わざるをえなかった。
本来なら無理をして私を大学までいかせてくれた、
鹿児島にいる両親や兄弟の面倒をまず見るべきなのに、
それさえ十分にできていない私が、
経営者として赤の他人の給料だけでなく、
彼らの家族のことまでも考え、将来を保証しなければならない。
会社創業のとき、私が抱いていた夢は、
自分の技術でつくられた製品が、
世界中で使われることだった。
しかし、そんな技術屋の夢では、
従業員の理解は得られず、
経営は成り立たないということを、
この事件を通して初めて身に泌みて理解することができた。
会社とは何か、会社の目的とは何かということについて、
このとき改めて私は真剣に考えさせられた。
会社とは経営者個人の夢を追うところではない。
現在はもちろんのこと、将来にわたっても
従業員の生活を守るための場所なのだ。
私はそのとき、このことに気づき、
これからは経営者としてなんとしても、
従業員を物心両面にわたって幸せにすべく、
最大限の努力を払っていこうと決意したのである。
さらに、経営者としては、自社の従業員のことだけでなく、
社会の一員としての責任も果たさなくてはならない。
そこまで考えを進めたとき、
「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、
人類、社会の進歩発展に貢献すること」
という京セラの経営理念の骨格ができあがっていた。
突然の反乱劇で、そのときは驚き、悩み苦しんだが、
おかげで私は若いうちに経営の根幹を理解することができたと思う。
それは、経営者は自分のためではなく、社員のため、
さらには世のためにという考え方をベースとした経営理念を
持たなくてはならないということである。
これを創業3年目という早い時期から経営の基盤に置いた結果、
京セラはその後大きく発展することができたのだと私は考えている。
┌───今日の注目の人───────────────────────┐
トーマス・エジソンの発想法
浜田和幸(国際未来科学研究所代表)
『致知』2004年7月号
特集「熱意・誠意・創意」より
└─────────────────────────────────┘
「天才とは、1%のひらめきと99%の努力の賜物である」
1929年2月11日、エジソン82歳の誕生日に残したこの名言は、
おそらく世界中で一番よく知られている「格言の王様」でしょう。
「あの発明王エジソンですら、努力の大切さを言っているではないか。
やはり人は才能ではない、努力こそが大事なのだ」
と、努力を重んじる我々日本人にも、たいへん受け入れやすい言葉として愛され、
多くの人たちに、夢や希望を与えてきた言葉です。
ところが残念ながら、この言葉ほど間違った意味が世の中に流布し、
多くの人の誤解を受けている言葉はないのです。
エジソンは、肉体や精神、宇宙などに対し、
独特の世界観のようなものを持っていて、
自身の発明の原動力についてこう述べています。
「人間、自然界すべての現象は、われわれの思いもよらぬ
はるかに大きな未知の知性によって
運命づけられている気がしてなりません。
私自身も、これらのより大きな力によって動かされて、
数多くの発明を成し遂げることができました」
と。
この「はるかに大きな未知の知性」のことを
「リトル・ピープル・イン・マイ・ブレイン(頭の中に住む小人)」
と呼んでいたエジソンは、発想の原点である
リトル・ピープルの声を聞くこと、
つまり1%のひらめきを得ることが大事だと、
日記の中で繰り返し述べています。
「最初のひらめきがよくなければ、いくら努力しても無駄である。
ひらめきを得るためにこそ努力はするべきなのに、
このことをわかっていない人があまりにも多い」
と、自分の発言が世の中に誤った解釈で伝わってしまったことを
嘆いているくらいです。
エジソンは、発明や研究に行き詰まると、海辺に行き、
釣り糸を垂れるのが常でした。
ただし糸の先に餌はつけません。
潮風に吹かれ波音を聞き、自然の中に身を置くことで、
不思議と頭を悩ませていた問題の解決策が浮かんでくるというのです。
自然界や宇宙から流れてくる未知の知性のアイデアをキャッチし、
新しいひらめきを釣る。
エジソンの釣りには、そんな意味が込められていました。
しかし、これは天才・エジソンだからこそできることです。
では、私たちはどうすればよいのでしょうか。
エジソンは、研究に行き詰まったエンジニアにこんなアドバイスをしています。
「問題は君の考え方にある。
大事なことは、頭の中に巣食っている『常識』という理性を
きれいさっぱり捨てることだ。
もっともらしい考えの中に新しい問題解決の糸ロはない」