1、一つの慣性系αに置かれた時計がその慣性系の時間経過を示す。
これは「時計の中で進行する物理プロセスそのものがその時計が置かれた慣性系の時間経過の定義となっており、従って時計以外の場所で進行する物理プロセスの時間経過を示すことが出来る」という主張に基づいています。
そうしてこの主張は「時計Bの主張を認めた」としても変わる事はありません。
「慣性系の時間の定義そのもの」と言ってよいかと思われます。
従って「時計を使う以外の方法で慣性系の時間経過を知る事はできない」となります。
2、静止系に対して運動している慣性系はローレンツ変換を受ける。
その結果として「静止系から見ると運動している慣性系の時間は遅れる」と言うのが特殊相対論の結論である。
この主張に対しては今のところはそれに反する様な実験事実は見つかっていません。
「時間の遅れ」という現象そのものは存在している様です。
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さてそれでは一体時計Bの主張は何をひっくり返したのか?
「一直線上を運動する2つの慣性系αとβが存在した時にその2つの慣性系のうち、どちらの時間が遅れているのか、時計を使った測定では決定できない」というものが時計Bの主張です。(注1)
この主張を一般化すると「慣性系の時間遅れは時計を使った方法では測定できない」という事になります。
その主張に対して従来の主張は「時間の遅れはお互い様」というものです。
この主張はミンコフスキーに始まり、ランダウ・リフシッツに受け継がれています。
そうしてこの主張の基礎となってる考え方は「時計によって2つの慣性系の時間遅れは測定できる」というものです。
但しそうやって測定してみると、2つの慣性系は相手の慣性系が常に自分の慣性系よりも時間が遅れている事を見出す、と主張します。
そうしてこの状況をもって「時間の遅れはお互い様」と主張するのです。
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3、「時間の遅れはお互い様」という主張には「3つの時計を使って慣性系の時間を測定する事が可能である」という前提があります。その前提を詳しく見ますと
①、「それぞれの慣性系に置かれた時計の固有時を所定の手順に従って決定できる」がまずあります。(注2)
そうしてその次に
②、「その時計の固有時がその慣性系の時間の進み方そのものを示している」という認識があります。
そうであれば
③、「測定結果によって得られた時計の固有時を比較する事で、どちらの慣性系の時間が遅れていたか判明する」という結論に至るのです。
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しかしながらここで重大なパラドックスが現れます。
それぞれの慣性系に立つ2人の観測者によって同時ではありますが、独立して行われた2つの観測結果が一致しないのです。
それぞれの観測者は「お前の方が時間が遅れている」と「客観的な観測データに従って主張する」のです。
この状況はランダウ・リフシッツが説明している手順に従う限り逃れられない様です。
従って通説では「時間の遅れはお互い様」と主張する事になりそうしてまた「それでいいのだ」、「それが特殊相対論からでてくる結論である」と言うのです。
もう少し言うならば「そうなっていてもどこにも矛盾はない」、「その状況は妥当なものである」としています。
しかしながら時計Bはそれに対して「特殊相対論そのものを使って」異議を唱えました。
最終的に時計Bは「慣性系の時間遅れは時計を使った方法では測定できない」と主張します。
そうして時計Bの主張は「ローレンツ変換に従った主張」でありますから、特殊相対論の立場からはそれを否定する事はできないのです。
さてここで「時計Bの見方からすれば」上記3、で示した「『3つの時計を使って慣性系の時間を測定する事が可能である』という前提そのものがおかしい」という事になります。
それで3、の内容を以下、引用します。
『①、「それぞれの慣性系に置かれた時計の固有時を所定の手順に従って決定できる」がまずあります。(注2)
そうしてその次に
②、「その時計の固有時がその慣性系の時間の進み方そのものを示している」という認識があります。
そうであれば
③、「測定結果によって得られた時計の固有時を比較する事で、どちらの慣性系の時間が遅れていたか判明する」という結論に至るのです。』
①には異議は唱えません。時計Bも①には同意します。
しかしながら「②、に対しては時計Bは同意しない」のです。
従って当然「③、に対しては時計Bは同意しません。」
理由は以下の通りです。
「測定されたデータに基づいて通説では『観測者(=時計A)が立つ方の慣性系の時間よりも相手の慣性系(=時計B)の時間がおくれている』と結論を出します。
しかし時計Bは「いやそうではなくて、観測データに基づいて『お前の方(=時計Aの方)が時間が遅れている』」と主張出来る事を示しました。
つまり従来は「観測によって得られた一組の客観的なデータ」についてただ一通りの解釈が行われていただけでした。
そうして「そのように解釈するのが正しい」とされてきました。
その結果『観測者(=時計A)が立つ方の慣性系の時間よりも相手の慣性系(=時計B)の時間がおくれている』という結論になりました。
しかしながらその一組のデータに対してはもう一つの解釈の仕方があったのです。
そうしてその様に解釈すると「遅れているとされる慣性系が逆転する」のでした。
「そうであれば」と時計Bは言います。
『②、「その時計の固有時がその慣性系の時間の進み方そのものを示している」という認識があります。』という認識そのものがおかしいのだ、と。(注3)
つまりは「『2つの慣性系の時間の遅れは3つの時計を使う方法では測定できない』という様に認識を変えろ」と時計Bは言うのです。
さてこの時計Bの主張は成立するのでしょうか?
それについて以下、検討していく事になります。
注1:ここでいう「時計を使った測定方法」はランダウ・リフシッツが説明している手順によるものを指します。
そうしてこの「3つの時計を使った方法」が「従来から言われている、慣性系の時間の遅れを測定する標準的な手段」となっています。
それで時計Bが示した事は「時計を使った測定方法から得られた結果は2通りの説明が可能である。」という事です。
具体的には「2つの慣性系のうちどちらを静止系に選んでも得られた測定結果を説明できる」というものです。
注2:「所定の手順」とはランダウ・リフシッツが説明している手順そのものを指します。
そうしてそうやって得られた時計Aと時計Bの経過時間が固有時になる、という話は: ・もう一つの固有時パラドックス :で説明されています。
注3:一組の測定手順に従って一組の測定結果が得られます。
そうしてその測定によって「どちらの慣性系の時間が遅れているのか分かる」と言うのが通説の立場です。
しかし時計Bは「その測定結果からはどちらの慣性系の時間が遅れているのかは分からない」と言うのです。
ポイントは「時計Bは通説の解釈、つねに相手の慣性系の時間が遅れて観測される」を否定していないのです。
そうではなくて「通説の解釈が成立するならば、時計Bの解釈=通説と反対の結論に至る解釈も成立する」と言っているのです。
追記:時計Bの主張により修正が必要になった記事について
以下の記事内容は時計Bによって否定された認識
『②、「その時計の固有時がその慣性系の時間の進み方そのものを示している」という認識があります。
そうであれば
③、「測定結果によって得られた時計の固有時を比較する事で、どちらの慣性系の時間が遅れていたか判明する」という結論に至るのです。』
を前提として書かれています。
従って以下に示す記事内容は修正される事が必要になりますので、これらの記事を読まれる場合には相応の注意が必要となります。
時計Bの主張を取りますと上記の当方の主張は
「そのような矛盾した結論に導かれる客観的な観測データが得られる事はない」
ではなく
「得られた客観的なデータから慣性系αと慣性系βの時間の遅れを判断する事が間違っている」
と修正される事になります。
時計Bの主張を取りますと上記の記述の中で
『そう言う訳で当方の見る所、時計Bは 2秒÷0.6=3.3333・・・秒をさす、と言う事になります。
つまり
ΔT(B)=3.3333・・・秒』
は修正が必要になります。
修正結果は時計Bがいう様に、そうしてまたランダウ・リフシッツがいう様に
『ΔT(B)=1.2秒』
となります。
ちなみにその修正によって引き起こされる様にみえる、「その4」の本文で指摘している矛盾についてはページを改めて論じたいと思います。
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以下の3つの記事も修正が必要な部分がありますのでご注意願います。
・もう一つの固有時パラドックス