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特殊相対論、ホーキング放射、ダークマター、ブラックホールなど

・時間について特殊相対論からの考察
・プランクスケールの原始ブラックホールがダークマターの正体であるという主張
 

その4・アインシュタイン トリック or ポリシー

2024-11-20 04:16:14 | 日記

まあそれは言ってみれば「アインシュタインの持っていた哲学」でもあり「アインシュタインの思考の好み」でもあります。

あるいは「アインシュタインの直観」ともいえます。

そうして確かに「物理学は客観を扱うもの」=「実証第一」ではありますが、その「実証」をリードするものが理論でありますれば「そこには理論を作るものの主観=直観が反映されるのは当然である」というのが当方の立場であります。

そうして後日「実験等によってその理論が合っていた」となれば「よかったね」となり「合っていなかったら」「それは残念だった」となるだけの話です。

しかしながら「いずれにせよ、そのような理論をくみ上げた事」に対しては「それなりの敬意を払うべきであろう」というのもまた当方のスタンスであります。

 

さて前書きはこれくらいにして「アインシュタインの哲学=直観」はなんといっても「相対性原理」でありましょう。

それについてはアインシュタインは相当長く思考したものと思われます。

そうであれば1905年の論文が「相対性原理」という考え方で貫かれていたとしても何の不思議もありません。

そうしてまた「特殊相対論への突破口」となったのが「同時性の相対性であった」というのもまた本人が言及されている事です。

つまり「同時と言う概念は一つの慣性系の中でしか通用しない」というものです。

そうしてその時に「同時である」という事についてはアインシュタインは「時計と列車のホームへの到着の事例」をもって示しています。

つまり「時計の針が所定の位置に到達した」その瞬間に「列車がホームに到達した」のであれば「この2つの出来事は同時である」と定義しているのです。

つまり「ある一つの出来事=イベント」と「時計の針の位置」を結びつけたのです。

で、その際にポイントとなるのは「イベント」と「時計」との間の距離でしょう。

日常感覚でいえばそれは1mほどでしょうか。

あるいは言い方をかえれば「1秒間に光が走る距離に対して無視できる距離」と言ってもよいでしょう。

その距離をこえてしまっていては「イベント」と「時計が示した時刻」を結びつけるのは「妥当ではない」となります。(注1

 

さてそのようにして1つの慣性系のなかで2つの離れた場所で起きた「イベントA」と「イベントB」にそれぞれの時計を結びつけます。

「イベントA」は「時計A」、そうして「イベントB」には「時計B」です。

この時それぞれのイベントと時計の時刻は「同時である」を満たすことができます。

「イベントA」では「時計A」=tA

「イベントB」には「時計B」=tB

しかしながら「イベントA」と「イベントB」は距離 L だけはなれていますから、この場合「同時である」は上記の定義「1m以内にある事」を満たしていません。

そうであれば「2つの距離 L だけはなれた場所で起きたイベントAとBが同時である」という事を定義しなくてはならない、それがアインシュタインの問題提起でありました。

 

最初の「同時である」という事は「イベントとその近くにある時計との間の関係」でした。

これはまあ「一目でわかる事」でした。

そうして今問題にしている「距離 L だけはなれた場所で起きたイベントAとBが同時である」という事の判断は「一目ではわからない事」です。

距離 L>>>>1mだからですね。(距離Lは1mに対して相当に大きい、と読みます。)

さてそうなりますと「情報を交換するしかあるまい」となるのです。(注2

そうしてその場合通信される内容はtBという「イベントBが起きた時に時計Bが指していた時刻tB」となります。

で時計Aがその通信を受けて、tBがtAと同じになっていたら「イベントAとBは同時であるとしてよい」とアインシュタインは考えた、定義したのです。

 

それでその時にポイントとなる事は「時計Aと時計Bの時刻が合っている事」でした。

それさえできていれば後の「イベントAとBが同時であったかどうか」は判断が可能となります。

さてそうなりますと「離れた場所にある2つの時計AとBの時刻合わせをどうやるのか?がテーマとなる」、アインシュタインはそう考えました。

そうして「その時刻合わせには光を使うのが妥当である」としたのです。

そうしてこの時に「相対性原理の要請」から「光速は不変である」とし「光がAからBに行くときの速さとBからAに戻る時の速さは等しい」としたのでした。

くわえて「すべての慣性系においてこの条件は満たされている」としたのです。

これはコトバを変えますれば「すべての慣性系はこの事については同じである=同等である」となります。

ここがアインシュタインの「相対性原理に対する認識、理解から出てきている独自のスタンス、ポリシー」です。

 

さてそのように設定しますと「離れた場所にある2つの時計AとBは光を使って時刻合わせが可能」となります。

そうしてこの場合「時刻合わせが済んだ」という事は「2つの時計の針の位置はいつも同じ位置を指している」という事になります。

つまり「時計Bを時計Aの位置まで瞬間移動させても2つの時計の針はいつも同じ位置を指している」のです。

さてそうであれば「この慣性系内に置かれたすべての時計の針の位置を一つの位置に設定できる」つまり「この慣性系を代表する一つの時刻を指定できる」とアインシュタインはしたのです。

それは言い換えますと「すべての慣性系の時間軸はNT時間軸である」という宣言です。

 

さてこのようにして「すべての慣性系は同等である」という「相対性原理の認識」から出てくる答えは「すべての慣性系の時間軸はNT時間軸である」という結論に至るのです。

そうして「そのような結論に至る事」は「前提として置かれた相対性原理からの当然の帰結」なのであります。

 

さてそのようなアインシュタインでしたから「速度の計算方法・定義」についてはニュートン力学の定義をそのまま継承しています。

つまり「座標軸原点に置かれた時計の時間経過Δtで測定対象が到達した距離を割る」=「速度」になっています。

そうしてもちろんアインシュタインの慣性系はNT時間軸になっているますから「到着地点の時計Bの時刻から出発地点の時計Aの時刻を引いた差分」が「座標軸原点に置かれた時計で測定した時間経過」となります。

つまり

Δt=tB-tA

となっています。

ただしこの時に時計Aの時刻と時計Bの時刻は「アインシュタインが決めた意味で時刻あわせ完了」=「2つの時計の針の位置はいつも同じ位置を指している」です。

つまり「アインシュタインは一つの時計をもって速度を計算している」のです。

しかしながら実際にはローレンツ変換が扱っている速度は「2つの時計をもって速度を計算したもの」なのです。(注3

さてそうであればまたここでもアインシュタインはミスを犯している、それは結局「相対性原理が成立している」と主張することに起因する「避けられない間違い」であります。

 

さてその間違いに気が付かずにいる後世の物理屋さんたち、科学哲学やさんたちは「光速の片道測定はできるのか?」と問題にしています。

それはつまり「時計AとBをアインシュタインが定めたような時計の時刻合わせ」=「2つの時計の針の位置はいつも同じ位置を指している」という事が可能なのか、と議論しているのです。

あるいは「時計Bを時計Aの位置まで瞬間移動させても2つの時計の針はいつも同じ位置を指している」、そんな事ができるのか?、「できた」として「どうやってそれを確認できるのか?」と議論しているのです。

しかしながらそれは「速度の測定方法はニュートン力学で行われていた方法がそのまま特殊相対論でも通用している」という誤解に起因する議論であります。

加えてもう一つの誤解は「地球上に距離Lだけ離して置かれた2つの時計は静止慣性系に置かれている」=「相対性原理は成立している」と言うものです。

それでは「BT時間軸の中にある2つの時計をNT時間軸の中にある」と間違えている事になります。

さてその2つの誤解に気が付いていない現状では「光速の片道測定の議論は『何を話しているのかわからない議論』」になってしまっています。

 

ローレンツ変換は「時計AとBの時刻合わせというのは2つの時計の針の位置はいつも同じ位置を指している事だ」などとは一言も言っていません。

そう言っているのはアインシュタインでありまたその考え方を受け入れている物理屋さんと科学哲学やさんだけであります。

ローレンツ変換は「光速の片道測定は出来るしその結果は1Cだ」と言っているのです。

「もし測定結果が1Cになっていないなら、それは時計AとBの時刻合わせができていないから」であって「時計Bの針を光速の測定結果が1Cとなる様にずらせばいい」「それが正しい時計の合わせ方だ」と言っているのです。

 

注1:厳密な話をするならば「時計がある場所で起きたイベント」でないと「そのイベントが起きた時刻とはいえない」でしょう。

しかしながら「1つの場所に2つの物体は置けない」のであれば「このアインシュタインの『イベントが起きた場所の近くにある時計』という概念」も「近似的なものにすぎない」と批判される事になります。

注2:ここの通信手段はべつに「光を使わなくてもよい」のです。

「イベントBが起きた時刻を示すtBという時刻が書かれた紙をもって人が歩いて時計Aまで届けてそこで時計Aの時刻tAと比較すればイベントAとBが同時であったかどうかは判断できます」。

注3:2つの時計を使って速度が定義できる場合は奇妙な事に「光が地点AからBに行くのに必要だった時間とBからAに戻るのに必要とした時間が等しくなくても光速そのものは1Cとして定義できてそのように測定できる」のです。

そうしてアインシュタインはそれを許しませんでしたがローレンツ変換はそれを許しているのです。

というよりも「ローレンツ変換がその様に働いて時計を合わせてくれている」のです。

そうであれば「それが特殊相対論の隠された秘密」であり「我々人類は『光が地点AからBに行くのに必要だった時間とBからAに戻るのに必要とした時間が等しいのかどうか?』などという事は気にしなくて良い」のであります。

 

追記:「2つの時計の時刻合わせができた」という事と「同時刻 あるいは 同時という概念は違う」という件

アインシュタインはこの2つを「同じものである」としました。

そうであれば「2つの時計の時刻合わせができた」という事は「常にこの2つの時計の針の位置は同じ場所を指している」としたのです。

それがアインシュタインの考え方・ポリシーでした。

しかしながら実際のこの宇宙では「2つの時計の時刻合わせができた」という事と「同時刻 あるいは 同時という概念は違う」のです。

そのようにローレンツ変換は言っています。

「2つの時計の時刻合わせができた」という事は「その2つの時計が位置している慣性系の時間軸に時計を合わせた」ということです。

そうであれば「その慣性系の時間軸がBT時間軸になっている場合は、2つの時計の時刻は常にずれている」のです。

他方で「同時」あるいは「同時刻」というのは「そのようにして合わせた時計の指し示す時刻が同じ」という事を意味しています。

ローレンツ変換はそのように言っていますので、残念ですが「アインシュタインは間違えていた=その2つを混同していた」という事になります。

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「相対論・ダークマターの事など 記事一覧」:https://archive.md/LqO4J

「その2:ダークマター・相対論の事など 記事一覧」:https://archive.md/ERAHb

https://archive.md/D2Ats