さてこうして同一の直線上を移動する2つの慣性系A,Bのあいだで時間の進み方を比較するとそこには違いがある事がわかりました。
もちろん、時間の遅れは時計が一つだけでは判断できません。
そこにはどうしてももう一つの比較対象となる時計が必要になります。
そうして「一方の時間が遅れる」のであれば「他方の時間はそれに対しては進んでいる」と言う事になります。
それに対して従来の相対論の解釈では「時間の遅れはお互い様」としてきました。
このような通常の常識とは相いれない、非常識な主張が認められてきたのは、「相対論の世界では通常の常識は通用しない」という思い込みからであったと思われます。
確かに日常生活で我々が持っている感覚的な常識は相対論の世界では通用しません。
しかしながら物理現象に対するロジックは相対論の世界でも従来通りに通用しているのです。
従ってこの辺りの事ははっきりと峻別して考察する事が重要でしょう。
さて、「時間の遅れはお互い様ではない」という事を認めたうえでなおかつ「時間はsqrt(1-V^2)という割合で運動系は静止系に対して遅れる」という式を認めるならば、そこからはどのような結論が出てくるのでしょうか?
前提1、2つの慣性系を比較すると、そこには時間の進み方に違いがある事が確認できる。
前提2、時間が遅れる割合は相対速度Vを使ってsqrt(1-V^2)となる。
以上、2つの前提から出てくる内容はどういうものでしょうか?
「時間が遅れるのはその系が静止系に対して運動しているからである」と言うのが相対論の結論でした。
そうして「運動する」と言うのはここでは「相対速度Vを持つ」と言う事であります。
さてそうしますと「時間経過を比較した時に遅れていた方の慣性系Aは他方の慣性系Bよりも相対速度Vが大きかった」という結論になります。
さあそうなりますと「時間が遅れていた方の慣性系Aの相対速度は一体何に対して大きかった」のでしょうか?
もちろんこの場合の相対速度はここで比較検討している2つの慣性系AとBがお互いに相手の慣性系に対して持っている相対速度Vの事ではありませんね。
ちなみに2つの慣性系の間の相対速度Vはどちらの慣性系から相手の慣性系を測定してもVという値になります。
つまり V(A,B)=V(B,A) なのです。(注1)
そうであればこの相対速度Vを使ったのではこの場合に発生している2つの慣性系AとBの間の時間の進み方の違いを説明する事はできません。(注2)
しかしながら実際に測定すると時間の遅れはお互い様ではなく、そこには時間が遅れる慣性系Aと慣性系Aに対しては時間が進んでいる慣性系Bが存在するのです。(注3)
そう言う訳でこの状況を説明する為には基準慣性系Cを導入するのが妥当である、という結論に至るのです。
この基準慣性系Cに対して慣性系Aと慣性系Bが持っていた相対速度Vが同等ではなく
V(A,C)>V(B,C)
であった為に時間の進み方が
sqrt(1-V(A,C)^2)<sqrt(1-V(B,C)^2)
となり、つまり慣性系Aの方が慣性系Bよりもより大きな時間の遅れが発生していた、と言う事になるのです。
その結果は測定によって慣性系Aの経過時間が慣性系Bの時間経過と比較した時に遅れている事が確認できた、という次第であります。
まとめましょう。
「時間の遅れがお互いさま」ではなく「比較すると時間が遅れる慣性系と進む慣性系が確認できる」のであれば「そこには基準慣性系が存在していた」と言う事になるのです。(注4)
注1:ここでV(A,B)は慣性系Aから慣性系Bを測定した場合の相対速度を表します。
注2:それを無理やりに説明すると「時間の遅れはお互い様」という話になってしまいます。
つまり「慣性系AからBを見ると時間はsqrt(1-V(A,B)^2)という割合で遅れる」と言う事になり、そうしてまた同様にして「慣性系BからAを見ると時間はsqrt(1-V(B,A)^2)という割合で遅れる」と言う事になるのです。
しかしながら V(A,B)=V(B,A) なのです。
従ってここから「時間のおくれはお互い様」という主張が出てくる事になります。
注3:運動する事による時間の遅れは
・宇宙線起源のミュー粒子の時間の遅れ
・サイクロトロンで光速近傍まで加速されたミュー粒子の時間の遅れ
・人工衛星での時間の遅れ
を地球上の時間を基準とした実測によって確認されています。
注4:基準慣性系は相対論がいう所の静止系です。
そうしてこの静止系=基準慣性系はこの我々が暮らす宇宙の中で現実に実在している、と言う事になります。
加えてこの基準慣性系は静止系ですから、宇宙に存在するどの慣性系よりも時間の進む速さが早いのです。
そうして「基準慣性系の存在は認めないが、測定すると2つの慣性系の間には時間の進み方に違いがある様に観測されるのは事実である」という立場をとると「本来、あるいは本当は2つの慣性系の間に時間の進み方には違いはないのだが、測定するとその様な結果になる。但し何故その様に観測されるのか理由は不明。」と主張せざるを得なくなります。
さて、この分かりにくい論理を認めるのか、それとも基準慣性系の存在をみとめるのか、まあお好きな方をお選びください、と言う事になります。
ちなみに「測定するとその様な結果になる。」の部分、光速不変と似たような主張になっています。
しかしながら光速不変については「確かに測定すると光速は不変」なのです。
それに対して「時間の遅れはお互い様」を支持する様な測定は今まで一度も行われておらず、単に「時間の遅れはお互い様と言っているだけである」と言うのが現状であります。
追記:その後の検討によりますと、前回示した「2、J Simplicity氏のパラドックスの解決」の記述では
『つまり上記で示した様に「M系とM'系にそれぞれ2名の観測者を立てて行った実験=測定」が最終結果を与える事になるのですが、その状況がMN図として描かれていません。
そうして合計で4名の観測者を動員する観測実験の状況は1枚のMN図に描く事が出来ます。』
と主張しましたが、「合計で4名の観測者を動員する観測実験の状況は1枚のMN図に描く事が出来ます。」の部分は固有時を考慮しますと2枚のMN図に分かれる事が判明しました。
しかしながらこの2枚のMN図はおなじ状況を立場が違う観測者が見た場合をしめしており、MN図は2枚に分かれますが、示している状況は同じ内容となります。(注5)
したがってこの2枚のMN図から出てくる結論でもM系とM'系のどちらの時間がおくれていたかが明らかになり、注目すべきは「この2枚のMN図から出てくる結論には違いは生じない」と言う事です。(注6)
こうして最終的には「時間の遅れはお互い様ではない」という結論に到達する事になります。
注5:この状況の複雑さの為に「時間の遅れはお互い様」という主張と「いや、時間の遅れはお互い様ではない」という2つの主張が並行して存在している様にみえます。
そうしてこの件につきましては、固有時を扱うページで詳細に検討する事と致します。
注6:この2枚のMN図は1枚のMN図として描きこむ事も可能ですが、それは非常に分かりにくい、理解しにくにものになります。
したがって「2枚に分けて描いた方が良い」のです。
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