花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

古神道 心神とともに。

2019年11月10日 04時19分27秒 | 祭祀と和の国

こんにちは。

わたし達には,数え切れない程の祖先がおります。家系図を作成されている人でも過去の親戚一同を把握することは出来ないと思います。特に,女性は嫁いでしまいますから嫁ぎ先まで家系図に入れることはありません。こうなると一体,わたし達の祖先はどれくらい存在していたのでしょうか?その先端で生きているのが,私たち子孫であります。そうなると,自分の先祖に歴史上の有名人物の誰々がいるなんて話をしてもあまり意味がないようです。なぜならば,どの家系にもいるからです。こう言ったことを書かせて頂いている私にも歴史上の有名人物が祖先の中におりましたし,このブログをこうして読んで下さっている御方の中にも歴史上の有名人物が祖先の中に存在しております。このように考えますと,私たち子孫は共に共通した祖先を持つ者同士であります。

そして,お互いの家系を遡り共通した祖先に辿り着き,さらに遡りますと最終的には神さまに行き着く訳であります。したがいまして,私たちは明らかに神さまの子孫同士でありますから,やはり争いごとはするべきではありません。古神道では「同根思想」とも言います。この同根思想は人と人の関係性だけではなく,宗教間でも当てはめられて来ました。つまり,如何なる宗教も同じ根から生じたものであると云う解釈・結論です。元々は一つの宗教・信仰からさまざまな宗教・信仰形態が産まれたのであります。

したがいまして,元々は同じ根から生じた宗教同士が戦争や紛争をすること事態,実に愚かなことでもあるのです。きっと,宗教観の違いから生じる戦争や紛争が勃発するたびに,神さまは悲しんで居られます。人間界でも兄弟姉妹を子供に持つ親であれば,自分の子供たちがいつも争い合い,憎しみ合っている様子をあの世で見ているのですから,こんな辛く悲しいことはありません。兄弟姉妹がいる方であれば経験があると思いますが,子供の時,おもちゃの取り合い,見たいテレビのチャンネル争いをしていると親が怒ってすべてを取り上げられたなんて経験はないでしょうか。今はその本当に一歩手前まで来てしまっているように感じます。

親の願いは,いつの時代であっても同じであろうと思っています。健康に恵まれなくても経済的に困窮してても生きていてくれればそれだけで良いとあの世で私たちを見守ってくれているのです。しかし,生きている私たちは,そんなことを考えもしません。それどころか,あの世なんてないと言い切ってしまう人もいるくらいです。あの世があるなら証明して見せろと云うことなのでしょう。

それならば,あなたが生きていることを証明して見せて下さいと言ってもこれまた証明ができません。残念ながら,結局,人は自分自身を見ることが出来ないのです。鏡に映っている自分は本当の自分ではありません。鏡に反転している自分でありますから,人は誰であっても自分を見ることが出来ないのです。そんなとき,頼りになるのが第三者である他人であります。神道の考え方に,人は自分の鏡であると云う思想的なものが存在します。つまり,人の気になるところは自分に存在するからと云うものです。

たとえば,嫌なところが友人や知人にあるとそれは自分が持っているものだということです。人の振り見て我が振り直せと云うことわざもあるぐらいです。古事記の中の日本神話「天孫降臨」によると太陽神「天照太御神:アマテラスオホミカミ」の命を享け,地上の国「豊葦原中国:トヨアシハラノナカツクニ」を支配するため孫の「瓊瓊杵尊:ニニギノミコト」に授けた三つのものがあります。わたし達が良く知る三種の神器「八咫鏡」「八尺瓊勾玉」「草薙剣」であります。この三種の神器うち,現在の神社でも御神体として祀られているのが鏡であります。この意味は,とても意義のあることでさまざまな研究と解釈がされて来ています。

今日の記事を覚えていれば,明日以降に書かせて頂きます。

私たちの魂の親でもある神さまから,すべてを取り上げられないようにしなければなりません。

すべてを無くし失う時は,一瞬です。拝


観音信仰の根本道場からの祈り 長谷寺

2019年11月09日 06時57分41秒 | 祭祀と和の国

奈良に行くと必ず寄る寺院が何ヶ寺かあります。そのひとつが,真言宗豊山派 総本山長谷寺と云う寺院です。

御存知の方も多いと思いますが,こちらの長谷寺さんは,奈良県桜井市の初瀬山の中腹に十一面観世音菩薩を御本尊としてお祀りしております。なんとその高さは10メートルを超える巨大な観音様で,観音信仰の根本道場でも名高い寺院です。先日の記事に登場した室生寺と同様,太古の昔には太陽信仰の祈りの場でもある聖地です。

この長谷寺さんの見どころは,高さ10メートルを超える御本尊の十一面観世音菩薩もそうですが,他にもたくさんあります。五重塔や本長谷寺,さらに,あまり人目のつかない場所に御鎮座されております白山神社もひとつではないかと思います。私個人的には,本長谷寺さんと何となく縁を感じます。とても小さな御堂のような建物ですが,ここが長谷寺さんの本です。由緒書きには「長谷寺草創の御堂であることから本長谷寺と称す」とあります。

私は,この長谷寺さんへ参拝させて頂くと稀に,御先祖様の御供養を祭祀されている方をお見受けします。

その日の長谷寺さんの時間帯や日程などで違うとは思うのですが,数名の僧侶の方が鈴を鳴らし,太鼓を叩き,読経をされます。私は二度ほど見学させて頂きましたが,観音経を読経すると必ず本堂の中で強風が吹きます。下の門前から駆け上る風は,とても神秘的なものです。祭主の想いを御先祖様が感じ取り,そして,その優しさを観音様が歓迎されているかのようです。

なんだか今日は,長谷寺の広報担当者のようになってしまいましたが,とても素晴らしい寺院です。

是非一度,近隣へお越しの際には,参詣して十一面観世音菩薩へ感謝の祈りを捧げて見て下さい。欲得祈願は通用しない仏様です。上の動画で見ると,399段の登廊がきつそうですが,ここの登廊は上がり易く御年配の方々も多く参拝されております。長い登廊を上がり,やっと到着した本堂で十一面観世音菩薩との対面をする姿を毎回,興味深く観ておりますが,ほとんど例外なく参拝者は「うゎ!」と思わず声を出して,しばらく口が開いたままの状態になられます。

私はいつもその光景を見て童子に戻られている姿とは,きっとこのような姿なのだと思っております。

何も持たず,無防備にじっと観音様と1対1で見つめ合って,向き合って無言の中で感じる空間がそこにあります。神様から観たらすべての人が,例外なく,みな平等であるということは,この長谷寺さんでも十分感じ取れると思います。

みなみな神の子。可愛い子。心配せんで勇んで参れよ。賢い。賢い。良い子じゃ。良い子。

観音信仰 根本道場 総本山長谷寺 http://www.hasedera.or.jp/

※動画内の写真は,総本山長谷寺さんにて撮影させて頂きました。本堂に続く399段の石階段(登廊)です。

 


貧すれば鈍するって?何を指しているのでしょう? 4

2019年11月08日 04時31分09秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

こんにちは。

一昨日,ある真言宗系の寺院の住職さんから,ちょっとお願いしたいことがあるので来ない?と連絡をいただきました。その住職さんとは8年くらいのお付き合いで,頭脳明晰な60代前半の御方です。ある事を悩んでいて,朝目覚めたら私のことを想い出して電話をくれたようです。普段,私は営業が苦手なので,営業をしているときもあまり仕事の話を長々としません。少しだけ仕事の話をさせていただき,あとはほとんど仕事とは関係のない話をしています。そちらの営業スタイルの方が私にはあっているようです。

ですが,そんな私でも営業の最後に一言だけ添える言葉があります。それは,何かあった時にだけで良いので想い出して下さいと云います。するとこれが本当に想い出して頂けるようです。そもそも新規のお客さまで,ましてや飛び込み営業となると営業の話を真剣に聞いてくれる人は,あまり居ませんし,早く帰ってくれないかな?と思われるのが通常のお決まりです。しかも,商品や会社の説明も長くくどくど話すと次の訪問では居留守を使われることもあり得ます。やはり,最初の営業は,短く要所だけを伝え,爽やかにしたいものです。営業職は,歩く広告塔ですから身だしなみや言葉使いに,態度や姿勢にも気を使うので大変な職種です。

そんないろいろな事が要求される営業職ですが,なかでも最も大切なことは知って頂くと云うことだと私は考えます。どんなに,良いものを作っても,どんなに良い会社でもその存在をお客さまに知って頂かなくては経済行為は生まれません。それどころか,会社の経営も出来なくなってしまいます。私の拙い経験で恐縮ですが,自分をお客さまに知って頂くとは営業の基礎基本ではないかと思います。その為にどうするか?これを考えるのが重要なのであります。私の場合,最初の1年は,少なくても1件のお客さまのところに最低5回は訪問させて頂きます。そうしてやっと自分の名前を憶えて頂ける程度です。営業職の皆さん,頑張ってください。

冒頭で紹介した,住職さんとの仕事の話しは30分くらいで終わり,その後は4時間も今の社会の問題や仏教界の問題,世界情勢や政治の問題など様々な話題について意見交換をしていると既に夜8時頃になっていました。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまいます。その意見交換の中で,住職さんから人が背負う苦労についての話しがありました。ちょうど,このブログでも取り上げていた事柄なので興味津々にお話を伺っていると,住職さん曰く,苦労は人の魂が浄化する為には有効で,且つ,人が乗り越えた苦労は,人類の共通した意識に溶け込むと話されていました。つまり,私たちが人生において乗り越えた苦労が人類の進化に繋がっていると言うのです。これには正直,驚きました。私たちが生きていることで生じる苦労が実は,人類の共有意識に溶け込んでいると云う発想はどこから来るものなのか?しばし沈黙していると住職さんは,生命とは何か?生きると云うことは何か?それは魂の浄化であると続けます。さらに,私たち3次元で暮らす人間には,2つのプログラミングが設定されていると云います。その内,1つのプログラミングとは「破壊と再生」というプログラミング設定でした。この話は,とても興味深かった話しでした。

小さな子供が積み木を積み上げたあとにする行為を観察すると判ると云うのです。

またいつか,2つのプログラミングについて書かせて頂きたいと思います。

自分自身で体験しているさまざまな苦労が,まさか,人類進化の為になっているとは大変勉強になりました。そう考えるとどの様な苦労も決して無駄ではないようであります。私も自分の力だけではどうしようもない時,何で自分だけ苦労しないといけないんだ。こんな苦労に何の意味があるんだと思ってしまう時があります。苦労する為に生まれて来たんじゃないとも考えてもいます。

しかしながら,ほんの少しだけ考え方が変わるだけで,同じ事柄でも全く違うように解釈できるのであります。住職さんから急な呼び出しと,ちょうど人の苦労をテーマにした記事を書いている最中にドンピシャの話しが出来たことは不思議であります。しかも仕事まで頂いて帰って来ました。出会った頃は,住職さんもまだ若く,私が住職さんに気安く住職さんと話し掛けると怒られたり,仕事で頭から怒鳴られた時もありました。今思うととても懐かしい思い出です。きっと,これが縁と云うものなのでしょう。

感謝。拝


貧すれば鈍するって?何を指しているのでしょう? 3

2019年11月07日 04時07分35秒 | 豊葦原瑞穂国新聞


昨日は,平安時代に貧しいお百姓さんの為に,自ら立ち上がった平将門公を少しだけ書かせて頂きました。

その将門公は,現在の茨城県常総市に本拠地を構えますが,今の時代でも茨城県の常総・坂東一帯では絶大の人気があるのです。悲しいかな,将門公は悲運の猛将,朝廷への反逆者として後世に伝え続けられてしまっていますが,その実情は全く違います。そのことは昨日も記事にて書かせて頂いた通りですが,平安時代の当時,将門公に助けられた貧しいお百姓さんたちの感謝の想いは現代でも語り続けられており,その感謝の想いは,将門公をお祀りする祭祀場所を御守りしているのではないでしょうか。

巷で言われている,祟りに怨霊云々は,私には?です。

確かに,日本にはその様な怨霊思想と云うものが存在することは知っていますし,あるのかも知れません。しかしながら,普通に考えて見れば一般に普通に生活している人には関係のない話だと思うとともに,そもそも人のお墓や祭祀場所に興味半分,遊び気分で来たら誰だって怒ると思います。スピリチュアル気分で何とかツアーとは危険極まりない行為としか私には理解できないのです。本当にその御霊を供養したいと考えるのであれば,その行為はとても尊いことであろうと思います。祭祀にはお遊び厳禁であります。

それでは,記事の本題に戻りたいと思います。

人の心を扇動する為にもこの「苦労美化説」はされて来たのではないでしょうか?ただ苦労することは良いことだと・・・。宗教の教義や説法でも苦労を題材にしているのがありますが,言葉は人と場所をわきまえないと時には危険なものへと変貌してしまうことがあるので気を付けて行くことが大切なような感じがします。確か,前にもこのブログである宗教家が観音さまについての講演をしている音声をインターネットで拝聴したことがありました。しかし,話していた内容に対してとても疑問でした。

いいのかな・・・? そこで話を終えてしまって・・・? それ無責任じゃない・・・?

宗教家曰く,信者の皆さんへ一般の人たちは神社やお寺に厄を落としに行くんだ。しかし,わたし達は神社やお寺に役を貰いに行くんだと云う話の趣旨でした。どうでしょうか?皆さま。とても短い言葉ですが,皆さまは神社やお寺に厄を落としに行かれますか?それとも役を貰いに行きますか?私的にはもちろん真っ向から両方違うと想っていますが,私が何故その宗教家の言っている話に疑問を抱いたかと云うと観音行と云うものは自分自ら地獄の淵をさ迷っている人のもとへ行くと云うことなのであります。

生半可なことではありませんし,中途半端な事ではありません。だって,自分も地獄へ行かなければならないのですよ。そんなこと中途半端で安易な気持ちで出来る訳ないのであります。さ迷っている相手の念を自分に落とし込める人でなければ到底無理ですし,苦労の為の苦労が付きまとってしまいます。藁にもすがる思いで相手はいるのですから,やはり,生半可な気持ちでは無理です。

そのことを講演で信者さんへ話さずに,何かヒーロー役でももらえると勘違いしてしまって居る様に感じたのです。きっと,講演会に参加していた信者さんたは,その言葉をそのまま信じてしまい,人の因縁まで背負ってしまうのではないかと思います。

自分の心を傷つける苦労は絶対にしてはなりませぬ。拝


貧すれば鈍するって?何を指しているのでしょう? 2

2019年11月06日 04時21分46秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

こんにちは。

昨日の続きを書かせて頂きたいと思います。

現代では他力本願と聞くとあまり良い方に捉えられることはありませんが,本来の他力本願と云う言葉の意味は,他人の為に救って差し上げることであります。仏教では,阿弥陀如来の本願と言われています。他力本願を説いた親鸞さんの言葉も有名ですね。

少し話は変わりますが,歴史の勉強をしていると過去の偉人を学ぶことになります。歴代天皇や皇族に貴族など。そして,戦国武将に一般庶民の暮らしに至るまで。宗教家もそうですね。その時代を懸命に生き抜いた先人の教えや生き方は,どれも私たちが生きて行く上でとても参考になります。歴史好きな人であれば,過去の偉人の言葉を座右の銘にし頑張って居られると思います。

そう言った,歴史上の「人物」を調べているとある共通することがあるのです。

それは何かと申しますと後世の私たちへ託す思いと願いです。その思いと願いは何かと云うと「他の為の奉仕」です。

つまり,現代を生きる私たちへの遺言であります。本当に日本は凄い国だなと感じるひとつでもあります。

平安時代に平将門公と云う徹底した弱者救済保護政策の実現を目指された御方が居りました。将門公は,今でも関東地方の特に,現在の茨城県坂東一帯で絶大の人気があります。当時の貧しい暮らしを余儀なくされていたお百姓さんを救済しようと日々奮闘を重ねて行きました。歴史書と云うものは常に勝った方が自分たちに有利に書いてしまう為,私たちが学ぶ歴史書は真実とは遠いものであるようです。平将門公も同じで,私たちが学んできた人物像とは違うのです。実際の将門公は慈悲に溢れた半端でない人物です。

その平将門公が,現代の私たちに向けた遺言が御座います。

どうか人の世に暮らす人々よ。他の為に慈悲を施し,悪行を消す為,善行を積むようにせよ。

実際に,将門公が言い残した言葉ではないようですが,書き記した人物が将門公の生き方を書き残したもの「将門記」の最後に書かれている言葉であります。わたし個人的には,貴族ばかりが京都の都でのうのうと贅沢に暮らし,一般のお百姓は今日の食べ物も皆で分け合っている姿に涙していたのだと想っています。そして,将門公自ら立ち上がり苦しむお百姓を救済する為に戦ったのです。

歴史上,平安時代と鎌倉時代は飢餓に疫病,大飢饉と言った災難・苦難・困難の時代でありました。私たちの先祖は,その苦しい時代を生き抜いて来たのですが,そんな時代だからこそ将門公のような慈悲の心を持ち,自分の身を犠牲にしてまで弱者救済政策を実現させようと奮闘し戦える人物が登場して来たのかも知れません。決して,自分が偉くなりたいとか言うことではありません。

歴史は,学問として捉えるか,ロマンとして捉えるかで全く違うものになります。

貧しい御百姓さんを何とか救済しようと権力者と戦い続けた平将門公でした。

現代の世の中をご覧になったらどう思われるでしょう。

続きはまた明日。拝


貧すれば鈍するって?何を指しているのでしょう?

2019年11月05日 08時22分10秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

 

追記:コメント欄を一時期,開放致しました。

時間の許す限り,皆様方と有意義なやり取りが出来ればと考えております。

但し,如何なる宗教団体・その他の団体・個人等を誹謗中傷するようなコメントは一切,掲載致しませんので,予めご了承下さい。今後とも末永く,宜しくお願い申し上げます。拝

こんにちは。

とあるブログを興味深く読んでいたら「貧すれば鈍する」と云う言葉が書いてありました。

最初は,なるほど!と感心して読んでいたのですが,このまま「貧すれば鈍する」と云う言葉だけを意味も理解しないままを暗記するのは良くないような気がして自分なりにいろいろと考えて見ました。日本や中国にはことわざが沢山残っています。その一つひとつのことわざには,先人の体験に基づいた事や知恵を含んだ言葉として短く上手く表現されたものばかりであります。私もことわざから多くの事を学びましたが,ことわざと云うのは奥が深く,受け取る側の解釈によっては意味合いが全く違って来ます。

次の故事ことわざ辞典には,このように書いてありました。

貧すれば鈍する 

読み:ひんすればどんする。

意味:貧すれば鈍するとは,人は,貧乏になると利口な人でも愚かになるということ。

 参照ページ:http://kotowaza-allguide.com/hi/hinsurebadonsuru.html

他にもインターネットで普段みなさんが「貧すれば鈍する」と云う言葉をどのような理解でいるのか知りたくなっていろいろ調べてみましたが,だいたい皆さん同じような意味で使われているようです。今,このブログを読まれている皆さまは如何でしょうか?やはり,辞典に書かれているような意味で使われているでしょうか?しかし,貧すれば鈍すると云う言葉は,一体何を指しているのでしょうか?金銭を指すのか?それとも心の内を指すものなのか?つまり,2つの大きな区分けが必要ではないかと思います。

先ず,1つ目は「経済」の問題。そして,2つ目は「心」の問題です。

心と云うと判りにくいかもしれませんので,少し想像しやすいように「道徳」としても良いと思います。きっと,私も含め言葉だけを読んでみると経済的な金銭を見据えて書かれている様に思います。しかしながら,少し深く考えて想像して見ますと,いやいや経済的な金銭だけでは何とも理解しがたいことが判りました。私なりの結論は「心」の方を指しているのであると考えます。

実は,何故この様なことを考えていたのかと云うと,常日頃,私たち人は苦労する為に生まれて来たのではないと云うことを感じているからであります。苦労の為の苦労は,苦労でしかなく,それでは苦労する為に生まれて来たようなもので,無意味な苦労だと思うのです。過去においても苦労と云う言葉を用いて様々な引用がされて来ました。ちなみに,成長の為の苦労は努力です。

たとえば「若いうちの苦労は買ってでもしろ」「苦労している人は人の苦労が良く解る」などなど。

しかし,私は本当にそうですか?と聞きたいのです。言葉が独り歩きしている様にも感じます。

ちょっと違う気がしています。私は,苦労しなくてもよい苦労はする必要がないと考えます。それは何故かと申しますと一言で申し上げるなら「穢れ」を「畏れ」るからです。いつも書かせて頂いておりますが,穢れとは汚れや汚いと云う言葉の意味ではなく,気が枯れると云う意味での「穢れ=気枯れ」です。人は誰でも気枯れを持つと心と身体に異変が起きて行きます。精神疾患や身体の多機能不全です。疾病などもそうかも知れません。それだけではなく,日常の生活面でもだらしない生活になってしまいます。

これが一番ダメな理由です。 要はこれを「畏れ」ているのです。

成長の為の苦労は,私は努力としていますので苦労ではないのです。たとえば,仕事などで目的を達成する為に努力するのですから努力するのは当然であります。しかしながら,そこを苦労と言われてしまうと少し違和感があるのです。苦労は,自分の力だけではどうすることも出来ない事柄に直面した時に当てはまる言葉ではないかと考えます。つまり,自分以外の存在の力が必要な状況です。したがいまして,その様な自分だけの力ではどうすることも出来ない事柄に直面した時は,躊躇することなく他の存在の力を借りる勇気も必要だと思うのです。ひとりで抱えず,悩まずに他の力を頼って欲しいと思います。他力本願の意味はここにあります。

なにも恥ずかしいことではありません。自分の心を傷つけることを罪と申します。

互いに支え,助け合い,足りないところを補い続け,ともに手を取り,手を握り,

互いの違いを認め合い,互いの違いを尊重し合う。如何なることにも先ずは感謝を。

謙虚さ忘れず頭を垂れて,自ら手をあげ名乗り出る真の勇気と素直さと。

時には省み反省し,人への奉仕を忘れずに,歓びもちて結びとすれば,怒りの心も鎮められる。

こころのみはしら(心柱)祝詞の一部より。

きっと,私たち和の民であれば出来るのではないでしょうか。

花咲 あさひ 拝


そっと見つめる天津神,じっと見つめる国津神 4

2019年11月04日 04時38分06秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

五円玉に籠められた国家の祈り。

 

こんにちは。私の住む地域では,今日は晴天で風もなく穏やかな日でありました。きっと,神社ではたくさんの七五三姿をした子供たちで賑っていたと思います。子供たちは,どの国でも宝ですから神様も御喜びのことと感じています。それでは,先日から書かせて頂いている内容の本丸に相当する部分を記事にさせて頂きます。ここからが,いよいよ本計画を実体化して行く為の総本山です。

昨日の記事の終わりに,本計画を遂行するにあたって最も適した存在とは誰かを書かせて頂きました。

それは,ズバリ神社や寺院の宗教家と総代さんや世話人さんです。神社や寺院の護持会を動かすことです。

その理由を一部だけ書かせて頂きます。

本計画を実現可能にする為には,以下に記すとおりの条件が必要です。

① すでに,全国的なネットワーク組織を有していること。

② 道義的な側面が強い立場にあること。

③ 不特定多数の人と深く関係性(関わり)があること。

④ すでに,小さくても良いのでコミニュティーが形成されていること。

他にも3つほどありましたが,ブログでは書けません(笑)以上の条件にピッタリと当てはまるのは,どこを探しても宗教家と神社・寺院しか存在していないことが判りました。そして,④は護持会に相当します。この④がとても重要です。

実際,仕組み(スキーム)作りの内容は,ほとんど理想論であります。つまり,こういう仕組みが社会にあれば良いなと思えることを自由に何らの制約も気にせずに起案することに意義がありますが,これを社会の中で,具体的にして行く為にはどうすれば良いかを結論付けて行きます。私が先ず,先に本計画を具体化するにあたって最も適した人や存在は,どのような人たちかを思案していると神社や寺院を最大限に活用することと浮かんで来たのです。神様が背中を押してくれたようでした。同時に,何故,神社や寺院を活用するのかの意味が理解できていました。ただ神社や寺院は建物ですから当然,言葉をしゃべりません。要は,神社や寺院の神職さんや住職さんと協力しながら総代さんや世話人さんを動かすことに意味があります。宗教家が中心的では意味がないのです。

明日また続きます。拝


そっと見つめる天津神,じっと見つめる国津神 3

2019年11月03日 06時20分31秒 | 豊葦原瑞穂国新聞


こんにちは。

早速ですが,一昨日の続きから書かせて頂きたいと思います。

先ず,本計画の骨子を立案する上で必要な要件(条件)を起案することから始めました。

第1項では「部門構成者及びサービス提供者」とそして,第2項では「設置前の要件(条件)」をそれぞれ立案して行き,その次に,下記の第3項の起案を続けます。この第3項からが,所謂,主たる目的の効果でもあり需要の面を掘り下げて行きます。

3.設置後の一次効果「主たる目的」

①買い物困難者の負担低減。

続いて,上記3の一次効果がもたらす波及性効果を検討して行きます。つまり,設置後の二次効果です。

4.設置後の二次効果「波及性効果」

①餓死者ゼロ,孤立死対策,孤独死対策,防犯対策,安否確認,日常生活支援,法律相談,事業者支援,雇用創出対策,地域活性化,地元商店街の活性化,児童道徳教育等。

※第1項②で書かせて頂いた,弁護士や司法書士,税理士等の士業,病院や医師,社会福祉士等は,この第4項①で活躍することになります。又,本計画の趣旨でもある一次効果の買い物困難者の負担とその二次効果「波及性効果」を同じスキームの中で同時進行的に仕切ることは困難でもあり,事務管理が膨大になるのではないかと云う懸念は当然にあります。しかしながら,ミクロの視点では十分可能であることが判りました。むしろ,ミクロでなければならないのであります。つまり,小さなコミニュティーです。

以上の第1項から第4項までの利用者の適用範囲は,前々回の記事でも書かせて頂いた通り,買い物困難者と定義付けられている人々ですが,一番大きな課題は,本計画をいったい誰が主導し,事務を統括し又,運営管理をして行くかと云う根本的な問題であります。ここまでは,あくまでも理想論であり,実際に現実的な問題は本計画を立案する以上に難題でもありましたが,私たちが暮らす社会で最も適した人物が唯一,存在しておりました。これ以上の適任者は,私の知る限りにおいてはいませんでした。

続きは,また明日以降に。拝


そっと見つめる天津神,じっと見つめる国津神 2

2019年11月02日 04時50分34秒 | 豊葦原瑞穂国新聞


こんにちは。

それでは,一昨日の記事の続きを書かせて頂きたいと思います。

日常の買い物をすることに困難な状態にある人たちを一昨日の記事でも書かせて頂きましたが,経済産業省などの行政では,買い物弱者や買い物困難者と政策上では位置付け,日本全国に推定600万人以上が存在しているとしています。又,超高齢化時代,TPPによる外国人労働者の入国などの影響により,今後も推定者数は増え続けると予想できます。

私個人的には,大型のショッピングモールの出店により,地域の商店街は閉鎖されたことも買い物弱者,買い物困難者を増やした要因の一つではないかと考えています。たとえば,徒歩以外の交通手段を有しない高齢者や被健常者の人にとっては,郊外の大型ショッピングモールへ買い物に出かけることは簡単なことではありません。

この様に,日常生活に必要な買い物をする事さえも不便で困難な人が,私たちと同じ町で暮らしております。私も計画を立案するにあたって,買い物弱者,困難者の政策を主務とする経済産業省や各都道府県にもっと詳細な統計資料や情報の開示を求めましたが,残念なことに経済産業省にしても都道府県庁にしても持ち合わせていないようでした。

立案にあたり,実際に作成した書面や組織図やフロー図などをブログに掲載できれば分かり易く説明も出来るのですが,掲載の仕方がいまいち解らないので文字だけの説明となります。又,買い物困難者と云う表現で以下は書かせて頂きます。

先ず,本計画を立案する主だった目的「趣旨」は,買い物をすることが困難な状況にある人の負担を低減させることが主たる目的です。これをここでは設置後の一次効果と呼びます。したがって,この主たる目的「設置後の一次効果」を達成するためには何をどのようにしなければならないのかを起案して行きます。それには,部門を構成する部門構成者及び買い物困難者へ実際にサービスを提供できるサービス提供者を決める必要があります。その部門構成者及びサービス提供者は以下,1項①及び②のとおりです。

計画立案ネーム:和の仕組「買い物困難者 編」コードナンバー:369

1.部門構成者及びサービス提供者

①地域の経済団体,商工団体,地域の郵便局,運送会社,個人商店などの個人事業主,NPO法人,商店街,コンビニ,スーパー,ドラッグストア,無店舗商店(ネット店舗)やネットスーパーなどの買い物必需品供給者。

②弁護士,司法書士,税理士,行政書士,病院,医師,社会福祉士,栄養士,その他。

※②の日常品の買い物と弁護士などの士業や病院や医師との関係性に疑問を持たれると思いますが,これは主たる目的である買い物困難者の負担の低減「設置後の1次効果」がもたらす波及性効果「設置後の2次効果」で説明できます。

続いて,本計画を設置する前の要件(条件)を起案します。下記,2項では,買い物困難者の現状分析や求められているニーズから発起人の決定,本計画への参加事業者や組織形態などを起案して行きます。つまり,現状分析と供給サイドの立案になります。

2.設置前の要件(条件)

①買い物困難者の現状分析,経済産業省及び設置対象候補地の都道府県への情報収集,上記1項①及び②にあげる部門構成者及びサービス提供者の募集及び選定,発起人の選任,提携先の選任など。

※実際に,ある県に実体の現状分析調査を実施しましたところ,同県においても県民へ買い物困難者についてのアンケートを実施しており,大変興味深い聴き取りが出来ました。その県民調査で最も多いニーズは「御用聞き」でありました。

続きは,また明日以降に。拝


そっと見つめる天津神,じっと見つめる国津神 1

2019年11月01日 04時13分10秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

 

こんにちは。今日の記事も最初に掲載してから3年の月日が経過しました。

突然ですが,日本は御存知の通り,三権が分立されている国です。国会「立法」と内閣「行政」裁判所「司法」の三権です。その内,私たちの日々の生活や暮らしに大きく関わり合いを以てくるのが内閣に属する行政権であります。私たちに関わるほとんどが行政権と云っても言い過ぎではないくらいです。たとえば,行政権とは何ですか?と聞くと立法権と司法権を除いた全部と云うことになります。それほど強大な国家権力を有する組織です。でも,そもそも何故,三権に分立する意味があるのかと申しますと国家と云うものは常に暴走してしまう危険があり,一度,国家が暴走をしてしまうと究極には,国民の生命が危険にさらされてしまいます。そこで,予め権力を三つに分け相互間の均衡を保ち,権力の濫用と国民の自由と権利を守ると云う理由から,三つに分けて権力の力(パワー)を弱めておく必要があったのです。つまり,1つに集約された強大な権力を分離・分割すると云うことです。

さて,6年ほど前に私の事務所にて,ある社会問題にもなっている実情をリスクマネジメントを活用して計画を立案した内容を今日から数日間に渡って書かせて頂きたいと思います。もちろん,神様から授かったリスクマネジメントと云う得体の知れない,とても大きく,人間の以ている精神性の視点から本計画を立案したものであります。それと,リスクマネジメントは江戸末期から明治維新の間に活躍された福沢諭吉さんが西洋から取り入れた考え方だと言われています。確かに,リスクマネジメントと云う考えは,西洋では最も最高峰に位置する学問でもあり,理論,技術論でもありますが,しかし,その元の元が実は,私たちが暮らすこの日本が発祥であったと云うことは知られていません。それも,縄文時代まで遡ることになるのです。リスクマネジメントを日本人に説明する場合「将来,起こり得る危険を予め予測又は,予想し,その危険度を判定し,危険を事前に防止,予防する事」であると説明すると理解されやすいと思います。たとえば,私たちに身近なリスクマネジメントですと自動車保険(損害保険)や医療保険や生命保険もリスクマネジメントの一種でもあります。要は,危機管理ですね。別の言い方をしますと不測の事態に事前に備えることである云えます。ですが,リスクマネジメントの本質は危機管理ではありません。相互扶助こそがリスクマネジメントの本質なのです。相互扶助とは互いに支え合い,足りないものを補い,弱い立場にある人たちを様々な環境に応じて助け合うことです。これに尽きます。

一番最初に立案したものは,宗教家と宗教法人を活用した通称:世界扶助システムでした。通称でも世界扶助システムと云うと大袈裟過ぎますね(笑)今でも何でそんなことを考えていたのか解かりませんが,しかし,私は,宗教家と私たちの違いがどうしても理解出来ずにいました。たとえば,お寺のお坊さんは御経を毎日,読経されます。私も読経しています。つまり,同じです。お坊さんが読経している御経と私が読経している御経は,どこが違うのか?神社の神職さんは神様へ毎日,祝詞を奏上しております。私も毎日,神棚へ祝詞を奏上しています。神職さんが奏上している祝詞と私が奏上している祝詞は,どこが違うのか?ここでも同じです。

それ以外にも素朴な疑問が山積していて,考えれば考えるほど解りませんでしたが,最終的に宗教家も一般人も同じであると結論付けました。宗教家が良い意味でもっと能動的に発起し,宗教法人が本当の意味で社会から必要とされ,地域社会と共に発展するようになれば,混沌とした社会に大きな良い影響を波及させることが出来ると思っていましたし,今でもそのように感じております。その様な理由から,先ず最初に計画の起案をしたのは,皆さんも一度はニュース等で見たり,聞いたりされたこともあると思います。

超高齢化に伴って,今後はますます増え続けて行くと言われている「買い物弱者」や「買い物困難者」についてです。

私の真の狙いは,ただ買い物弱者や買い物困難者の支援だけではありませんでした。もっと奥へ,さらに奥へと問題となる本質はどこにあって,どうすれば根本を掴むことが出来るかを突き止めることでもありました。そうすると次から次へと発案が湧き出てくるのです。こうすれば「孤独死も防止できる」「安否の確認もできる」「防犯対策もできる」「雇用の創出」も「無料法律相談」もと云った具合に網羅的に応対できることが判りました。やっぱり,神様の御力は凄いなぁ~と感じながら楽しく立案していました。

そして,2番目に起案したものは「災害弱者」と「避難困難者」についてです。

買い物弱者や買い物困難者とは,内閣府並びに経済産業省が試算する推定600万人が買い物弱者,困難者と云われ,日本全国に存在しているとされています。つまり,日常の買い物することが困難である人たちのことであると定義付けています。その買い物弱者,困難者であると呼ばれる人たちとは,どういった立場に置かれている人かと申しますと①65歳以上の高齢者などで徒歩15分圏内に買い物をする場所がない人②被健常者③妊婦さん④乳幼児を抱える父母⑤日本語を話すことの出来ない外国人等も含まれます。今後は,TPPの影響も相まって沢山の外国人労働者が日本に滞在して来ますので⑤は増える傾向にあると考えられています。

それでは,明日から具体的に,第1弾は買い物弱者,困難者をテーマにした計画立案の内容を書かせて頂きます。拝