花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

神と人が和すること。神人合一惟神

2019年11月30日 07時50分05秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

こんにちは。

科学や宗教,農業や医学,さらに,経済も元々は信仰の対象であったと云うことは,今までもブログで書かせて頂いてきました。たとえ私たちがそのことを忘れていても遺伝子「DNA」にはちゃんと記録(インプット)されています。

気の遠くなる祖先が経験し,体験した膨大な記録は,私たちがフッとした瞬間に蘇る機能を有しているのかのようです。上手く表現できませんが,たとえば,何故か理由は判らずとも肚に落ちるといった感覚を経験されたことがあろうと思います。途方もない歴史の中で,無数の先祖が体験してきた記録がその瞬間に瞬時に私たち子孫へ伝達されていると考えると何だか不思議な感じもします。その途方もない記録「遺伝子・DNA」の根本は,やはり「和」が基盤になっています。和に反すると,和に戻す力が働きます。

私たちが過去に生きていてくれた無数の先祖のお蔭で,私たちは様々なことを体験でき,危難に遭遇した場合にも瞬時に危難を回避する行動に移せるのだと感じています。しかし,ただ一点だけ機能不全に陥ってしまっている記録「遺伝子・DNA」もあるようです。それは,大自然「神さま」自然「精霊」と距離を取り過ぎてしまったことです。たとえば,神社や寺院で手を合わせる人は普通に居りますが,太陽や山や海,畑や田んぼに手を合わせる人はほとんど見ません。逆に,現代では奇妙に見えるかも知れません。

神社や寺院にゴミを捨てる人はあまり居ませんが,山や川,海にゴミを投棄する人が後を絶ちません。それは何故なのかであります。本来,私たちは大自然や自然と一対一の関係なのであります。つまり,自然と自分との間には何も遮る存在がいないはずなのであります。今一度,私たちは大自然や自然と合致・合一することが大切な気がしてなりません。古神道では,これを神と人が合一すると言って「神人合一」「惟神:カムナガラ」と言われて来ました。現代の宗教家でこう言った話が出来ないのは真に残念です。

神社で神主さんにお金を払って祈祷してもらった。祝詞を奏上してもらった。

お寺で住職さんにお金を払って御経を読んでもらった。供養してもらった。

だから良いことがある。先祖が成仏する。願い事が叶う・・・などなど。

これは全く違います。大切なことは直接,何も介在させずに繋がると云うことです。

つまり,自分自身が自然を崇拝し,祖霊を供養すると云う祭祀者になることなのです。

お金は,あくまでもこの世の3次元で有効的に機能する物であります。拝