花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

お釈迦さまは古神道の御方でした。3

2018年04月08日 06時46分01秒 | 祭祀と和の国

こんにちは。

お釈迦さまは古神道の御方でした。1・2に続いて,今日は3です。

ところで,今日4月8日はお釈迦さまが誕生された日でもあると云うことに昨日,記事を書かせて頂いているとき「そういえば?」と思い出しました。お釈迦さまが誕生された日にお釈迦さまの記事を偶然にも書いていることに不思議な縁を感じてしまいますが,それも袖振り合うも多世の縁と云う言葉で結びたいと思います。書かせて戴けることに先ずは感謝です。あ・り・が・と・う。

昨日の記事の文末で,お釈迦さまが修行中に挑んだ最大で且つ最強の相手とは何か?と云うことでした。つまり,ラスボスのような存在と真剣勝負をしていたに違いないとわたしは思っています。きっと,それまでの修行中にもたくさんのエピソードがあったのではないかと思います。修行中に難癖を付けられたり,意地悪な問いかけもあったり,無理な要求もあったりしていたのではないかと想像するのですが,お釈迦さまに言わせるとそう云った事柄は別に大したことではないと言われるかも知れません。

なぜならば,お釈迦さまからすると単なる外に在る一瞬の風景の様なもので,直ぐに過ぎ去ることであると考えられていたと思うからであります。お釈迦さまは大変な知恵者でもあったと同時に並外れた方便の達人でもあったのではないかと私は想像しています。

悟りに達したお釈迦さまは,苦しむ人々を何とか救済しようと説法をして回ります。そのなかで起きた出来事が今の仏教の法話にも残っているものがたくさんあります。弟子との対話が御経にもなっています。たとえば,お釈迦さまと鬼子母神のお話もその一つです。子どもを持つお母さん方には是非とも読んで頂きたいなと感じる法話であります。その母親の想いは現在の世でも十分に通用します。この鬼子母神の法話を不倫にたとえて読んでみるのも良いかも知れません。子どもと会えない気持ちがどれほどかを思い知るにはよい話です。子どもに対する母親の気持ちは同じ母親ならば解かるはず。物語でもお釈迦さまは鬼子母神を諭します。鬼子母神は,お釈迦さまに諭され,自分の過ちを心から反省し,こんどは鬼子母神みずから子ども達を守護する御仏さまになるのです。

ポンコツ弁護士にも読んで聞かせてやりたいくらいで・・・。あっ!いけない。またポンコツ弁護士って書いちゃいました。先日の記事でも反省したのにわたしったら・・・。ゴメンナサイ。今日は,記事を書いている途中に間違っても消さないって約束したので消せません。どうしよ~・・・。司法試験のように間違えたら二重線を引いて訂正なんて残念ですが,このブログの機能にはないので,よって,閻魔大王から補正命令が出されるまで,このまま当該記事の記載事実は残すこととします。以上。

幼い子どもの心を傷つけるとどうなるか?これまでたくさん見て来ました。その後,幸せになった人は誰一人居りません。法律などで,どんなに自分の正当性を理屈を以て主張しても天はすべてを観ています。言い逃れもなにも出来ません。それどころか,天と地の逆鱗に触れると御眷属が発動します。これ本当の話。上記の鬼子母神の話しでもお釈迦さまがその役を担いますので関心があれば読んでみて下さい。子どもの心を傷つけると,子どもの産土神「うぶすなかみ」が,子どもを守る為に取り上げてしまうのです。

ところで,お釈迦さまを悟りの道へと導いた最大で且つ最強の相手「ラスボス」とは何か?でしたね。

それは「欲」です。

わたし達にもあるさまざまな「欲」であります。これにはお釈迦さまも相当難儀をしたのではないでしょうか?なぜなら,先ほどの様な相手であれば,外に存在するものですから嫌なら相手にしなかったりすることも出来るでしょうが,意識せずとも自分の中から湧き上がる「欲」はどうすることも出来ません。お釈迦さまは,これを煩悩とし人間には108つの煩悩があるとしました。

大晦日の除夜の鐘は108つの煩悩を打ち消すためにつきます。

したがいまして,お釈迦さまの最大且つ最強の相手とは,外側に存在するのではなくて,自己の「欲」内面に存在していたのです。どんな立派な人であっても煩悩「欲」と闘ったところで負けてしまいます。煩悩と闘おうとすること自体,意味のないことなのかも知れません。お釈迦さまが伝えたかったことは,煩悩を消すと云うことではなくて,どんな人にも煩悩があるとこを知り,受け入れることだったのではないかと考えます。煩悩を受け入れ,自己の内面を見つめること。そして,何よりも心の中の燈火を大切にして生きること。このような思想がやがて不滅の法灯として比叡山延暦寺でも今でも大切に守り続けられて来た証であると思うのです。

それでは,わたしたち人は,煩悩「欲」のまま生きて行くしかないのか?と言うとそうでもないようです。

それは,無我になることではないでしょうか?つまり,無我になるとは,なにも我は無くすことと云う意味ではありません。何かに夢中になることであると思うのです。皆さんも経験があると思いますが,何かに夢中になっているときほど時間が経つのが速く感じたり,ご飯を食べることも忘れていたなんて経験がないでしょうか。その無我です。よく無我夢中なんて云う言葉を聞いたりもします。あえて極論を申し上げてしまえば,命懸けで生きる事と言い換えることもできると思います。しかし,これまた難しそうです。

私にとっての釈尊学は,まだまだ入口です。これからもたくさん学んで行きたいと思います。拝

りの矢よ飛んで行け! 音霊乗せて飛んで行け!

鈴の音響かせ 今放たれよ!

歓びもちて結びとすれば 怒りの心も鎮められん。

降ろせよ しかと みはしらに。天の祈りと地の祈り。

こどもが母さまの元に戻りますように。祈


 

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和の国に住む住人 花咲あさひ 拝