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荘子:斉物論第二(34) 忘年忘義,振於無竟,故寓諸無竟

2009年01月04日 12時31分17秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(34)

 「何謂和之以天倪? 曰。是不是,然不然。是若果是也,則是之異乎不是也亦無辯;然若果然也,則然之異乎不然也亦無辯。化聲之相待,若其不相待。和之以天倪,因之以曼衍,所以窮年也。忘年忘義,振於無竟,故寓諸無竟」

 「何をか之を和するに天倪(テンゲイ)を以てすと謂うや。曰わく、是(ゼ)と不是(フゼ)とあり、然(ゼン)と不然(フゼン)とあり。是(ゼ)、若(も)し果たして是(ゼ)ならば、則ち是(ゼ)の不是(フゼ)に異(こと)なること、亦(また)弁(ベン・あげつらうまでも)無からん。然(ゼン)、若(も)し果たして然(ゼン)ならば、則ち然(ゼン)の不然(フゼン)に異なること、亦(また)弁(ベン・あげつらうまでも)無からん。化声(カセイ・よしあし、あげつらい)の相(あ)い待(ま)つことは、其の相い待たざるが若(ごと)し。之を和するに天倪(テンゲイ)を以てし、之に因(よ)るに曼衍(マンエン・かぎることなき)を以てするは、年(よわい)を窮(きわ)むる所以(ゆえん)なり。年(よわい)を忘れ、義(ギ・よしあし)を忘れて、無竟(ムキョウ・かぎりなきせかい)に振(ふ)るう(振=はばたく)。故に諸(これ)を無竟(ムキョウ・かぎりなき)に寓(グウ・いこう)す」と。

 是非の対立は、その解決が言論心知の立場で求められる限り、当事者にも第三者にも不可能であって、そこでは対立はさらに対立を生み、ただ無限の喧噪が精神の果てしない消耗を強要するだけである。だからもし、人間がこのような精神の果てしない消耗を本来の安らぎに全うしようと思えば、言論心知による解決の立場を捨てて、是非の対立を天倪(テンゲイ)によって和解させるほかない。(福永光司)

 「天倪(テンゲイ)とは既に述べた天鈞(テンキン)と同じ意味であるが、この天倪(テンゲイ)すなわち絶対の一によって是非の対立を和解させるとはいかなる意味か。

 常識の立場では是は不是と対立し、不是は是と対立する。しかし彼らの是とするものがもし絶対の是であるならば、それは不是とは相容れないものであるから、不是とする議論は起こるはずがない。にもかかわらず、一方に是を否定する不是の立場が存在し得るということは、その是が絶対でないことを示すものではないか。また世俗の立場では「然り」はこれを否定する「然らず」と対立させられるが、彼らの「然り」とするものが絶対に「然る」のであれば、その絶対の「然り」は、「然らず」と否定する立場とは相容れないものであるから、「然らず」とする議論は起こるはずがないのである。そして「然らず」と否定される「然り」は絶対の「然り」であるとはいえなくなる。

 このように、是と不是、然と不然は、その相互否定のなかで、限りない循環を空(から)回りする。(福永光司)

  ”化声”すなわち、この限りない循環(変化)を繰り返す是非の議論は、全く相対的なものであり、それが相対的なものである限り、その対立は”相い待たざるが若(ごと)し”、つまり初めから存在しないのと同じであるといわなければならない。

 こうして歳月を忘れ(死生にとらわれず)、是非の対立を忘れ、無限の世界に逍遥することができる。これゆえにこそ、いっさいを限界のない世界、対立のない境地におくのである」と。

 絶対者とは、この限りなき世界を自己の住みかとする存在 ─ 「無竟(ムキョウ)に身を寓(お)く者」 ─ にほかならない。(福永光司)

 長梧子はこういって彼の長い説明を結んだ。

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化聲之相待 ・・・ 所以窮年也
 この二十五文字は、「荘子集解」ではこの節の冒頭に置く。金谷治注にも、「この二十五文字は、もと下文の「忘年忘義」の句の上にあるが、文意の連続がよくない。いま呂恵卿の節によった宣穎『南華真経解』本によって移しかえた」とある。
 しかし、ここでは原文に従う。


天倪(テンゲイ)
 万物斉同の理。すべての対立が平衡を得て、あるがままに存在できるような自然の道理。


曼衍(マンエン)
 無限のひろがり。無限の変化。ずるずるとのびて広がるさま。
 「境界秩序の確定されていないこと。すなわち”未だ始めより封(ホウ)あらざる”境地であるが、是非の対立を天倪すなわち絶対の一によって調和し、心知の分別を曼衍すなわち判断以前の未始有封の境地に渾沌化するところに、真に安らかな人間精神の解放があるのである。”年を窮むる”─ 与えられた自己の天寿を全うする ─ ゆえんなのである」(福永光司)




荘子:斉物論第二(33) 然則我與若與人俱不能相知也

2009年01月04日 00時34分27秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(33)

 「既使我與若辯矣,若勝我,我不若勝,若果是也?我果非也邪?我勝若,若不吾勝,我果是也?而果非也邪?其或是也?其或非也邪?其?是也?其?非也邪?我與若不能相知也。則人固受其?闇,吾誰使正之?使同乎若者正之?既與若同矣,惡能正之!使同乎我者正之?既同乎我矣,惡能正之!使異乎我與若者正之?既異乎我與若矣,惡能正之!使同乎我與若者正之?既同乎我與若矣,惡能正之!然則我與若與人?不能相知也,而待彼也邪?

 「既に我れと若(なんじ)とをして弁ぜしめんに、若(なんじ)の我れに勝ち、我れの若(なんじ)に勝たざれば、若(なんじ)は果たして是(ゼ)にして、我れは果たして非(ヒ)なるか。我れの若(なんじ)に勝ち、若(なんじ)の吾(わ)れに勝たざれば、我れは果たして是(ゼ)にして、而(なんじ)は果たして非(ヒ)なるか。

 其れ或いは是(ゼ)にして其れ或いは非(ヒ)なるか。其れ?(とも)に是(ゼ)にして、其れ?(とも)に非(ヒ)なるか。我れと若(なんじ)とは相い知ること能わざるなり。

 則(すなわ)ち人固(もと)より其の?闇(タンアン・くらやみ)を受けん。

 吾れ誰にか之を正さしめん。若(なんじ)に同じき者をして之を正さしめんか。既に若(なんじ)と同じければ、悪(いず)くんぞ能く之を正さん。我れに同じき者をして之を正さしめんか。既に我れと同じければ、悪(いず)くんぞ能く之を正さん。

 我れと若(なんじ)とに異なる者をして之を正さしめんか。既に我れと若(なんじ)とに異なれば、悪(いず)くんぞ能く之を正さん。我れと若(なんじ)とに同じき者をして之を正さしめんか。既に我れと若(なんじ)とに同じければ、悪(いず)くんぞ能く之を正さん。

 然らば則ち我れと若(なんじ)と人と、?(とも)に相い知る能わざるなり。而(しか)るに彼れを待たんや


 長梧子(チョウゴシ)はさらに語をついだ。

 「(もう少し、この判断の相対性について分析してみよう)

 もし私とお前とが、あるテーマについて、その是非を議論をしたとする。その場合に、もしお前が私に勝ち、私がお前に負けたとすれば、お前が是であり私が非であるということになるのであろうか。もし私がお前に勝ち、お前が私に負けたとすれば、私が正しくてお前が間違っているということになるのであろうか。

 お前と私とのどちらか一方が正しくて、どちらか一方が間違っているということになるのであろうか。あるいは両方とも正しいか、もしくは両方とも間違っているということになるのであろうか。しかし、これは議論の当事者であるお前と私には決定をくだすことができない問題である。

 ところで、当事者であるお前と私とに決定できないとすれば、第三者の判定を待つということになるが、第三者の立場にある人間も、真っ暗闇のわけのわからぬ事態を引き受けることになるだろう。

 それでは、どのような人間に正しい判断を頼めばよいのであろうか。お前と私との是非を誰か第三者に判定させようとしても、それは不可能で、もし判定させようとする第三者が、お前と同じ意見であれば、お前と同じ意見の人間なのだから、公正な判定ができるはずがない。私と同じ意見であれば、私と同じ意見の人間なのだから、公正な判断ができるはずがない。

 かといってまた、私とお前とのどちらとも意見を異にする人間に判定させれば、どちらとも意見を異にするから、やはり公正な判定ができるはずがない。逆にまた、私とお前とのどちらとも意見を同じくする人間に判定させるとしても、これは私ともお前とも同じなのだから、やはり公正な判定ができるはずがない。

 とするならば、私にも、お前にも、第三者にも、是非を判定することはできないのだ。これ以上誰に判定を期待することができようか

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?闇(タンアン)
 まっくらやみ。 ここでは、解明しがたい難問題。
 「?」 ・・・ 「黒+(音符)甚(ふかい、ひどい)」
 「舊邦の?闇を望む」(楚辞・九歎)