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荘子:斉物論第二(18) 其果有謂乎、其果無謂乎

2008年11月27日 09時52分08秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(18)
 有 始 也 者 , 有 未 始 有 始 也 者 , 有 未 始 有 夫 未 始 有 始 也 者 ; 有 有 也 者 , 有 無 也 者 , 有 未 始 有 無 也 者 , 有 未 始 有 夫 未 始 有 無 也 者 。 俄 而 有 無 矣 , 而 未 知 有 無 之 果 孰 有 孰 無 也 。 今 我 則 已 有 謂 矣 , 而 未 知 吾 所 謂 之 其 果 有 謂 乎 ? 其 果 無 謂 乎?

 始めというもの有り。未だ始めより始めも有らずというものあり。未だ始めより、夫(か)の未だ始めより始めも有らず、も有らずというもの有り。有(ユウ)というもの有り。無(ム)というもの有り。未だ始めより無も有らずというもの有り。未だ始めより、夫(か)の未だ始めより無も有らず、も有らずというもの有り。俄かにして有無あり。而(しか)も未だ有無の果たして孰(いず)れか有にして孰(いず)れか無なるを知らざるなり。今我れ則ち已(すで)に謂(い)えること有り。而(しか)も未だ吾が謂(い)う所の其れ果たして謂えること有りや、其れ果たして謂えること無きやを知らざるなり。

 万物には、その「はじめ」があるはずである。「はじめ」があるとするならば、さらにその前の「まだはじめがなかった時」があるはずである。さらにはその「『まだはじめがなかった時』がなかった時」があるはずである。

 また、「有」があるからには、まだ有がなかった状態、すなわち「無」があるはずである。さらにその前に「まだ無がなかった状態」があるはずである。さらにはその「『まだ無がなかった状態』がなかった状態」があるはずである。

 このようにして、ことばによって有無の根源をたずねようとすると、それははてしなくつづき、けっきょくその根源をつきとめることはできない。

 それにもかかわらず、現実世界では、われわれは確実な根源を知らないままに、いきなり有とか無ということを口にするのである。このような不確実な有無のとらえ方では、その有無の、どちらが有で、どちらが無であるのか、わからない。

 ところで、私は、「有 ─ 無」の概念について説明してきたが、それが何かを言い表したことになるのか、何事をも言い表したことにならないのか、わからない。
(何事をも言い表したことにはならないのである)

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有始也者・・・
 未始有物[荘子:斉物論第二(14)]
 荘子は、前に「未だ始めより物有らずとなす」境地を「至れり尽くせり」(至高最上の境地)といった。

 しかし、この境地が至上究極のものであるとしても、「未だ始めより物有らず」と判断するからには、その論理的前提として、「始め」という言(概念)と「有り」という言(概念)がそこに定立されなければならない。

 ところで、「始め」という言は、その論理的否定概念として「未だ始めより始めも有らず」─ 無始 ─ という言を成立させ、その概念はさらにその論理的否定概念として「未だ始めより、未だ始めより始めも有らず、も有らず」─ 無無始 ─ という言を成立させる。
 「有り」という言も、「無」─ 「無無」 ─ 「無無無」という言となり、その論理的追究は際限なく続いて止まるところを知らない。

 しかし、これらの言が 「未始有夫未始有始也者」、「未始有夫未始有無也者」 というように、結局「有り」と論定している点から考えれば、「言」はそれがいかに否定的な判断であろうとも、その根底には「有 ─ 無」という一対の純粋概念を予想せざるを得ないのである。実在そのものの道が、言の埒内にもたらされる途端に、有無という一対の純粋概念が成立するのである。─ 「俄かにして有無あり」

福永光司先生の 「荘子 ─ 中国古典選:朝日選書・朝日文庫」 を必読