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荘子:養生主第三(5) 公文軒見右師而驚曰:「是何人也?惡乎介也?天與?其人與?」 曰:「天也,也。天之生是使獨也,人之貌有與也。以是知其天也,也。」 澤雉十歩一啄,百歩一飲,不蘄畜乎樊中。神雖王,不善也。 |
公文軒、右師(ウシ)を見て驚きて曰わく、「是(こ)れ何人(なんぴと)ぞや。悪(いずく)にか介(カイ・あしきられ)せられたるや。天か、其(そ)れ人か」と。
曰わく、「天なり、人に非(あら)ざるなり。天の是(こ)れを生ずるに独(ドク・かたあし)ならしめしなり。人の貌(かたち)は与(あた)うるものあり。是(こ)れを以て、其(そ)の天にして人に非ざることを知るなり」と。
沢雉(タクチ・さわのきじ)は十歩に一啄(イッタク・ひとたびついばみ)し、百歩に一飲(イチイン・ひとたびみずのむ)するも、樊中(ハンチュウ)に畜(やしな)わるることを蘄(もと)めず。神(シン・こころ)は王(さかん)なりと雖(いえど)も、善(たの)しからざればなり」と。
公文軒(コウブンケン)が(足切りの刑にあった)右師(ウシ)を見て、びっくりしていった。
「まあ、なんという人間だ。どこで一体そのような一本足にされたのか。天のせいかね、それとも人のせいかね」
すると右師は答えていう。
「天命でこうなったのだよ。人のせいではない。天がわしを生むときに、一本足になるように運命づけたんだよ。だいたい人間の顔かたちというものは、すべて天から授かった(先天的な)ものだ。だから全く天のせいで、人のせいではないことがわかるではないか」
沢べにすむ野生の雉(きじ)は、十歩あゆんでやっとわずかの餌(えさ)にありつき、百歩あゆんでやっとわずかの水を飲むというありさまだが、それでも樊(かご)のなかに飼われることは望まないだろう。樊(かご)のなかでは、たらふく餌を貰って気力は充ち溢れても、(山野を自由に遊び回る楽しみも味わえないから)いっこうに楽しくないからである。
※介(カイ)
・【漢音】カイ、【呉音】ケ
・「兀」(ゴツ)に同じ。
足(足首)を切断する刑罰。この場合は「独ならしむ」とあるから、片足を切ったということであろう。
◆「自己の自由を絶対とする者には、王侯の尊位も千金の重利も、破れ草履にすぎないであろう。そして足切りの受刑者にもこの自由は与えられているのである。養生とは山海の珍味に飽くことでも、錦繍(キンシュウ)の衾(しとね)を重ねることでもなくて、この己れの内にある自由を生きることである。一切の不自由を不自由として逞しく受け容れる自由、そこにこそ生を養う真の秘訣がある、と荘子は右師の言葉に借りて明らかにするのである」(福永光司)
※樊(ハン・かご)
・かご。細い枝をそらせ、からませてあんだ鳥かご。
・【解字】
会意。上部は「林+交差のしるし」からなり、枝を×型にからみあわせることを示す。
□□樊は、それと左右の手をそらせたさまを合わせた字で、枝を(型や)型にそらせてからませること。
※蘄(もとめる)
・もとめる(もとむ)。祈りもとめる。
□□▼祈に当てた用法。
□□□「所以蘄有道=有道を蘄むるゆゑんなり」〔呂氏春秋・振乱〕