三年前の内沢山神社の祭り朝、神社の掃除で御堂所にあるご神体が仏像であることがわかっていた。それまで御堂所の中まで掃除することがなかったが、落ち葉やごみクズが入り込んでいるのに気づき、掃除の過程で初めて知った。しかし、仏像がどういうものか、山神社がいつごろ造立されたのか知っている人はいなかった。今回修復工事の協賛金を集落に呼びかけで、「覚書」があることを知った。
内沢山神社
集落の「高橋喜右衛門」家から、山神社の覚書「観音社 山神社日記」明治4年(1872)「黒瀧源蔵」著が出てきた。「黒瀧源蔵」氏は明治新政府の「廃仏毀釈」で廃止に追い込められた麓集落にあった「妙音寺」の住職だった。妙音寺住職が「廃仏毀釈」でこの地を離れる時に、本家の「喜右衛門」に「覚書」として預けた。それには以下のような記述がある。(抜粋)
天中天平等 延享三歳丙丑 諸旦那豊楽延 如意満足
奉造立山神宮諸願如音大旦那繁昌之如
国土安穏 二月一二日
別當 麓邑智傳坊 施主久右衛門
とあり延享3年造立の「智傳坊」は妙音寺住職だった。さらに内沢山神社の造立、再建の経過が記されている。
川連 内沢
山 神 社 造営修覆村中信心者
延享 三年丙丑二月十二日造立 (1746)
宝暦 七年丁丑二月十六日再建 (1756)
宝暦十二年 午七月二三日再建 (1762)
安政 六年 未九月二二日再建 (1859)
此度御一新附大山
(西暦編入筆者)
造立が延享3年(1746)で3回に渡って再建されてきたことが記されている。延享3年造立から宝暦11年まで16年の間、2回の再建は何を意味するものだったろうか。現在の御堂は安政6年の再建で156年になる。「観音社 山神社日記」に「惣戒師釈迦牟尼如来奉造立山神大権現」とある。
惣戒師釈迦牟尼如来奉造立山神大権現貮尺四面御堂所
寶暦十二歳午七月二三日 別當麓村 智傳坊
右同断 干時安政六年未九月二二日 大工重次
導師楽市頭喜寶院慈了
別當祈願師妙音寺教勧 願主両麓村中
家運長久如
明治以前「神仏習合」と云われ、神と仏は一体だった。ウィキペディアに次のような解説がある。
「神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆ともいう」。
また「釈迦牟尼如来」について
「釈迦牟尼如来とはインド各地を巡って真理を広められた仏様。山神社の大乗仏教では、釈迦牟尼仏(釈迦如来)は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆(サハー、堪忍世界)の仏である。また、三身説では仏が現世の人々の前に現れた姿であるとされている。「釈迦牟尼仏」の「牟尼」というのは聖者とか修行に励んでいる人の事。「釈迦如来」の方は「如来」というのは如来自体が釈迦の化身。「如来」は「仏」の中でも最高ランク」。 とあった。
又、山神大権現の権現について
「権現(ごんげん)は、日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す」とある。
2015.05.12 内沢山神社 貮尺四面御堂所 祭典 奉納 御戸帳
明治27年(1894)8月25日の川連村大水害の時、泥水が山神社の天井まで達したと語り継がれている。内沢の流れから山神社の天井までは約7~8mはある。地形からみると山神社前は内沢本流と滝ノ沢、牟沢との合流点でこの付近が土砂崩れでせき止められて一時的にダムが形成されたものと思われる。「川連水害記」には内沢の土砂崩れ沢がせき止められたのは数十か所あったと記されている。降り続く豪雨でせき止められた箇所が決壊し集落に達し流失家屋11戸、死者5名の大惨事があった。
仮説だが水没した当時、内沢山神社の神体がなかったのでないかと思われる。高度経済成長時代は毎年のように例大祭が行われていたが、昭和40年代後半になって例大祭が不規則になってしまった。このことをに憂慮した集落の建具士の「T氏」が中心になって、例大祭が復活してきた経過がある。当時「山の神様に神体がないということで新たに造った」との話が伝わったが詳しいことは知りえない。
その後集落の「I家」に「神体」が保管されていることがわかり、昭和50年代後半に「山神社」に再安置された経過がある。「I家」にいつごろから山神社の神体が保管されていたのか現当主に尋ねたが詳細はわからなかった。「黒瀧氏」が明治の「廃仏毀釈」で「神体」が破壊されるのを恐れて「I家」に預けたとも想像できるが確証はない。
明治新政府は慶應4年3月に発した太政官布告(通称神仏分離令)、明治3年に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされ、「廃仏毀釈」で「神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭が行われた。寺や神社の廃止や統合があったとされるが仏像の「神体」は現在も各地に存在している。2015.11.25「小沼神社と仁王門」で紹介した「小沼神社」には「十一面観音菩薩立像」と「聖観音菩薩立像」の2体が安置されている。
2015.05.12 内沢山神社 祭典 鳥居の御払い
2015.05.12 内沢山神社 祭典
今年は内沢山神社造立から269年、現在の山神社の再建から156年になる。御戸帳も新しく奉納され造立、再建で守られてきた内沢山神社が集落の協賛で豪雪の被害から修復され、例祭も厳かに執り行われた。山の神様は例祭を境に川連の田圃の神様として、川連野を見守っている。
内沢山神社
集落の「高橋喜右衛門」家から、山神社の覚書「観音社 山神社日記」明治4年(1872)「黒瀧源蔵」著が出てきた。「黒瀧源蔵」氏は明治新政府の「廃仏毀釈」で廃止に追い込められた麓集落にあった「妙音寺」の住職だった。妙音寺住職が「廃仏毀釈」でこの地を離れる時に、本家の「喜右衛門」に「覚書」として預けた。それには以下のような記述がある。(抜粋)
天中天平等 延享三歳丙丑 諸旦那豊楽延 如意満足
奉造立山神宮諸願如音大旦那繁昌之如
国土安穏 二月一二日
別當 麓邑智傳坊 施主久右衛門
とあり延享3年造立の「智傳坊」は妙音寺住職だった。さらに内沢山神社の造立、再建の経過が記されている。
川連 内沢
山 神 社 造営修覆村中信心者
延享 三年丙丑二月十二日造立 (1746)
宝暦 七年丁丑二月十六日再建 (1756)
宝暦十二年 午七月二三日再建 (1762)
安政 六年 未九月二二日再建 (1859)
此度御一新附大山
(西暦編入筆者)
造立が延享3年(1746)で3回に渡って再建されてきたことが記されている。延享3年造立から宝暦11年まで16年の間、2回の再建は何を意味するものだったろうか。現在の御堂は安政6年の再建で156年になる。「観音社 山神社日記」に「惣戒師釈迦牟尼如来奉造立山神大権現」とある。
惣戒師釈迦牟尼如来奉造立山神大権現貮尺四面御堂所
寶暦十二歳午七月二三日 別當麓村 智傳坊
右同断 干時安政六年未九月二二日 大工重次
導師楽市頭喜寶院慈了
別當祈願師妙音寺教勧 願主両麓村中
家運長久如
明治以前「神仏習合」と云われ、神と仏は一体だった。ウィキペディアに次のような解説がある。
「神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆ともいう」。
また「釈迦牟尼如来」について
「釈迦牟尼如来とはインド各地を巡って真理を広められた仏様。山神社の大乗仏教では、釈迦牟尼仏(釈迦如来)は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆(サハー、堪忍世界)の仏である。また、三身説では仏が現世の人々の前に現れた姿であるとされている。「釈迦牟尼仏」の「牟尼」というのは聖者とか修行に励んでいる人の事。「釈迦如来」の方は「如来」というのは如来自体が釈迦の化身。「如来」は「仏」の中でも最高ランク」。 とあった。
又、山神大権現の権現について
「権現(ごんげん)は、日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す」とある。
2015.05.12 内沢山神社 貮尺四面御堂所 祭典 奉納 御戸帳
明治27年(1894)8月25日の川連村大水害の時、泥水が山神社の天井まで達したと語り継がれている。内沢の流れから山神社の天井までは約7~8mはある。地形からみると山神社前は内沢本流と滝ノ沢、牟沢との合流点でこの付近が土砂崩れでせき止められて一時的にダムが形成されたものと思われる。「川連水害記」には内沢の土砂崩れ沢がせき止められたのは数十か所あったと記されている。降り続く豪雨でせき止められた箇所が決壊し集落に達し流失家屋11戸、死者5名の大惨事があった。
仮説だが水没した当時、内沢山神社の神体がなかったのでないかと思われる。高度経済成長時代は毎年のように例大祭が行われていたが、昭和40年代後半になって例大祭が不規則になってしまった。このことをに憂慮した集落の建具士の「T氏」が中心になって、例大祭が復活してきた経過がある。当時「山の神様に神体がないということで新たに造った」との話が伝わったが詳しいことは知りえない。
その後集落の「I家」に「神体」が保管されていることがわかり、昭和50年代後半に「山神社」に再安置された経過がある。「I家」にいつごろから山神社の神体が保管されていたのか現当主に尋ねたが詳細はわからなかった。「黒瀧氏」が明治の「廃仏毀釈」で「神体」が破壊されるのを恐れて「I家」に預けたとも想像できるが確証はない。
明治新政府は慶應4年3月に発した太政官布告(通称神仏分離令)、明治3年に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされ、「廃仏毀釈」で「神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭が行われた。寺や神社の廃止や統合があったとされるが仏像の「神体」は現在も各地に存在している。2015.11.25「小沼神社と仁王門」で紹介した「小沼神社」には「十一面観音菩薩立像」と「聖観音菩薩立像」の2体が安置されている。
2015.05.12 内沢山神社 祭典 鳥居の御払い
2015.05.12 内沢山神社 祭典
今年は内沢山神社造立から269年、現在の山神社の再建から156年になる。御戸帳も新しく奉納され造立、再建で守られてきた内沢山神社が集落の協賛で豪雪の被害から修復され、例祭も厳かに執り行われた。山の神様は例祭を境に川連の田圃の神様として、川連野を見守っている。
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