2015.11.20のFacebookに榧の木「翁顔」を書いた。「翁と化身した川連城嫡男小野寺桂之助。?翁の向いている方角は西北西。冬は容赦なくシベリア嵐が吹き込む。いつの時代から翁顔になったのかはわからない。誰も「翁」となった川連城嫡男「小野寺桂之助」等と話しても信じない。しかしこの位置に立ち、悠久の歴史に踏み込んでしまうと川連城嫡男桂之助氏の無念さが見えるような気がする。不思議な榧の木の「翁顔」、今回少し掘り下げて追ってみた。
この榧の木は自宅から直線距離で約300m、現在は周囲がりんご畑になっている。2015.3月末固雪を踏みしめて「榧の木」を眺めていて気づいた。高さ2ⅿほどのところの幹、目は閉じてジッとしてる姿、目線の方角は西北、直線距離約10キロには能恵姫の生まれた岩崎城になる。鼻筋、口元はどう見ても印象的な柔和は「翁顔」に見える。何度か訪れてはいたが夏場には気づかなかった。周囲が青く繁る夏よりも周りに雪があればより強調されて見えるから不思議だ。
翁になった榧の木 2015.3.27
能恵姫が龍神にさらわれたのは天正元年(1573)といわれ、龍泉寺に「榧の木」が植えられてから約440年の年月が経っている。樹齢約440年の「榧の木」は18年前に二股の一方は倒れてしまったが南東側に伸びた片方は健在だ。18年前(1999)の1月、西側の幹が雪の重みに耐えかね倒れてしまった。平成11年1月3日の日曜日、新年一番の集落の行事「春祈祷」が会館で開かれたときに話題になった。早朝の大きな鈍い音は「榧の木」の半分が倒れる音だったという。
倒れた榧の木 1999.1.6
天候の回復をまって現場に向かった。龍泉寺跡の倒れた榧の木は空洞で無残な姿になっていた。散在していた木片も朽ちた廃材状態。よくこれまで風雪に耐えて立っていたものだと思えた。榧(カヤ)の材木は一般的には淡黄色で光沢があり緻密で虫除けの芳香を放つ。カヤ材でもっとも知られている用途は碁盤、将棋盤、連珠盤である。これらは様々な材の中でカヤで作られたものが最高級品とされているが、倒れた木は無残な姿で榧材としての値はほとんど考えることはできなかった。
倒れる前の榧の木 1993.5.20
この写真は倒れる前のもので榧の木の北東側から撮った。この写真の右側の幹が倒れた。この幹も上部で二股になっていた。上部付近に枯れが入り長い年月で幹の内部は朽ちてしまったらしい。
現在の榧の木 2015.3.27
これは前の写真のは反対側、南西側から撮った。右側に傾いている幹は前の写真、倒れる前の左側が残ったものになる。
2010年1月5日のブログ「化け比べの背景(2)舘と平城に次のように書いた。
「館山は川連町古館にあって川連城(別名黒滝城とも云う)のあったところである。 昔、岩崎城の殿様には、能恵姫という娘がいた。姫は十六才になり、川連城の若殿小野寺桂之助へ嫁ぐことが決まっていたが、婚礼の日に城下にある皆瀬川の淵に呑まれ、そのまま帰らぬ人となってしまった。姫は幼い日の約束を果たすため、サカリ淵の大蛇の妻となり、竜神と化したのだった…。
岩崎城址千歳公園には、姫を祭る水神社があり、姫の命日には「初丑祭り」が行われる。公園の広場には、姫を忍ぶ能恵姫像も設置されている。岩崎の人にとって能恵姫は、はるか古(いにしえ)の精神の源流を紡ぐ人のような存在にみえる。竜神夫婦はその後、サカリ淵へ上流の鉱山から流れ来る鉱毒を嫌って、いつしか成瀬川をさかのぼり、赤滝に落ち着いたと言われ、これが赤滝神社の縁起である。
姫の死(失踪)をきっかけに、川連に龍泉寺(現在は野村)が建立された。能恵姫の婚約者であった川連城主の若殿が建てたといわれ、今も寺には姫の位牌が祭られている。川連の寺跡には、当時植えたといわれる「榧の木」の老木が歴史を物語っている。根元に姫のお墓も残されていて、失った人の悲しみを今に残している。川連城主小野寺氏、岩崎城主岩崎氏ともその後の戦乱に巻き込まれ滅亡した。能恵姫の話だけが老人から子供へと語り継がれ、420年の年月が過ぎようとしている。 岩崎地区では今でも能恵姫に因んだ祭りや行事が盛んだが、若殿地元ではなにも行事らしいものはない」。
龍泉寺は案内板によると「天正元年」(1573)岩崎城主の息女能恵姫が川連城主の嫡男挂之助に嫁入りの途中皆瀬川の龍神にさらわれた龍泉寺はその菩提をともらう為建てられたと言い伝えられている。寺は元、根岸にあったが明治22年火災に逢いこの地に移された」。
巷間伝えられる能恵姫伝説を時系列でみれば次のようになる。龍泉寺建立が天正元年(1573)、赤滝神社は承応元年(1652)で能恵姫失踪から約79年後。鉱毒の素は上流の鉱山とすれば白沢鉱山宝永六年(1709)、吉野鉱山享保五年(1720)、大倉鉱山延享元年(1744)に始まっている。能恵姫伝説では大倉鉱山の鉱毒に耐えられなくて成瀬川の赤滝に棲みついた
ことになっている。大倉鉱山は延享元年(1744)、赤滝神社の創建よりも92年後に発見、採掘をされたことになるから、時代背景があわない。このことからしても能恵姫伝説は巧妙に仕掛けられた物語との説の証明となるのかもしれない。しかし、史実と伝説は必ずしも一致されなくとも、440年前の能恵姫伝説が多くの人たちと共有され、地域の中に根づいていることに異論はない。
能恵姫が祀られているお堂2015.5.12
旧龍泉寺跡の榧の木の根元には姫の供養塔の祠がある。祠の石像に建立はいつの時代なのかは知られていない。祠は昭和37年9月、麓の「川崎うん」さんが発願主で川連地区の63名の協賛で再建された。祠の中に協賛者の氏名と再建額1万2千4百円と記録されてある。集落での「川崎」さんは信心の深い人として知られていた。信心深い川崎さんは荒れ果てていたお堂の再建を発案、共鳴した63名が協賛してお堂が出来たことを当時聞いていた。そして再建から約54年、平成28年春新しくお堂が龍泉寺住職のよって再建されている。お堂の中の石像は当時からのものなのかは承知していない。前のお堂は西向きだったが新しいのは南向きになっている。翁顔の榧の木とは違う方向になっている。この場所から南東の方向はかつての川連城の方角になっている。
2015.5.12 お姫様お堂 祭典の旗
現在も川崎家では毎年一回5月12日にお祭りをしている。写真はその旗。旗には「龍泉寺禮府妙見大姉」とあって 昭和37年9月22日 宿講中 とあるのはお堂再建の時の旗。当時は春、秋の2回お祭りをしていた。稲川町史資料編「第14 龍泉寺由来」にも岩崎の殿さま相模守道隆が「城の一角に水神社を再建し、姫の霊を合わし御供田、鈴鳴る田、笛吹田の三か処を附置き、春秋の二回の祭典を仰出されたと伝えられている」との記述がある。現在の岩崎の千歳公園にある水神社の祭典は11月の初丑の日に勇壮な裸まつりが行われている。旧暦11月初丑の日は440年前「能恵姫」が嫁ぐ途中、竜にさらわれた日にちなんでいる。
祭典の朝 旗を立てる川崎さん 2015.5.12
川崎さんは毎年5月12日朝祭典の旗をたて赤飯を焚いてお祭りをしている。現在は参拝者も少ないが「ばあさんがやってきた祭典行事を辞めることはできない」と彼は言う。
「翁」(おきな)とは、年取った男、老人を親しみ敬って呼ぶとされる。子供は神仏に近い存在とされていたが、老人も同様である。「翁」になると原則的に課役などが課せられなくだけでなく神仏に近い存在とされ、例えば「今昔物語集」では神々は翁の姿で現れ、「日権現験記絵巻」でも神は翁の姿で描かれている。能楽の世界では「翁」は「老爺の容姿をしており、人間の目では無意識の状態でのみ姿を見ることが出来る存在。したがって、意識して見ようとすれば見えない存在である。元来は、「北極星」あるいは「胎児の化身」などと考えられていた翁とは「宿神」つまり、この世とあの世を繋ぐ精霊のようなもの」との説も見られる。
倒れた榧の木の根元 2015.3.27
根元から双幹の「榧の木」は平成11年倒れて、片方の幹は健在。双幹の時には気づかないでいた一方の幹の「翁顔」に見える姿に今の所共鳴者は少ない。現在旧龍泉寺跡を物語のは榧の木、お堂、六地蔵、山門禁葷酒だけになっている。
旧龍泉寺参道にある六地蔵 2015.5.12
旧龍泉寺の墓地と川連集落内檀家の墓があり、六地蔵様にはお参りされている。
山門禁葷酒 2015.3.27
集落内主要道路沿いに立っている「山門禁葷酒」の石柱、酒の部分が長い年月で土の中に埋まって見えない。一般的に「不許葷酒入山門」の石柱が多い。「臭いが強い野菜(=葱(ねぎ)、韮(にら)、大蒜(にんにく)など)は他人を苦しめると共に自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これらを口にした者は清浄な寺内に立ち入ることを許さない」という意に解釈されている。平成10年10月、旧稲川町は「龍泉寺跡カヤの木」の標柱を立てた。
稲川町史資料編第七集茂木久栄第14「龍泉寺由来」がある。その中に川連村高橋利兵衛文書に「天正八年の検地騒動で川連城主嫡男桂之助が最上勢に捉われたため、能恵姫がなげいて投身自殺したのを物語化したのが龍泉寺由来」とある。さらに増田町田中隆一氏によれば「寛永19年(1642)十月台命に因りて小野寺桂之介道白は湯沢に幽される。20年(1643)道白湯沢に卒す、嶽竜山長谷寺に葬る。法名駿邦院骨眼桂徹」、天正19年(1581)検地騒動が能恵姫物語を生んだのではないかとある。この資料の年号にも一部に矛盾がみられる。
この検地騒動は「川連一揆」ともいわれる。天正18年(1590)豊臣秀吉の太閤検地を越後の大名上杉景勝を命じた。秀吉家臣大谷吉継をが庄内、最上、由利、仙北の検地を行った。この検地の過酷な所業に諸給人、百姓が蜂起した。一揆勢力は各地に放火、追い詰められた一揆勢は増田、山田、川連に2万4000余名が籠城し抵抗したが圧倒的な大谷勢に鎮圧された。結果一揆衆1580名が斬殺、大谷勢討死200余、負傷500余名の激しい戦闘で終結した。3万7000人が犠牲になった「天草、島原の乱」は別格としても、「川連一揆」の双方合わせて犠牲者数1780人に抗争の激しさを想う。川連一揆は川連城が拠点といわれ、それほど広くもない地域に増田、山田、川連に2万4000人が集結した姿を連想してもあまりにも規模の大きさに唖然としてしまう。そして川連城主は責任者として人質に捕らわれ一揆終結の6年後、一揆の咎めとして豊臣秀吉の命を受けた最上義光によって川連城、稲庭城、三梨城は慶長2年(1597)落城した。城も寺も集落も火の海となった。徳川の時代になり佐竹が秋田に入部した慶長7年(1602)、一緒に水戸からきた「対馬家」(現高橋家)が来たときも集落は、戦いから復興出来ず荒れていたと語り継がれている。
川連城をめぐる戦国時代からの様相は波乱万丈だった。その時代を知る者は旧龍泉寺跡の「榧の木」といえる。川連城嫡男若殿「小野寺桂之助」は「翁」の姿に化して歴史の流れに立ち向かっているように想える。翁となった榧の木の側に旧龍泉寺は約315年、明治22年(1889)の火災で現在地の湯沢市川連町野村に移って128年、合わせると龍泉寺は開山443年になる。
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