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川連の「ほらあな」(洞穴)ものがたり

2016年12月10日 | 村の歴史
川連の内沢には昔「カネヤマ」探しのために掘った、「ほらあな」が三ケ所ある。かつては子供たちの探検場所として人気があった。一つは内沢の中心部「山の神」神社の近く、通称「どじょう滝」の下流、昭和61年新しく出来た土固工下から約50mの地点、内沢の左岸の場所、この洞窟に入り進むとタップリの水たまり、立て坑らしく深さがわからず気持ちが悪かった。まっすぐに進むのは危険だと注意され確かに右に曲がるとすぐ行き止まりだった。もう一ケ所は「山の神」から左に進み「ムサワ」、「タキノサワ」合流地点から左へ沢なりに約100mの場所。周りが杉林で入り口がうす暗く、少し気味悪い洞穴だった。それほど深くはなくせいぜい5m程だった。三つめは今回の「ほらあな」、内沢の奥地通称「オヤシキ」に入り、「イシカツラ」と呼ばれている内沢左岸の場所。この洞穴は沢の流れより3m程高い所にあって、石の割れ目から清水が流れ出ている。現在麓集落の数人がこの清水を約3㌔程配管をし生活用水として使っている。

「イシカツラ」以外の「洞穴」は昭和61年豪雨の復旧工事で立ち入りが危険なため入り口が閉ざされた。川連の三ケ所の外に東福寺山の「桐沢」は東福寺と川連の入会山。終戦前後ここにも一ケ所掘られた場所がある。10代の頃この場所を訪れたことがあるが、現在は立木が鬱蒼と繁りその場所は良くわからない。

内沢で入り口を閉ざさないでいた一つの「洞穴」は湯沢市ジオサイトで平成23年度に「ジオサイト:稲川15」で紹介されている。この資料では坑道跡はいつの頃掘られてたのかわからないとある。



このジオサイト:稲川15によれば、「川連の鍋釣山周辺の地質は、中新世中期(2000万年前)の火山噴火によって形成された国見嶽層の安山岩質火山碎屑岩と輝石安山岩からなる。川連の坑道跡付近は、暗灰色~帯青黒色の玄武岩質安山岩で、シリカ脈を伴っている」とある。

稲川町史には『この付近は激しい海底火山噴出の中心域を物語る。さらに注には「この変動に続くマグマ熱水の上昇によって黒鉱等の金属鉱床が形成された」、国見嶽、鍋釣山等はその火山岩体から成る。激しい海底火山噴出は西黒沢期後期には活動を終え、この地域は凝灰岩から泥岩の堆積が示す深い海となった。そして、中新世末期の船川期には、褶曲、断裂等の変動を受けつつ陸化したものと思われる』とある。

川連の北には同じ地質時代の地層に鉱脈が形成され東福寺の白沢銅山が宝永6年(1709)、大倉鉱山が宝暦3年(1753)に開口されている。川連の内沢はこの地区と地層の類異性から古くから「カネヤマ」探しに関心が高かったと思われる。

明治新政府は、明治2年( 1869) 2月20日に「鉱山開拓之儀ハ、其地居住之者共故障無之候、其支配之府藩県へ願之上、掘出不苦候、府藩祭ニ砂テモ、旧習ニ不泥、速ニ差免可申事」(行政官布告177号)と布告、鉱山に対する政府の所有権と鉱業自由の原則を宣言した。そして試掘に地主の優先権を保障、自分の所有地以外で出願するときは地主の承認を要すると云うことになっていた。

このほどわが家からこの内沢の鉱脈探査に関係すると思われる資料が出てきた。この関係資料から内沢の「洞穴」は下記の資料から明治7年の試掘願書から始まったと推定される。

試掘願書 部分 明治7年

この「試掘願書」は明治7年に大館村「黒滝源蔵組合」の名で出された。願書には黒滝源蔵、高橋藤右エ門と大館村伍長総代小野寺藤左エ門、川連村伍長総代関 主助の名がある。どうしてこの書がわが家からでてきたのか不思議だったがこのほど手がかりが出てきた。試掘には相応の経費が必要になる。試掘願書出した明治7年7月22日に「長里久七良」あての「貸地證文事」(借用証文)。受合「高橋藤右エ門」、「井上久四良」。借主「黒滝源蔵」、「高橋藤右エ門」を含む8名。「長里久七良」は私の高祖父。不思議なのは借主の8名の中に年齢12歳の曾祖父の名があるが印はない。印があるのは6名で金10円借用されている。中心の「黒滝源蔵」氏は明治の廃仏毀釈で廃寺となった妙音寺の最後の住職だった。

貸地證文事 明治7年7月22日

そして下の図はは6筆の桑畑と林を担保とした「書入れ金借用證文」で、金額は5円。「黒滝源蔵」を含む3名が川連村の「赤沢○○」当てに出され、高祖父は請合人になっている。請合とは今でいう保証人のこと。

書入れ金借用證文一部 明治8年3月27日

明治7年に「試掘願書」が出され、許可が下りて採掘がはじまったものと思われるがその経過についての書類は見つかってはいない。内沢の採掘坑道は深さが約15m程。坑道の入り口が狭く、それに水が流れ出ているので入るのが難しい。10m程進むと高くなっているで人は立てる。現在麓集落の有志が導水管で湧水を集落まで引いていて、数年毎に中に入って掃除をしている。

この2枚の証文からから推定して川連の内沢鉱脈探査の坑道は明治7年から始まったと思える。約15m掘り進むのにどれくらいの日数がかかったのかは知る由もない。当時の大工の日当は30~40銭、日雇いはその半分の16~20銭と言われている。二つの証文にある計15円は忽ち消えてしまったと思われる。その後の資金の手立てはどうだったのか、證文にある永代地の一部は現在私の家の持ち山になっている。

試掘坑道の隣地はわが家の所有地。当時は桑畑で「豆星平」と呼び、坑道のあるところは「イシカツラ」と呼ばれていた。ジオパークの資料に「石川連」とあるが、地元でかつて「イシカツラ」と呼ばれていた呼称が「石川連」なのかは判断が難しい。隣地の「豆星平」は樹齢100年過ぎた杉林、「イシカツラ」は岩の層で樹木が育たない。内沢はそのすべてが急峻な地形。「豆星平」や「桧平」等、平の付く場所が数ケ所あるが一般的な「平」のような場所ではない狭い場所。わが家の「豆星平」は所有面積は約30aあるが平の場所等はほとんどないに等しい。急峻な山は住む人々は広い場所への願望として、わずかな地にも「、、平」と名で読んだものと思われる。傾斜があるから山の畑は桑畑や萱畑等になっていた。

内沢は明治27年に大雨で集落は大水害に見舞われる。流失家屋11戸死亡者5人の村最大の被害。この記録によれば内沢のいたるところで土が流され沢が止まり堤が何十か所も生まれ、「大地波」となって集落を濁流が襲ったという。この内沢の「洞穴」の所、隣地のわが家の杉林は沢に向かって10数m崩れた場所がある。この場所から300m程上流、通称「狸岩」付近から推定15トンもある大岩が下流約600m流されたと記録にある。この大岩を集落では「雨乞石」として祀っていたが昭和61年の沢河川の工事で林道下の埋められてしまった。内沢水害についてブログ「川連村水害記」2013年9月3日に詳細。(http://blog.goo.ne.jp/kajikazawa_1942/e/75831607ad51e41678488ba17bce9809)

洞窟のある岩肌の「イシカツラ」はこの豪雨でさらに岩肌がむき出し、採掘された岩石はすべて下流に流されてしまったと思われる。明治7年「試掘願書」が出され、許可が下りて何年間内沢の山に挑戦したのか確実な資料が乏しい。各地の鉱石探しのノウハウを持っていたのは山伏や修験者だったといわれている。明治7年の「試掘願書」の代表が、廃仏毀釈で廃寺になった妙音寺住職「黒滝源蔵」氏だったことは大きな意味があった。妙音寺は祈祷寺で山伏・修験者のながれをくむお寺だった。「妙音寺」について昨年12月19日のブログ「妙音寺」1(http://blog.goo.ne.jp/kajikazawa_1942/e/e6c9c24fe38e59d0099ac8d7b218e505)に詳しい。

先のブログで紹介したように、広報いなかわ昭和48年7月10日号「町の歴史と文化」に「山伏・修験」、「山伏が、どれだけ秋田の文化を高めてきたかは民俗芸能や、古文書でわかる。読み書きができる山伏たちは地域社会の良き教師であり、京都との往復修業によって、地域文化の担い手となった。一般の人は、山伏は単なる宗教家、呪術使いといったイメージでとらえているが、そうではない。彼らは経を読み、祈願をし、占いをする一方、医術と教育に通じ著述と、農作業のリーダーだった。修験道を実践する行者でありながら、片方では中世文化の推進役、«生活総合コンサルタント»だった。山伏文化、修験文化を無視して歴史を語ることはできない」と「秋田の山伏・修験」の著者、佐藤久治氏の談が載っている。

日本では16世紀末から17世紀にかけて鉱山開発が頂点、国内のほとんどの地域が明治の初期にかけて鉱山開発が行われた。鉱山が見つかれば資金、技術、労働力が必要で江戸初期においては幕藩領主、近代においては財閥系の鉱山企業が乗り出している。

試掘許可や採掘許可が下りたとしても相応の経費がかかる。鉱山、鉱床発見の確率は極めて低かったはずだ。内沢と同じ地質時代の地層(玄武岩質安山岩)から鉱脈が開発された「白沢、大倉鉱山」は直線距離は3㌔弱の場所だったが鉱物は見つからなかった。明治の初期は、幕末から続く物価の高騰と税の金納に庶民は振り回された時代、固い岩山に挑戦した当時の熱いエネルギーが偲ばれる。

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