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小南さんと「まんさくこけし」 

2013年12月01日 | 足跡

「木地山系こけし」工人小南三郎さんが、このほど30数年間の作品の中から選んだ写真集「まんさくこけしと達磨」を出版した。
私は小南さんのことは20代のころから知っていたが、本格的な交流は村議、村長等氏が公職から離れてからだから30年ほどになる。小南さんは先のブログにも取り上げた「鶴田知也」氏や「伊藤永之介」氏との交流があることも先輩たちからよく聞いていた。


まんさくこけし 写真集「まんさくこけしと達磨」から

昭和40年前後に皆瀬村に同人誌「ごとく」があった。友人を通じて拝見していた。ガリ版刷りの小冊子に溢れる皆瀬村の発展と、改革を呼びかける内容に隣村の住民として触発されていた。昭和36年、農業基本法制定以降農業、農村はそれまで経験したことのない変貌にあった。出稼ぎの増加、離農などで地域の崩壊傾向の中で「農業で農村での自立」を旗印に、「村づくり、町づくり」奔走するグループ各地に生まれた。そんな中で「ごとく」の発刊は皆瀬村内外で大きな反響の中にあった。その後、中核の構成員数人が大潟村の「八郎潟入植」と進み「ごとく」誌は廃刊となった。小南さんはこのぐるーぷの中心だったと記憶している。

小南さんは村議5期20年をつとめ、50歳で勇退。その後村長選への立候補した。立候補は今振り返ってみてもユニークだった。人づての話だったが氏は村長選へは立候補届を出しあと街頭からも叫ぶこともなかったと云う。村議選もそのスタイルだった。それでも温厚な氏は多くの支持を得ていた。確か三回目だったと思うが見事村長に当選し一期務めた。

当時出稼ぎの最盛期、1980年出稼ぎ先で「東京こけし友の会」を訪問、「こけし」つくりに入ったことが、写真集「まんさくこけしと達磨」のあとがきで記されている。
1981年4月、NHK朝の連続小説「まんさくの花」が始まった。「まんさくの木」は栗駒山麓の豊富にあり、山仕事をしていた小南さんはその木で胴模様にまんさくの花をあしらった「まんさくこけし」を発表した。NHK朝のテレビ小説「まんさくの花」でも紹介され、またたく間に人気を得た。私は里山の「まんさくの木」は知っていたが、「こけし」の素材になるくらい太い「まんさくの木」等想像することもできなった。深山には樹高が5mにもなる「まんさく」の大木があることを初めて知った。


写真集「まんさくこけしと達磨」から

「伝統こけし」は 師弟相伝の形でその製作技術や、形、模様等が一族や弟子に伝えられて外にない、その土地、その家系に定着した独特のものが伝統こけしと言われている。私の家系に「木地山こけし」に精通した叔父がいた。若いころ「こけし」の道を志していたという叔父との会話はいつもこけし談義。
叔父(1921-2013)は、晩年、木地山系川連こけしの代表だった阿部平四郎氏(1929-2013)と若いころ同時期、一緒に高橋兵次郎氏に弟子入り木地を学んだという。阿部平四郎氏は就業後、独立して木地業を始め1958頃から正式にこけし製作を始めた。一方、叔父は高橋兵次郎氏に弟子入り後、当時「こけし」つくりで生活の目途がたてられず「こけし」の道を断念したと語った。

師匠の初代・高橋兵次郎氏は明治31年に木地師・徳左衛門の二男として旧川連村に生まれ、大正元年から父について木地を習った。こけしは昭和7年ごろから始め、作品は昭和8年の橘文策氏の頒布品から知られるようになった。戦後は昭和30年ごろから本格的にこけし作りが復活し昭和49年に77歳で亡くなっている。「木地山系川連こけし」の重鎮だった。高橋兵次郎氏の長男は雄司氏、現在木地山系川連こけしの欠くことのできない代表の一人で、今日も活躍している。

叔父は高橋兵次郎氏に弟子入りで木地を学び、昭和30年代後半から川連地区で盛んになった「秋田仏壇」産業の中で、厳しい修業で学び刻まれた技術を生かし、仏壇に欠かせない「ろうそく立」等の分野に進んだ。私との「こけし」談義で必ず出てくるのが木地のことが主で、「こけし」や「ろうそく立」のくびれの部分は共通する。木地山系こけしは一本の木で造られ、首の部の仕上げが重要な要素だといった。形はもちろんのこと「ろくろ」で仕上げの際、ノミの絶妙な切れ味が命だと聞かされた。ノミの研ぎ一つで作品が決まる。「こけし」は木目を生かすのは当然としても微妙に違うその形を、何本かのこけしを題材に話してくれた。
叔父はこけし工人にはならなかったが、その後高橋兵次郎氏から続く技法を後輩に伝授した。教えを受け、木地山系こけし工人になって現在も活躍している人もいる。

「伝統こけし」は師弟相伝の形で、師匠に2年以上弟子入りして修業することが、伝統性を持つこけし工人として認定される条件ともなっている。小南さんは「こけし時代」誌によれば師匠は「見取り」とある。この度の写真集「まんさくこけしと達磨」の中で、東京こけし友の会会長西田峯吉氏の紹介で阿部平四郎氏の門をたたいたが、弟子をとらない氏に断わられていたことを初めて知った。「まんさくこけしと達磨」によれば「こけし」に取り組む小南さんの探究、向上心は当時木地山系工人の代表だった小椋久太郎氏、工人宮原泰治氏、鈴木幸太郎氏から木地の指導、描彩は「東京こけし友の会」会長西田峯吉氏から細かな指導を受けたことが記されている。


私の小南こけしの一部 上の写真の前左側のこけしは、「むのたけじ先生農民文化賞受賞記念」(2001.12.16)祝賀会で参加者全員に提供された

私は「こけし」の収集家でもない。持っている「こけし」はほとんど「小南こけし」だけだ。それもほとんど小南さんから貰い受けたものだ。
小南さんの「こけし」は温厚な性格同様その表情にすべて豊かさがこもっている。代表作の「まんさくこけし」は当然として、近年の「ヒナこけし」に新たな分野を見出すことができる。そして小南さんの人柄が染み出た「達磨こけし」はすばらしい。


ヒナこけし 写真集「まんさくこけしと達磨」から

襟元が右と左、深めと浅めの襟元に雪国の厳しさを想い、この「ヒナこけし」に接っするとなにかホッとする。


達磨こけし 写真集「まんさくこけしと達磨」から

これらの「達磨こけし」は、一つひとつの表情に微妙な違いを発見できる。小南氏の社会派として不正を許さない誠実な生き方を学びうける。
伊藤永之介氏、鶴田知也氏、むのたけじ氏との交流路線の延長を通して、これからも減反廃止とTPP、不穏な空気の政治情勢に「達磨こけし」でカツを入れて欲しいものだとつくづく思う。

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2 コメント

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父について (阿部木の実)
2015-06-03 20:08:02
わたしは阿部平四郎の娘で、弟子でもあり、こけしを作っているものです。

小南さんの写真集に書かれている、父への誹謗のことばに心を痛めています。
小南さんが父に弟子入りを希望された事柄について、わたしは詳しく知りません。
が、父は正義感の強い、人に対してとても寛容な、かつ仕事には厳しい人でした。
その父がお断りしたのなら、それ相応の理由があったのだと信じます。
(母に訊いたら、父は小南さんのことを人柄のいい人だと言っていたそうです。)
印刷物は、その真偽や公平性を保証するものではありません。
けれど、人は活字を信じやすいものです。
父の名誉のためにできることは何でしょうか。
とても残念です。

一昨年にお書きになった記事ですが、父の名前を見つけたのでコメントを書かせていただきました。
父について (阿部木の実) (河鹿沢)
2015-06-06 09:19:56
コメントありがとうございます。ヘタなブログはえらそうに身辺雑記等つづけていますが、1000年以上歴史のある「集落の成り立ちと身辺が中心」です。時々脱線していることに気づくこともありますが何とか続いています。

さて、表記のことですが「父への誹謗のことば」、、、で固まってしまいました。文章は読み手の立場で受けとる内容が違うことはわかります。写真集を何度も読み返しても私には「誹謗」には当たらないように思います。

「伝統こけし」は師弟相伝という中で、多くの工人の門をたたき腕を磨いてきた、小南さんの葛藤とひたむきさにバイタリーに敬服さえしています。小南さんに伝統こけしの工人の皆さんを尊敬することはあっても批判めいたことを私は聞いたことがありません。

ブログでも書きましたが私は「こけし」については全くの素人ですがあなたが日々、木地山系こけしの伝統を守り継続していることを伝え聞いております。この地に脈々と生き、発展している工人がいることを誇りに思っています。

回答にはなっていないかもしれません。研鑽をご期待しております。

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