新河鹿沢通信   

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火の見やぐらの撤去

2009年11月06日 | 集落
村の中心に正座していた「火の見やぐら」又の呼び名を「半鐘柱」が忽然と消えた。
50年近くも見慣れていた風景が無くなると不思議な感慨になるものだ。
火の見やぐらの撤去など多くの地域の人たちには知らされていなかった。

撤去されて半月近くなったが、まだ多くの人たちは知らないでいる。
多くの人たちが通る集落の中心建つ「火の見やぐら」。
通勤、農作業で通るのはマイカーなので、まさかあるはずのものがないだろうなどと注意する人は少ない。

ほとんどの地域で「火の見やぐら」、消防器具置場、防火貯水槽などの設置されている地所は個人の宅地、又は畑地などの地代は無償。ほとんどの集落でそうらしい。

釣鐘は、通常は青銅を鋳造して作られる鐘である。 大きさから梵鐘・半鐘・喚鐘に分けられる。これらの分類については諸説あるが、概ね口径約30cm(1尺)以下のものが喚鐘、55cm~70cm以下のものが半鐘、半鐘より大型のものを梵鐘という。 いずれも仏教寺院において用いられるが、半鐘については火災などの発生を知らせるために火の見櫓に設置されたもののほうが一般に知られている。

急激な市町村合併でそうなったのか。平成の市町村合併で多くの住民から行政は遠くなった。一般の多くの人たちは市役所の窓口に出向くなどということはそれほど多くはない。

合併により、議員は急減し昭和の合併以前の旧市町村単位でみれば一人かせいぜい二人ほど。
新しい市がどちらに向かっているのかなどと一部の人たちのものになってしまった。
いや、そのために広報や旧市町村ごとに自治区制度があるというかもしれないが、役所の本意はほとんどの住民までは届かない。
今回、「火の見やぐら」撤去騒動で露呈したと見るのは大げさか。

撤去された「火の見やぐら」は50年ほどになる。その前の「火の見やぐら」は昭和20年代の建立で200年を超える秋田杉は産土神社から二本、個人の山から提供された一本の計三本柱の火の見やぐらで伐採、運搬は集落上げての大事業だった。そして半鐘は集落もちで当時の行政からどれほどの援助があったのか知る人がいない。

今回、火の見やぐら撤去について地域の消防団組織には連絡したなどと言っているらしいが、「火の見やぐら」や地域の「消防施設」は消防団組織が管理、運営しているかもしれないが、消防団組織に所属しているものではない。施設の土地は個人の善意で成り立ち、集落や市町村組織に所属しているのだ。

今回、古くなって危険だから撤去。とは時代の流れかもしれないが、行政当局からは地域に説明はなく、50年以上も土地提供した人にもなんの説明もなかったことはいまどきの役所の姿なのだろうか。

JAが公域合併の繰り返し、市町村の大型合併で多くの住民の前から行政、農政がますます遠くなってきていることに当局は気付かない。