緑ヶ丘・第二幼稚園 最新かがやき日記

緑ヶ丘・第二幼稚園のかがやく子ども達の成長を見守り、親も教師も園長も子どもに負けず共に成長する日々を綴った日記です。

グリーンパークへ遠足に行きました。

2009年05月25日 17時27分48秒 | 教育

平成21年5月25日(月)

先週金曜日は、年長組と、年少組は、北九州市若松区の

グリーンパークhttp://www.kpfmmf.jp/green/へ遠足に行きました。

一緒のバスに乗り、パークの中まで並んで

手をつないで歩きました。

年長組は、熱帯生態園にも入りました。

珍しい植物や大きなくちばしの鳥や、

ヒラヒラ舞うチョウチョの群れ、それに ゾウガメや

オオトカゲやなまずや巨大な淡水魚類もたくさんいました。

どの子も目を見張り、水槽の中の楽しそうな様子に、見入っておりました。

外の温室内には、チョウチョの卵やさなぎ

 

 さて、本日は、素晴らしい晴天に恵まれ、

年中組全員でグリーンパークへ行きました。

 

バラ園には、満開のばらが咲き誇り、あたりに漂う

芳しい香りに包まれて、大きく深呼吸して楽しく過ごしました。

お弁当を食べて、午後からは、

日本庭園をめぐり、クローバーの花畑で遊びました。

最後は、大きな固定遊具類で思う存分遊び、

芝生広場ではかけっこして帰りました。

 

半袖の体操服で過ごしましたが、明るい日差しがまぶしく

丁度良い海からの風に吹かれて、快適な自然空間でした。

こんばんは、きっと、食欲も出て、寝つきも良いことでしょう。

 

また、この体験を活かして、

明日から繰り広げられる表現活動がたのしみです。 

 

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薩摩芋苗挿しをしました

2009年05月15日 20時45分14秒 | 料理・食育・食材・ガーデニング

平成21年5月15日(金)

久し振りに雨が降りそうな気配になってきました。

今日は、午後からサツマイモの苗挿しをしました。

『なかよし農園』で、全員芋苗を手にして、

運転手さんたちが作ってくださった畑の畝に入って、

園長先生から植え方のコツを教えてもらいました。

「初めての芋苗さし」でしたが、担任の先生方にも

手伝って貰い、うまく植え付けが出来ました。

た~っぷり水を遣りました。

 「さつまいも」は、甘藷(かんしょ)とも、唐芋(からいも、とういも)とも、

琉球藷(りゅうきゅういも)とも呼びます。

元々は熱帯アメリカ原産で、

標準和名はサツマイモで,それは薩摩(鹿児島)から

全国に広まったからということを表しています。

では,鹿児島では何と呼ぶかといえば,「リュウキュウイモ(琉球芋)」で,

沖縄から伝わったということです。

では,沖縄では何と呼ぶかといえば,「カライモ(唐芋)」で,

中国から伝わったということです。

で,最後に,中国では漢名「カンショ(甘藷)」なのです。


 日本でサツマイモの普及に功績のあった青木昆陽

「甘藷先生」と呼ばれました。

http://www.99beach.com/kankoh/list/area3_aoki.html


薩摩芋は、ヒルガオ科なので,花はヒルガオ(昼顔)によく似ています。

 http://alic.vegenet.jp/panfu/sweetpotato/swetpotato.htm

 仲間には、アサガオヨウサイ(アサガオ菜)があります。

 

さつまいもは大変親しみやすい作物です。

干ばつに強くて収量が多く、

我が国に多い火山灰性の土壌にも適しているので、

江戸時代には救荒作物として全国的に広がりました。

じゃがいもと並んで単位面積当たりの太陽エネルギー固定率

あらゆる作物のなかでもトップクラス。

そして、生産物の『おいも』は

ビタミンやミネラルに富む機能性食品です。

 

かつて戦中・戦後の食料難の時代には、量を確保するために

精いっぱい太らせてまずくなったものを食べたために

「さつまいも嫌い」になった方が多いと聞いています。

 

しかし、時代は変わりました。

最近では消費者の根強い健康・自然志向を背景に、

需要は堅調に伸びています。

そして、育種の成果とバイテクの成果である

ウイルスフリー苗の普及によって

大変美しい『おいも』が市場に出まわるようになりました。

さつまいもは一般の家庭菜園でも簡単に栽培できます。

大型のプランターや肥料袋で育てることもできます。

 

そして、収穫した『おいも』を簡単に自分で調理して味わうことができるのです。

このような素晴らしい『さつまいも』ですけれど、

作付面積でみると全盛期の40万haから

現在は4万haと大きく減少してしまいました。

現在、『さつまいも』の仕向け先は

青果用として市場出荷されるものが4割、

でん粉原料用が2割、このほかには、加工食品用、がそれぞれ1割

という状況になっています。

同じ「いも類」のじゃがいもと比べると加工食品としての利用が

半分程度でしかありません。

甘みの強さがアダとなっているといわれていますが、

最近では精力的な品種開発の努力とあいまって

色素利用、ジュースなどの新たな展望が拓けてきました。

さつまいもの料理方法は、様々ありますが、

 http://www.kikkoman.co.jp/homecook/series/satsumaimo02.html

 やはり、一番シンプルな『やきいも』が

一番好きという人も多いようです。

「栗よりうまい十三里」の由来

元々は、「さつまいも = 八里半」

 江戸時代(宝永の頃)、京都に焼き芋屋さんが登場したそうです。
 その焼き芋屋さんの看板には、「八里半」の文字が。


 当時、さつまいもは蒸し芋で食されていたようなのですが、

焼いたさつまいもが栗の味に似ていたことから

 「栗(九里)にはやや及びませんが」という洒落で

「八里半」と名付けた、ということのようです。

江戸で「十三里」にグレードアップ!?

 江戸時代(寛政の頃)、焼き芋は江戸にも伝わり、

京都と同じように焼き芋屋さんは「八里半」の看板を掲げたそうですが、

江戸は小石川の焼き芋屋さんが、「十三里」と名付けたところ 

「栗(九里)より(+四里)うまい十三里」という洒落が江戸っ子にウケて評判を呼び、

今で言うところの大ヒット商品となり、それから「さつまいも=十三里」となったようです。

 また、当時美味しいさつまいもの産地として知られていた川越が

江戸から十三里(約52km)のところにあるため、「十三里」と呼ばれるようになった,

という説もあります。

 さらに、秋真っ只中の焼き芋は、とても美味しいことから

「十三里」より美味しいという意味で「十三里半」と呼ぶ、という説もあります。

いずれにしても、

これから、年長組さんは、毎日、水遣りして、

ツルの伸び方や葉の様子など 観察いたします。

     

なかよし農園や園庭には、「さつまいも」だけでなく、

「キュ-リ」「ナス」「ピーマン」「スイカ」「大根」なども

育てられています。

              

野菜の育ちぶりや、花や葉の様子など注意深く観察して

『新発見』や『なぜかな?』という疑問をたくさん持って

科学する心の芽生えを育てたいと願っています。

            

おうちでも、3歳を過ぎたら、ベランダ菜園で、

ネギやトマトや枝豆など育ててみませんか?

 

ベランダ菜園は、発泡スチロールの空き箱や、

肥料の袋や、ポリバケツでも 可能です。

 

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『わたしのお母さん絵画コンクール』表彰式がありました。

2009年05月10日 23時20分48秒 | 心を育てる・感性をゆたかに

平成21年5月10日(日)母の日

子どもたちの目がとらえたお母さんの素敵なかお…

母と子のふれあいの様子は、ほほ笑ましい。

              

今年で、第43回目となる母の日を記念した

『わたしのお母さん絵画コンクール』が、

毎日新聞社・毎日小学生新聞主催で

北九州地区の入賞・入選作品が決まり

4月29日に新聞紙上で結果発表がありました。

応募作品総数5314点。

入賞作品は、

特別賞27点中 なんと 4点も 当園の園児が受賞しました。

『福岡県小学校図画工作教育研究会賞』

 年中 毛利 天音 ピアノを弾くおかあさん

 

年長 西田 樹 おかあさんとお昼寝

『井筒屋賞』

年少 村上 栞 くちべにをつけているおしゃれなママ

 

年中 倉光 涼羽 雨傘をさしてママとおでかけ

他に

優秀賞150点、中 当園からの受賞者14人も

いました!

佳作106点、

入選365点

おめでとうございます。

 

特別賞は、

本日5月10日午後1時半から、小倉井筒屋新館 7階

パステルホールにて、表彰式がありました!

特別賞と優秀賞は、

小倉井筒屋本館7階に

4月29日~5月10日展示してあります 。

なお、黒崎地区の佳作と入選作品は

黒崎井筒屋3階に展示してあります 。

北九州市立槻田小学校 校長 門司 明 先生の講評がありました。

「いっしょに遊んでくれるお母さん」

「お仕事をがんばっているおかあさん」

「お話しをしてくれるおかあさん」

「おしゃれをしているおかあさん」

など大好きなかけがえのない優しくて素敵なお母さんたちの

日常がイキイキと描かれていました。

「いっしょにお風呂に入ったよ」

「いっしょに料理したよ」

など思わず微笑みがでる作品にも出会い、

審査をしながら心暖かくなったそうです。

       

「おかあさん大好き!」

の声が聞こえてくる作品に出会えて

みな、しあわせになりました。

               

思い出に残る、お母さんへの最高のプレゼントができましたね!

さて、あなたは、お母さんにどんな感謝の気持ちを表しましたか?

私は、手すりをプレゼントすることに決めました。

お風呂場と、トイレ内と、玄関に

ふらついて つまずき 転倒しないように。

そして、元気で長生きして貰いたいと、願いを込めて

カーネーションを添えます。

さて、

カーネーションが母の日に選ばれたのは

今から100年くらい前のことです。 

由来

カーネーションが母の日に選ばれたのは、
 
母への愛の象徴だったからです。

そもそも、
 
十字架に架けられたキリストに 聖母マリアが涙した後に
 
咲いた花だといわれています。
 
カーネーションの中央部の赤色は、
 
キリストの体から散った血の色ともいわれています。

名前の由来としては、古代ギリシャ時代にさかのぼります。
 
古代ギリシャ人は、オリンパス山の神々の主神ゼウス
 
花冠を捧げる習慣がありました。
 
カーネーションは、その時代、花冠を作るのに欠かせないものでした。
 
そこで、花輪を意味するラテン語CORONAにちなんで
 
CARNATIONと名付けられたといいます。

そして、母の日の提唱者であるアンナ・ジャービスのお母さんが
 
非常に信仰心の篤い人で、
 
カーネーションが大好きだったこともその大きな由縁の一つです。
 
アンナ・ジャービスさんは、亡き母を偲び、このカーネーションを
 
大事にしたのですね。

花言葉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「真実の愛」「愛情」「情熱」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「尊敬」「純潔の愛」
ピンク ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「感謝」「上品・気品」「暖かい心」
黄色 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「美」「嫉妬」「愛情の揺らぎ」「友情」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「誇り」「気品」

種類

カーネーションには、主に2種類の形があります。

・スタンダードタイプ(大輪): 1本の茎に1つの大きい花を咲かせるのタイプです。

・スプレータイプ: 1本の茎に枝分かれしたいくつかの茎に、花を咲かせるタイプです。
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森光子さん~『放浪記』2000回

2009年05月06日 12時05分01秒 | 映画・演劇・DVD・ビデオ・TV類

平成21年5月6日(水) 

5月9日の誕生日に89歳になる森光子さんは、今、驚異的な記録を

打ちたてようとしておられます。

主演舞台「放浪記」が、なんと 2000回に達する

女優森光子さん(88)が7日、東京・渋谷のNHKで会見しました。

 記録達成当日に同局で

「おめでとう 森光子さん~『放浪記』2000回突破記念特集~」

(仮題、後8・0)を生放送の予定だそうです。

終演後、同局に駆けつけ感想などを語る森さんは、

「秒読みになってきて、ドキドキしてきました。

当日は時計も戸惑う忙しさだと思いますが、幸せであることは間違いありません」。

 NHKエンタープライズ川良浩和プロデューサーはご自身のブログで

 http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20090429/p2

「舞台後においで頂くのは無謀だが、2000回という記録は

演劇、芸能の枠を超えた社会的な出来事。例のない特番です」と語った。

当日は女優の黒柳徹子さん、親交のある王貞治氏、

タレントの萩本欽一さんらが舞台観劇後、番組にも出演し

森さんを祝福するそうです。

 
森光子ドキドキ「放浪記」2000回秒読み 森光子ドキドキ「放浪記」2000回秒読み

女優、森光子さん(88)が、5月9日の満89歳の誕生日に

通算公演2000回を達成する舞台「放浪記」

(東京・帝国劇場)の製作発表が都内で行われ、

WBC連覇を決めた立役者、イチロー(35)に

「もう1回、サムライジャパンで優勝を決めて欲しい」とエールを送った。

 4年後のWBCには39歳になるイチローに、

大先輩の森が、年齢を超越する奇跡を期待した。

 

1961年の初演から、

ただ一度も休まず記録を積み上げてきた森は、

天才といわれるイチローの同志。

WBCもテレビで熱心に観戦したといい、

「私も何とかついていきたいと思っています。頑張ってください」と呼びかけ、

大記録達成目前の自分自身をも鼓舞した。

 「2000回を迎えるとは露にも思ってませんでした。

(当日)どんな気持ちになるのか、どんな顔をしていいのか

迷っています」と率直に語った森さん。

来月1日に始まるけいこを前に

台本を読み直し新しい解釈も発見し、

「皆さんと一生懸命、心を込めて演じたい」と固く誓った。

 この日は、親交のある北京五輪水泳男子金メダリストの

北島康介選手(26)から花束が届き、

「うれしくて、なんも言えねぇ」と応じて笑わせた。

公演は5月5日~29日まで。

 

 
森光子、89歳バースデーに2000公演! 森光子、89歳バースデーに2000公演! 森光子、89歳バースデーに2000公演! 森光子、89歳バースデーに2000公演!

 

 女優 森光子さん(88)が、自身の秘蔵写真や評伝、

関係者のメッセージなどをまとめた“集大成”の本

「女優 森光子 大正・昭和・平成-八十八年激動の軌跡-」

(集英社、3150円)を 26日に発売する。

女優生活74年にして初の書籍化。

25日に都内で開いた会見では

「引き際をどうすればいいのか、考えていないことはない」との発言も飛び出した。

 「人生を振り返る良いきっかけになりました」。

2歳のころの家族写真から、昨年の主演舞台「放浪記」の写真まで。

森さんの人生が詰まった本を手に笑顔を浮かべた。

 5月9日の誕生日に「放浪記」通算上演2000回を達成する。

その大記録を前に、この書籍が誕生した。

これまでも「森さんの本を出したい」

との引き合いは多かったが、すべて断ってきた。

 「でも若くなくなっちゃって、もうそろそろと…」と冗談交じりに話す森さん。

実際には写真家の篠山紀信氏(68)から

「『放浪記』を撮影したい」と申し出があったことを機に、

過去の秘蔵写真を集めるなどしてできあがった。

 「人生で一番大きいのは、戦争です」。

戦中に各地を慰問団で回った貴重な写真も掲載されている。

「何とか生きてこられた喜びをかみしめているところです」。

一方で親交のあるジャニーズ勢との写真も。

滝沢秀明(26)について「一言で言えば美少年」と目を輝かせた。

 

 いまなお現役でいられる秘訣(ひけつ)は「『放浪記』です」と言い切る。

ただ上演2000回以降については

「人間は年もとりますから、引き際をどうすればいいのか考えていないことはない。

今一生懸命考えています」。

「放浪記」からの降板、または女優引退まで視野にあるとの思いまで吐露した。

 会見後は、近くの赤坂BLITZで開かれていた今井翼(27)のライブを観賞。

共演経験もある今井のロックに元気いっぱいに手拍子を送っていた。

 
森光子、88歳で初自伝!秘蔵写真も満載 森光子、88歳で初自伝!秘蔵写真も満載 森光子、88歳で初自伝!秘蔵写真も満載 森光子、88歳で初自伝!秘蔵写真も満載
森光子、88歳で初自伝!秘蔵写真も満載 森光子、88歳で初自伝!秘蔵写真も満載 森光子、88歳で初自伝!秘蔵写真も満載

 一言で言えば、女優魂の向上心の塊の人です。

見習うべき点がたくさんあります。

 

 

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5月2日は八十八夜

2009年05月02日 20時35分30秒 | 季節の風物詩・旅・地理・歴史・建築

平成21年5月2日(土) 

  今、年長組では、新学期に入ってから、「せっせっせぇー」という言葉で始まる

向き合って2人で遊ぶリズミカルな歌♪「なつもちかづくはちじゅうはちや…」

がよくきこえています。バスを待つ間も♪「のにもやまにもわかばがしげる…」など、

楽しそうです。

八十八夜とは雑節の一つで、立春から数えて88日目の日を言います。

今年は、本日5月2日です。4月末に、青森で雪が降ったそうですが、

八十八夜は夏に近づく半面、「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の泣き霜」

などと言われるように、遅霜が発生する時期です。

霜のなくなる安定した気候の訪れる時期であると同時に、

まだまだ霜も降りることがあるという春から夏へ移る境目の日として

重要視されました。ですから、気をつけなさいというために入れられているのです。

また、「八十八」という字を組み合わせると「米」という字になることから、

この日は農家の人にとっては特別重要な日とされてきました。

東北や山間村落では豊作を願うため、様々な占いを行います。

現在でも禁忌が守られているところもあるようです。

八十八夜ころから「あれに見えるは 茶摘みじゃないか」

という歌の題名が「茶摘み」というように、新茶の摘み取りが行われます。

しかし、まだまだ霜が降りるときがあり、昔は藁をひき、霜を防いだようです。

が、今は、扇風機で風を送ったり、黒い網で覆ったりしています。

また、ちょうど八十八夜の日に摘んだ茶は上等なものとされ、

この日にお茶を飲むと長生きするとも言われ、珍重されてきました。

そうはいっても、日本列島北から南まで長いわけですから、

地域によって、茶摘みの時期は異なります。

さて、中国の歴史の中で、お茶が登場するのは、

「神農(しんのう、農業・漢方の祖)」の逸話からとなっています。

神農は、野草とお茶の葉を食べていたと伝えられています。

この伝説から、お茶の発見は紀元前2700年ごろ、神農時代と考えられます。

漢の時代(紀元前1世紀)の医学書『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』には、

「茶味苦、飲之使人益思、少臥、軽身、明目」の記述があります。

すでにこのころ、お茶はよく知られていたようです。

また、四川の王褒(おうほう)が記した、主人と奴隷との間で交される契約文

『僮約(どうやく)』の中に、「武陽で茶を買う」とあります。

これによると、当時すでに飲茶の習慣があり、

売買が行われていたことがうかがい知れます。

この『僮約』が、現段階では茶具に関する最初の文献とされています。

このころからお茶は、主に上流階級に嗜好品として愛飲されるようになります。

唐の時代(760年ころ)、陸羽(りくう)の記した『茶経』は

「茶者、南方之嘉木也(茶は南方の嘉木なり)」で始まっていることから、

初期のお茶は南方で始まったと考えるのが定説です。

 漢の時代(紀元前1世紀)、お茶は単独ではなく、

みかんの皮、ねぎ、しょうがなどと混ぜて、お吸い物(あつもの)として

飲まれていたようです。

三国時代になると、議論の潤滑油として

お茶を酒にみたてて飲む習慣(以茶代酒)が始まりました。

そののち、客人をもてなすなど、次第に社交の場の飲みもの

として用いられるようになりました。

唐の時代(618~907年)になると、お茶を飲む習慣は全国に広がります。

このころのお茶は、茶葉を粉々にして固形にし、

乾燥させた緊圧茶(固形茶)が主流でした。

茶葉はすでに全国で栽培されるようになっていましたが、

消費地への運搬には固形茶が便利だったと思われます。

このころ、固形の緊圧茶を「餅茶(びんちゃ)」と呼んでいました。

世界でもっとも古いお茶の本といわれている『茶経(ちゃきょう)』は、

唐の時代に陸羽(りくう)によって記されたものです。

『茶経』は、3巻10章から成り、お茶の起源、歴史から製造具、茶道具、

いれ方、飲み方、産地、心得にまで及びます。

固形茶を焼いて削り出すという方法から、茶葉本来の風味を引き出す

固形茶を挽いて、粉末を煮出す方法が考案されました。

宋の時代になると、お茶は貴族から役人や文人など富裕な市民のものへと

変遷していき、お茶を飲みながら詩を吟じ、書をたしなみ、絵を描き、

哲学を論じたとされています。

時に遊びとして「闘茶」と称してお茶の良し悪しを鑑定し、

茶器の良否を競うこともありました。

飲み方も、緊圧茶の茶葉をすった粉末を茶碗に入れてお湯とかき混ぜるという、

日本の抹茶のような飲み方が行われていました。

このころには、日本の茶道と同じような

竹製の「茶筅(ちゃせん)」が使われています。

また「餅茶」の呼び方が変わって「団茶」と呼ばれるようになりました。

明の時代になると、お茶は大変動の時代を迎え、

貴族と富裕市民に限られていた喫茶の習慣が、一般市民へと普及していきました。

この時代、団茶はお茶本来のおいしさを損なっており、

また、製造に手間がかかるということで、

初代皇帝、洪武帝(朱元璋=しゅげんしょう)は団茶禁止令を出しています。

この後「散茶」が本格的に生産されるようになり、茶葉の主流が急変しました。

残った団茶を飲む方法として、ジャスミン花の香りなどを着香させた

「花茶」が登場するのもこの時代です。

この時期、浙江省の西湖龍井茶(ろんじんちゃ)や安徽(あんき)省の

黄山毛峰(こうざんもうほう)などの緑茶が知られるようになりました。

また明代の末期には、福建省の武夷茶が上流階級に珍重され、

この稀少価値の高い優良茶を商人が大金をもって求めました。

なお、?南烏龍などの「?(びん)」とは、福建省の略称です。

清の時代になると、中国茶葉や茶具はほぼ完成し、茶文化は最盛期を迎えます。

福建省では青茶(烏龍茶)が開発され、「花茶」とともに愛飲されるようになりました。

また、青茶ならではのすばらしい香りを追求する過程で、

工夫茶(くんふうちゃ)の手法が開発され、工夫茶とは、時間と手間をかけて

ゆっくりと丁寧にいれるお茶を意味します。

お茶の魅力を引き出す茶器を使っていれ、

まず聞香杯(もんこうはい)で「香り」を楽しみ、次に茶杯で「味」を楽しみます。

中国茶が香りを大切にし、「花茶」が大いに普及しているのは、

このころからの習慣といえるでしょう。

清が崩壊すると、中国は列国の侵略を受けますが、

茶壷製作や茶葉の栽培はより発展しました。

中華人民共和国の建国(1951年)後、中国茶は順調に発展を続けていましたが、

毛沢東の文化大革命(1966~1976年)により、お茶は贅沢の象徴として弾圧され、

栽培は制限されました。

代わって台湾や香港で茶芸とお茶の栽培がより発展し、

現在では台湾茶は世界的に有名になりました。

  日本では、遣唐使が往来していた奈良・平安時代に、

最澄(さいちょう)、空海(くうかい)、永忠(えいちゅう)などの留学僧が、

唐よりお茶の種子を持ち帰ったのが、わが国のお茶の始まりとされています。

平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都(だいそうず)永忠が

近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されています。

これが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれています。

このころのお茶は非常に貴重で、

僧侶や貴族階級などの限られた人々だけが口にすることができました。

鎌倉初期(1191年)に栄西(えいさい)禅師が宋から帰国する際、

日本にお茶を持ち帰りました。

栄西は、お茶の効用からお茶の製法などについて著した

『喫茶養生記(きっさようじょうき)』(1214年)を書き上げました。

これは、わが国最初の本格的なお茶関連の書といわれています。

栄西は、深酒の癖のある将軍源実朝に本書を献上したと

『吾妻鏡(あずまかがみ)』に記してあります。

お茶の栽培

もともと日本の山間部の奥地に自生していた「山茶(さんちゃ)」を

日本人は飲んでいたという説もあるようですが、

お茶の栽培は栄西が、中国より持ち帰った種子を

佐賀県脊振山(せぶりさん)に植えたのが始まりだといわれています。

その後、京都の明恵上人(みょうえじょうにん)が栄西より種子を譲り受け、

京都栂尾(とがのお)に蒔き、宇治茶の基礎をつくるとともに、

全国に広めていきました。

当時のお茶は、蒸した茶葉を揉まずに乾燥させたもの(碾茶=てんちゃ)で、

社交の道具として武士階級にも普及しました。

南北朝時代の『異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)』

(虎関師錬=こかんしれん 著)には、

当時の名茶産地が記されています。

京都各地および大和、伊賀、伊勢、駿河、武蔵では、

寺院、寺領の茶園を中心に茶栽培が行われるようになりました。

さらに、お茶栽培の北限といわれる茨城の奥久慈のお茶も

14世紀に始まったといわれています。

茶道の完成

栄西の『喫茶養生記』は、わが国の喫茶文化普及に多大な影響を及ぼしました。

 鎌倉時代の末期には南宋の「闘茶」が武士階級に浸透、茶寄合いなどが

盛んになり、茶歌舞伎などの抹茶法(茶の湯)が急速に広まりました。

 そして、15世紀後半から16世紀後半には、

村田珠光(むらたしゅこう)、武野紹鴎(たけのじょうおう)、千利休らによって

新しいお茶の礼式がつくられ「侘茶(わびちゃ)」として大成、武士階級に流行し、

現在の「茶道」として完成されていきます。

お茶の製法と流通の改革

各地にさまざまなお茶の製法がありましたが、蒸製のてん茶を作っていた京都では、

宇治田原郷の永谷宗円(ながたにそうえん)が1738年に宇治の煎茶の優品を

つくり、伸煎茶の祖といわれています。

また、山本嘉兵衛が1835年に玉露の製法を発明し、

「宇治製法」の優れた技術が日本各地に広まりました。

近世になると流通機構がより発達し、茶町と呼ばれる流通の拠点で、

茶株仲間(江戸の消費地問屋)や、茶仲間(地方都市の産地問屋、荷主)

と呼ばれる人々が許可制でお茶の取引を行うようになりました。  

お茶の輸出

オランダの東インド会社が、1610年に長崎の平戸からヨーロッパへ向けて

日本茶(嬉野などの釜炒り茶)を輸出したのが、わが国で最初のお茶の輸出です。

 江戸幕府は、1858年にアメリカと日米修好通商条約を結び、

次いでオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結びました。

1859年に長崎・横浜・函館の開港を機に生糸と並ぶ重要な輸出品として、

お茶181トンが輸出されました。

また同年には、長崎の大浦慶(おおうらけい)という女性の貿易商によって

6トンがイギリスに輸出され、その利益が坂本龍馬や大隈重信の活動資金になった

と言われていています。

 1868年の明治維新後も、お茶の輸出量は政府の援助により

アメリカを中心に増加し、それに伴い、人気のあった「宇治製法」を活かした

蒸し茶製法が全国に広まっていきました。

    近代のお茶産業の成立

    江戸末期までは、お茶は山間部などで生産されていましたが、

    明治初期の士族授産事業などを契機に、牧之原台地などの平坦な土地に

    集団茶園が形成されるようになります。

    しかし、茶園開拓をした士族たちは次第に離散していき、代わりに

    農民が茶園を継承し始めます。これは、お茶の輸出価格の下落や、

    茶園造成に莫大な費用がかかったことが原因だったようです。

    集団茶園の形成は、単に茶園の形成だけにとどまらず、

    流通の発展、茶商、仲買人、茶問屋などの育成、各種機械の発明など、

    茶業を中心とした関連産業の成立に影響を与えました。

    高林謙三による茶葉揉葉機の発明をはじめ、機械化が急速に進んでいくのも

    この時期であり、省力化とともに品質の安定化に寄与しました。

    さらに近年では、センサーとコンピューター制御により、

    未熟錬者でもお茶がつくれる時代になってきています。

    現在では、手揉みは文化保存・観光用が主となっています。

    現代のお茶

    現代の日本人の生活は大きく変わりました。

    一般の家庭生活の中にある「緑茶だけでは不満足」という感覚を補完しようと、

    油っこい食事に最適で、しかも何杯でも飲めるお茶として、烏龍茶が

    注目され始めます。1979年には、伊藤園が中国の烏龍茶を日本人向けに

    アレンジして製品化し、烏龍茶の大ブームを起こしました。

    そして、現代のスピード感ある生活に適合するよう、

    従来では考えられなかったお茶飲料を開発し、1981年に缶入り烏龍茶が、

    1985年に缶入り緑茶と缶入り紅茶が発売されました。

     その後、ペットボトルや紙容器入りも製品化し、一大ヒットとなります。

    今では、飲料業界すべてがこれに追随し、お茶飲料という

    巨大なマーケットが形成されるほどになりました。

    時代にあったお茶、時代にあった飲料方法はいつの時代にも必要なことです。

    さらに、お茶の有効成分の活用によるカテキン染色技術、茶配合ボード、

    さらにサプリメント製品など、飲料に限定しないお茶の利用が行われています。

    最初にお茶の種を植えた脊振山のある佐賀県では、「嬉野茶」として有名で、

    550年の歴史があります。お茶は、美容と健康に効果があるといわれ、

    茶葉が一枚一枚丸いため、玉緑茶(グリ茶)と呼ばれています。

    また、お茶の渋みは、ポリフェノールの一種であるカテキンが主成分。
     
    このカテキンの驚くべき健康性が近年クローズアップされています。
     
    カテキンは、昔からタンニンと呼ばれてきたのです。
     
    カテキンの語源は、インド産のアカシア・カテキュー

    (マメ科アカシア属の低木)の樹液から採れる“カテキュー”に由来しています。

    お茶のカテキンは、1929年、理化学研究所の辻村博士らによって初めて存在が

    確認されました。茶葉中に形の違う4種類のカテキンが存在しています。

    カテキンは非常に酸化されやすい物質です。ですが緑茶は、荒茶製造工程中で酸化酵素の働きが抑えられるため、ほとんど酸化しません。

    しかし、烏龍茶や紅茶では、酸化酵素の作用で酸化重合物が作られます。すると、本来は水溶液中では無色のカテキンが、オレンジから赤色となります。烏龍茶や紅茶が赤っぽい色をしているのは、このためです。

    カテキンは、一番茶で約12~14%、二番茶で約14~15%と増加します。
    また、成熟した葉(3~4枚目)よりも若い芽(1~2枚目)に多く含まれています。
     
    玉露のように光が当たらないよう被覆栽培されるものは、カテキンの生成が抑えられ、煎茶よりも少なくなります。
     
    風邪やインフルエンザの予防にもお茶をどうぞ!
     
    虫歯や、癌の予防にもお茶が大変有効だそうです。
     
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    豚インフルから 新型インフルエンザへ

    2009年05月01日 16時27分41秒 | お知らせ

    平成21年5月1日(金)

    4月27日(月)から、「豚インフル」と報道されていたインフルエンザが

    ついに人から人への感染が危惧され始めている。

    以下、報道から…

     豚インフルで閣僚会合 麻生首相「警戒を強化すべき事態」

    4月27日9時41分配信 産経新聞


    豚インフルで閣僚会合 麻生首相「警戒を強化すべき事態」

    豚インフルエンザ対策関係閣僚会議で対応を指示する麻生太郎首相=27日午前8時24分、首相官邸(酒巻俊介撮影)(写真:産経新聞)

     政府は27日午前、豚インフルエンザに関する関係閣僚会議を首相官邸で開き、当面の政府対処方針としてウイルスの国内侵入を防ぐために水際対策を講じることや、ワクチンの製造を早急に検討することなどを確認した。

      [イラストでチェック]豚から新型インフルエンザ発生への仕組み

     麻生太郎首相は会議の冒頭、全閣僚に対して「日本としても警戒を強化すべき事態にある。各省庁が一丸となって国民の安全、安心の確保に万全を期さなければならない」と述べ、対策を強化するよう重ねて指示した。

     会議は、メキシコと米国で発生した豚インフルエンザで世界保健機関(WHO)が「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」と認定したことを受けて開催された。

     水際対策としては、検疫や入国審査の強化のほか、発生国からの入国者で感染または感染のおそれがある人への適切な医療を行う。在外邦人には情報提供などの支援を強化していく。

     このほか、国際機関や関係国との連携を強化して情報収集を急ぎ、国民への情報提供を行うことなども確認した。

     河村建夫官房長官は会議後の記者会見で、国内では感染の報告がないことを強調した上で、「国家の危機管理上の重要課題と認識し対策に万全を尽くす。落ち着いて冷静に行動してほしい」と呼びかけた。

    【関連記事】
    豚インフル拡大懸念 鳥に重点…「想定外」困惑
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    豚インフルってナニ? 食べてもOK、ワクチンは…
    豚インフル、米国に見えない脅威 水際での防止は極めて困難

    豚インフルの死者がメキシコ以外に米国でも発生し、各国に感染が広がる中、
    世界保健機関(WHO)のマーガレット事務局長は29日夜に緊急記者会見し、
    新型インフルエンザの警戒レベルをフェーズ5に引き上げると発表しました。

    これを受け、30日朝には舛添厚生労働相が緊急記者会見。

    感染の疑いのある人を専門に受け入れ、院内感染を防止する
    「発熱外来」の準備や、新型インフルエンザのワクチン製造などの
    対策を急ぐことを表明しました。

    新型インフル「弱毒性」でも警戒必要

    4月30日12時3分配信 読売新聞

     今回の新型インフルエンザのウイルスについて、専門家の間では、当初想定していた強毒性の高病原性鳥インフルエンザウイルス(H5N1型)に比べて、感染しても比較的軽症で済む「弱毒性」との見方が強まっている。

     世界保健機関(WHO)の緊急委員会のメンバーでもある国立感染症研究所の田代真人・インフルエンザウイルス研究センター長は29日、今回のウイルスが鳥と人、豚由来のウイルス遺伝子が混ざったもので、「強い病原性を示唆する遺伝子はなかった」と「弱毒性」との見解を明らかにした。

     強毒性のH5N1型ウイルスは、のどや肺などの呼吸器だけでなく、内臓など全身に感染が広がるのが特徴で、感染者の免疫機能が過剰反応して、重症化すると考えられている。しかし、米疾病対策センター(CDC)の遺伝子解析によると、今回のウイルスは強毒性のH5N1型と異なり、呼吸器にしか感染できない構造だったという。

     東北大の押谷仁教授(ウイルス学)も、「感染者の症状から考えると、H5N1型に比べて、毒性ははるかに弱いと考えられる。国内で流行しても感染者が重症で死亡する割合は低いのではないか」と指摘する。

     しかし、たとえ毒性が弱いとしても、今回の新型ウイルスは、ほとんどの人が経験したことがなく、免疫を持っていない。今後、世界各地で、爆発的に感染が広がる恐れがある。

     国立病院機構仙台医療センターの西村秀一・ウイルスセンター長は「毒性が弱く、重症化率が低くても、多くの人が感染すれば死亡者数は増える。弱毒性の方が感染に気づかないうちに周囲に広げる危険性が高い。マスクをするなど、感染拡大を抑えることが大事だ」と指摘する。さらに、インフルエンザウイルスは、遺伝子が変異しやすい。大流行して人間の間で感染を繰り返すうちに、弱毒性が強毒性に変わることも考えられる。

     実際、1918年から19年にかけて世界で4000万人以上の犠牲者を出した「スペインかぜ」も、弱毒性が流行の途中で変化したタイプだった。

     外岡立人・元小樽市保健所長は「弱毒性と安心せず、毒性がどう変化するか、今後も、注意する必要がある」と強調する。

    最終更新:4月30日12時3分

    Yahoo!ニュース関連記事

    主なニュースサイトで H5N1型ウイルス の記事を読む

    以下↓厚生労働省のサイトです。

     http://www-bm.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou04/index.html

    取り敢えず、今までのインフルエンザ対策と同じように

    手洗い・うがい・マスクの着用、人混みには行かない。

    なるべく出歩かないで、感染の危険性がおさまるまで、情報を

    しっかり把握して危機管理につとめてください。

    万一、怪しい発熱の時には、病院に行かずに、電話で!

    新型インフルエンザ発生中の国や地方への渡航は控えましょう。

     

     また、 1997年4月国立予防衛生研究所は

    国立感染症研究所」と名称変更になりました。

    それに伴って、感染症情報センターが発足。↓

     http://idsc.nih.go.jp/disease/swine_influenza/index.html

    福岡県感染症↓

     http://www.fihes.pref.fukuoka.jp/~idsc_fukuoka/

    以下は、発熱等の症状のある方の電話相談窓口です。


      
    電話番号  0120-120-115
      開設時間  24時間対応
      開設時期  平成21年5月2日(土)

     

     新型インフルエンザ発熱外来

      場所 北九州市 市立医療センター(感染症指定医療機関)
      住所 北九州市小倉北区馬借2丁目1-1

                tel093-522-5311


       ※メキシコ、米国、カナダ等からの帰国者で体調の悪い方は、

       直接病院に受診することは避けて、事前に上記の

       「新型インフルエンザ発熱電話相談」に連絡してください。

     充分に睡眠をとって、体調の管理を日頃から万全に! 

    最新情報に注目を!↓

     http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/swine_flu_in_japan/

     

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