緑ヶ丘・第二幼稚園 最新かがやき日記

緑ヶ丘・第二幼稚園のかがやく子ども達の成長を見守り、親も教師も園長も子どもに負けず共に成長する日々を綴った日記です。

福岡県警より発信情報

2007年10月25日 20時36分06秒 | お知らせ

平成19年10月25日

この情報は福岡県警より発信されています。

 最近、子どもを対象とした殺傷事件が全国で発生しています。
 襲われた子どもは、一人で行動しているときに被害に遭っています。
 一人の子どもを見かけたときは、地域の目で優しく見守ってあげてください。
 また、家族の方は被害に遭わないために、子どもさんと次のことを約束しておきましょう。
  ○ 日没が早くなっているので、帰宅時間を早くする。
  ○ 集団で登下校するなど、屋外では一人で行動しないようにする。
  ○ 襲われそうになったら、大声を出すなどして周囲の大人に知らせる。

■お問合せ先:福岡県警察本部 生活安全総務課


10月11日は,エディト・ピアフ作詞『 愛の讃歌』を歌いましょう

2007年10月10日 20時47分10秒 | 音楽関係・コンサート・LP・CD・DVD

平成19年10月10日 本日は、エディト・ピアフを偲びその代表曲を思い出しています。
 

愛の讃歌(Hymne à l'amour)

作詞:エディト・ピアフ
日本語詞:岩谷時子
作曲:マルグリット・モノー
唄:越路吹雪

あなたの燃える手で 私を抱きしめて
ただ二人だけで 生きていたいの
ただ命の限り わたしは愛したい
命の限りに あなたを愛するの

頬と頬よせ 燃える口づけを
交わすよろこび
あなたと二人で 暮らせるものなら
なんにもいらない
なんにもいらない
あなたと二人で 生きていくのよ
私の願いは ただそれだけよ
あなたと二人

固くいだきあい 燃える指に髪を
からませながら いとしみながら
くちづけを交わすの 愛こそ燃える火よ
私を燃やす火 心とかす恋よ

(制作:二木紘三)

Le ciel bleu sur nous peut s'effrondrer
Et la terre peut bien s'écrouler
Peu m'importe si tu m'aimes
Je me fous du monde entier
Tant que l'amour inondera mes matins
Tant que mon corps frémira sous tes mains
Peu m'importent les grands problèmes
Mon amour, puisque tu m'aimes...

J'irais jusqu'au bout du monde
Je me ferais teindre en blonde
Si tu me le demandais...
J'irais décrocher la lune
J'irais voler la fortune
Si tu me le demandais...
Je renierais ma patrie
Je renierais mes amis
Si tu me le demandais...
On peut bien rire de moi,
Je ferais n'importe quoi
Si tu me le demandais...

Si un jour la vie t'arrache à moi
Si tu meurs, que tu sois loin de moi
Peu m'importe, si tu m'aimes
Car moi je mourrai aussi...
Nous aurons pour nous l'éternité
Dans le bleu de toute l'immensité
Dans le ciel, plus de problèmes
Mon amour, crois-tu qu'on s'aime?...
...Dieu réunit ceux qui s'aiment!


1949年、私が生まれた年に発表され,生まれた有名なシャンソン。

1956年、ジェフリー・パーソンズによって英詩がつけられ、

ブレンダ・リーなどが歌って大ヒットしました。

日本では、『サン・トワ・マミー』などと同様、

訳詞:岩谷時子、歌:越路吹雪のコンビでヒットしました。

今秋、新作映画が話題になっています。全編に流れているのは、本人の歌声。

エディット・ピアフ自身が作詞した愛の讃歌(Hymne à l'amour)

 シャンソンの代表曲です。

あなたも、秋の夜長にどうぞお聴きください!

 シャンソンという言葉は、フランス語で「歌」を現す言葉です。

したがって、特定のリズム・パターンや楽器編成を現すものではありません。

と言うことは、「シャンソン」はフランス語で歌われる歌謡曲、ポップス

という意味です。

しかし、我々日本人にとっての「シャンソン」は、

明らかにひとつの音楽ジャンルのことであり、

そこにはアコーディオンという楽器の存在や

何曲かの名曲の存在が大きな影響を与えています。

イブ・モンタンの「枯れ葉」やアダモの「雪は降る」などは、

ある意味シャンソンのイメージを決定づけた作品ですが、

それ以上にシャンソンの代名詞とも言える作品が、

 Edith Piaf エディット・ピアフの「愛の讃歌」だと言えるでしょう。

彼女こそ、世界中の人々が「シャンソン」と聞いてイメージする

ある種の音楽スタイルを確立したアーティストなのです。

だが、現在のフランスにおいて、

彼女のシャンソンは過去のものとなっているそうです。

その点では彼女はオールド・スタイル・シャンソンの確立者であったと同時に、

最後のアーティストであったとも言えるようです。


    <孤独なヒロイン>


 エディット・ピアフがこの世に生まれ落ちたのは、

1915年12月19日、クリスマスを目前にした

パリの下町ベルヴィルの路上だったと言われています。

(実際は、ちゃんと病院で生まれたらしいのですが・・・)

父親のルイ・アルフォンス・ガション Louis Alphonse Gassionは、

ストリートで逆立ちなどの軽業を披露する大道芸人で、

母親のアニタ Anita Maillardもストリートで歌う歌手でした。

そんな貧しいその日暮しの夫婦の元に生まれた彼女は

筋金入りの「ストリート・チルドレン」でしたが、母親の家出によって

必然的に彼女は「ストリート・シンガー」の道をも歩まざるを得なくなりました。

こうして、ある日、病に倒れた父親に代わって、

彼女が歌える唯一の歌

ラ・マルセイエーズ(フランス国歌)」を

歌った時、彼女の歌手人生はスタートしたのです。


<ストリートのアイドルへ>

 15歳の時、彼女は酒癖の悪い父親に嫌気がさし、ついに家を出ました。

彼女は一人街角に立って歌うようになったわけですが、

下町のいかがわしい繁華街で生き抜くため、自ずと強い女へと成長しました。

(パリでは無許可営業のミュージシャンは取締の対象になったので、

彼女は何度も警察に逮捕されたようです。)

後に彼女が国民的な人気者となってゆくのは、彼女のこうした

叩き上げの人生と反権力的な生き方が、

フランスの国民性にマッチしたからだそうです。


<ストリートから舞台へ>

 1935年、そんな下町のアイドルに大きなチャンスが訪れました。

ある一流クラブが、彼女の人気と実力に目を付け専属契約を申し出たのです。

こうして、20歳のピアフは、ついに屋根付きの舞台に立つことになり、

すぐにシャンソン界の人気者になって行きました。


 1937年には名門のABC劇場でのステージを成功させ、

いっきにトップ・スターへの階段を駆け上がり始めます。

しかし、運命はいつまでも彼女に微笑み続けてはくれませんでした。

運命は、彼女を含むフランスの全国民を不幸のどん底に突き落としたのです。


<ナチス・ドイツ占領下のパリにて>

1940年6月14日フランス領内に侵攻していたナチス・ドイツは、

ついにパリを占領。

フランスはナチスドイツの占領下に置かれることになりました。

彼女にとっても、フランス国民同様辛い日々が始まりました。

ナチスの占領下において、アーティストたちはナチスに反抗して地下に潜るか、

彼らのプロパガンダ活動に協力するかの二者択一を迫られました。

いかに強い女性とはいえ、彼女がナチスと闘うことは不可能だったため、

しかたなく彼女はナチス主催のパーティーで歌ったり、

捕虜収容所でフランス人のために歌ったりする生活を始めました。

(と言っても、後に彼女はこの時のことを「ナチスという連中がどんな奴らかを見たかったから出演したのだ」と言っているのですが)

しかし、さすがは反骨のストリート・ファイティング・ミュージシャンだけあって、

その後 彼女は自分の立場を利用して、

ナチスへのレジスタンス活動を展開して行きます。

それは、慰問先の捕虜収容所から 何人かの捕虜をバンドのメンバーに

紛れ込ませて脱走させるという、まるで映画のような作戦でした。


<ドラマを求める人生>

 戦争中、それだけ危険な行為に加担していながら、

彼女はけっして熱烈な愛国者ではなかったようです。

もしかすると、彼女は自分が挑んでいる「危険な賭け」

に喜びを感じていたという説もあるくらいです。

その後の彼女の人生に見られる数々の恋愛ドラマも

そんな彼女のドラマチック大好き人間的性格の成せる技

だったのかもしれません。

そして、それが彼女の歌のもつドラマ性と独特の表現力の源に

なっていたのかもしれないのです。

 ピアフのシャンソンを「真実を歌うシャンソン」と呼ぶそうですが、

それも彼女のそんなドラマチックな人生があったからこそ

可能だったのかもしれません。


<ラヴィアン・ローズ>

 彼女の人生において「恋」こそが最大のエネルギー源だったことも

間違いないでしょう。

なかでも有名なのは、年下の大スター、イブ・モンタンとの恋です。

と言っても、この恋には、師弟愛という側面もあり、

単純な恋とは言えないかもしれません。

第二次世界大戦が終わり、

ナチス・ドイツの占領から解放された喜びと

若いイブ・モンタンとの恋の喜びは、彼女の代表曲のひとつ

ラヴィアン・ローズ」を生んだと言われています。

 デビュー当初は、ジャズポップス系のアメリカナイズされた歌手だったモンタンを、

ピアフは一から教育し直し、フランスを代表するシャンソン歌手へと育てあげました。

しかし、彼がピアフと肩を並べるほどの人気歌手に成長した時、

すでに二人の恋は終わりを迎えていました。


<愛の讃歌>

 そしてもうひとつ、彼女の人生を変えた「至上の愛」は、

あの名曲「愛の讃歌」を生みました。

それが、プロ・ボクシングの世界チャンピオンだった

マルセル・セルダンとの恋でした。

世界的に有名な二人は、忙しいスケジュールの合間を縫って、

愛を確かめ合っていたが、1949年ニューヨークで公演中だったピアフに

会うために乗ったマルセルの飛行機が大西洋上に墜落、

わずか一年の短い恋は、セルダンの突然の死により、悲劇の結末を迎えました。

セルダンの突然の死にピアフは、立ち直れないほどのショックを受けましたが、

歌に人生のすべてを捧げてきた彼女は、

この悲劇をもひとつの歌にしてしまう力をもっていました。

こうして、生まれたのが名曲「愛の讃歌」だったというのが、かつての定説でした。

しかし、最近、この曲はマルセルの死の以前に書かれていたことがわかりました。

つまり、ピアフは、妻子がいるマルセルとの愛に自ら幕をおろすため、

この曲を作ったらしいのです。

したがって、自分が歌うのではなくイベット・ジローにこの曲を歌ってもらうことに

なっていたのです。ところが、マルセルの死によって、別れは突然に訪れてしまった。

そこで、彼女は急遽この歌を自ら歌うことを決意したというのが、

真相だったようなのです。

こうして、シャンソンを代表するだけでなく

「愛の歌」を代表する名曲として

愛の讃歌」が生まれたのです。

<シャンソン旧世代の女王>

 こうして彼女は、1963年48歳の若さでこの世を去るまで、

フランスでは別格的な人気を保ち続けました。

そして、彼女の死とともに戦前から続いてきた古いタイプのシャンソンの時代は

終わりを告げ、新しいシャンソンの時代を生み出して行くことになるのです。

「世の中のことなんて、どうでもいいの
ただあなたが愛してさえくれれば・・・
あなたが死んでも私は平気、

あなたが愛してくれれば私も死ぬのだから・・・」 
「愛の讃歌」より

「エディット、君は僕なんかより、ずっと素晴らしい仕事をしているんだね。

あの人たちを幸福にするのが君の仕事なんだ」マルセル・セルダン 

「世紀を変えた歌」(NHK・BSのドキュメンタリーより)

私の友だちの I さんも、封切り直後に、映画を見たそうです。

久々に感動したと目を潤ませていました。

私も、早く見たいと思います。