鏡川早朝ウォーキング ファンクラブ

平成の名水百選に選ばれ、”龍馬も泳いだ鏡川”周辺を歩いて、健康増進と交流を図ります。

⑰ 要法寺(法華宗)

2011-01-07 | ⑰ 要法寺(法華宗)

~⑰ 要法寺(法華宗)~

   一豊は当初法華宗に帰依し、要法寺を菩提寺としていたが、
 のち曹洞宗に変えたため、弟の康豊が要法寺を保護した。
 そして遺言に従って寺内に葬られている。また野中兼山の位牌も
 この寺にある。
 境内に「桜井戸」と名づけられた井戸がある。
   古い桜の切り株が朽ちて、外側が残り、井戸になったので、
 この名が付けられたという。
 この水は渇水期でも枯れることがないため、茶道界の
 日本三名水の一つとされ、要法寺では現在でもこの水を使って、
 各流派の茶会が開かれている。

 

参考文献
  鏡川小特集~土佐地域文化第5号2002年6月号
  改訂版高知の城下町読本
  龍馬を育てた道の小冊子(高知市観光課)

 

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⑯ 真如寺(曹洞宗)

2011-01-07 | ⑯ 真如寺(曹洞宗)

~⑯ 真如寺(曹洞宗)~

   山内一豊は慶長6年(1601)土佐入国の後、軍事・政治
 の顧問であった在川和尚を開基として、一寺を建立。
 禅宗の一派曹洞宗で、山内家代々藩主の菩提寺として栄えた。
   また、元和元年(1622)には、藩主参拝のために鏡川に
 橋が架けられ、真如寺橋と呼ばれていた。現在の
 天神大橋である。
   一豊は長浜時代、地震で一人娘を失い、それ以降、法華宗
 から禅宗に改宗したといわれている。

 

参考文献
  鏡川小特集~土佐地域文化第5号2002年6月号
  改訂版高知の城下町読本
  龍馬を育てた道の小冊子(高知市観光課)

 

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⑮ 潮江天満宮

2011-01-07 | ⑮ 潮江天満宮

⑮ 潮江天満宮

 菅原道真公は、延喜元年(901)大宰府に左遷され、
   嫡子菅原高視も土佐権守として潮江に居住した。
   道真公没後、遺品が土佐に来たことからこれを
   御神体として、潮江天満宮を創建した・・・と
   伝えられている。
 また、宮尾登美子の小説「鬼龍院花子の生涯」の
   ゛鬼政゛こと鬼龍院政五郎のモデルといわれる
   鬼頭良之助こと森田良吉が奉納した゛お百度石゛も
   残っている。

 

参考文献
  鏡川小特集~土佐地域文化第5号2002年6月号
  改訂版高知の城下町読本
  龍馬を育てた道の小冊子(高知市観光課)

 

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⑭ 石立大砲鋳造所跡

2011-01-07 | ⑭ 石立大砲鋳造所跡

~⑭ 石立大砲鋳造所跡~

 ペリーの来航以来、嘉永7年(1854)までに土佐藩では
   120砲造る事を決め、石立村鍋焼(現東石立町)に
   藩営の製砲工場が造られた。
 ここはもと長宗我部国親の菩提寺のあったところで、常通寺島
  と呼んでいた。鍋焼きの呼び名は、1821年ここで鍋釜類を
  鋳造したことによる。度々火災を起したようで最終的に何門
  ぐらい実用できる大砲を製造したかは明らかではない。

 

参考文献
  鏡川小特集~土佐地域文化第5号2002年6月号
  改訂版高知の城下町読本
  龍馬を育てた道の小冊子(高知市観光課)

 

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⑫ 河田小龍寓居跡

2011-01-07 | ⑫ 河田小龍寓居跡

~⑫ 河田小龍寓居跡~

 文政7年(1824)浦戸町生まれ。狩野派の門に学び、長崎に遊学して南画の技法を習得、南北合派の新機軸を編み出した。
 アメリカから帰国した中浜万次郎の取調べにあたり、漂流の経緯と異国見聞の詳細を『漂巽紀略』と題して藩主山内容堂に献上した。
 当時城下随一の知識人と称され、多くの人が彼の門を訪ね、坂本龍馬もその一人であった。小龍は万次郎から得た知識をもとに、富国強兵とりわけ海軍強化を熱く語り合い、「君は内に居て人を造り、僕は外にあって船を得べし」と理想像を約束をした。この後、龍馬は勝海舟に弟子入り、小龍は多彩な門下生を輩出して亀山社中・海援隊に送り出していった。

 

 

   絵馬~土佐市有形文化財
                              土佐市
 ① 松尾八幡宮の絵馬~場所は高岡町の松尾神社。
         河田小龍が「静御前の舞い姿」を描いた絵馬。
 ② 三嶋神社の絵馬~場所は高岡町の三嶋神社。
         河田小龍が「源平合戦」を描いた絵馬。
                           明治13年 奉納。

 

 

参考文献
  鏡川小特集~土佐地域文化第5号2002年6月号
  改訂版高知の城下町読本
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⑪ 水天宮

2011-01-07 | ⑪ 水天宮

 ~⑪ 水天宮~

 通町の久万氏の祖先が文化10年(1813)に現久留米に鎮座
   してる水天宮様を勘請して、自分の屋敷に奉斎したものを、
   いつのころからか、河童のいたづらを封じるため、現在地に
   遷座したと伝えられている。
 祭神は安徳天皇を抱いた尼御前(時子)で、とくに河童に対して
   有力な守札を出してきた。と記されている。

 

参考文献
  鏡川小特集~土佐地域文化第5号2002年6月号
  改訂版高知の城下町読本
  龍馬を育てた道の小冊子(高知市観光課)

 

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⑩ 日根野道場跡

2011-01-07 | ⑩ 日根野道場跡

~⑩ 日根野道場跡~

 坂本龍馬が剣術の修行のため通った小栗流日根野道場
   (柳生家の認可)は築屋敷にあったとされるが、門人達は
   士格より軽格のものが多かったのは、三代目弁治が郷士
   の出であることと無縁ではない。
 龍馬は5年後、目録を授かり其の後皆伝に当たる「小栗流
   和兵法三箇条」を授けられている。

 

参考文献
  鏡川小特集~土佐地域文化第5号2002年6月号
  改訂版高知の城下町読本
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⑨ フランク・チャンピオン(米人飛行家)

2011-01-07 | ⑨ フランク・チャンピョンの碑

⑨ フランク・チャンピオン(米人飛行家) 

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 ~⑨ フランク・チャンピオン(米人飛行家)~
       
飛行免許は、米国で86番目に取得。    
 飛行機の有効性を示すため、1917年(大正6年)
米政府の派遣で来日、各地で飛行ショーを展開。
本県には、最後の飛行地として同年10月に来高。
朝倉練兵場を離陸した単葉機は7回宙返りなど高度
な飛行技術を披露、約10万人の大群集が見学する。
 二回目の飛行中、神田の田んぼに墜落。34歳  
翌年7年、柳原に遺骨の一部を納めた記念碑が建立。
 79年後の平成8年、一人娘のジーン・マスキュリン
(当時86歳)が高知新聞社の招きで、米ワシントン州
から念願の来高を果たした。      
来高をきっかけに墜落地点が神田683番地と判明、
ここに地元有志で記念碑が建てられた。    
             

 

参考文献
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  改訂版高知の城下町読本
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⑧ 水丁場

2011-01-07 | ⑧ 水丁場

⑧ 水丁場
 
  城下町を囲むように2.1mから2.7mの高さに堤防を築き、
   南岸を低く、いわゆる水越堤防として築き、北側の城下へ
    の浸水を防ぐようにしていた。
   北岸には西の思案橋から東は下町の雑魚場までの間に
    12箇所の水丁場(水防受持ち区域)を設け、石碑を建てて
    整備し、出水の状況に応じて水防組(武士と町人)が
    出動するようにしていた組織作りをしていた。。
  特筆すべきは、水丁場の警護・管理をするにあたり、各箇所
    ごとに家老を置き、その下に武士と町人を人員配置。
    緊急時には強制的に出動させていた。
  現在、「観音堂北」・「南堤防上」・「忠霊塔西側」の3箇所に
    石の標柱が残っている。

 

参考文献
  鏡川小特集~土佐地域文化第5号2002年6月号
  改訂版高知の城下町読本
  龍馬を育てた道の小冊子(高知市観光課)

 

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⑦ 土佐山内家宝物資料館

2011-01-07 | ⑦ 土佐山内家宝物資料館

~⑦ 土佐山内家宝物資料館~

資料館は、山内家代々の遺物一万点余りを保管・展示している。

 昭和45年、戦災で消失した山内神社がされたのを機に、
   山内家に伝わる歴代藩主の遺物や旧藩関係の
   古文書類、維新志士たちの遺墨などを収蔵する
   「山内神社宝物資料館」が併設され、一般に
   公開展示されてきた。

 

参考文献
  鏡川小特集~土佐地域文化第5号2002年6月号
  改訂版高知の城下町読本
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