鏡海亭 Kagami-Tei  ネット小説黎明期から続く、生きた化石?

孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン)

生成AIのHolara、ChatGPTと画像を合作しています。

第59話「北方の王者」(その1)更新! 2024/08/29

 

拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、

ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら!

小説目次 最新(第59)話 あらすじ 登場人物 15分で分かるアルフェリオン

第55話(その5・完)交わる二つの闇と「双紋の御子」

目次これまでのあらすじ | 登場人物 鏡海亭について
物語の前史プロローグ


5.交わる二つの闇と「双紋の御子」


  《虚海ディセマ》の最奥、一筋の光さえも届かぬ深海底に建つ神殿、その試練の間に続く入口の前を、ルキアンは忙しなく行ったり来たりしている。はじめは静かに座ってエレオノーアの帰りを待っていた彼だったが、その後、待つのに飽きたわけではない。彼が落ち着きを失っているのは、もはや単なる心配を通り越した、胸が締め付けられるような、言いようのない不安感が浮かんできたからであった。
 仮にも魔道士の卵であるルキアンの直感は、それなりに鋭い。その直感が、否応もなく、息苦しい緊張感を体中に染み渡らせていく。
「このままでは、エレオノーアが帰ってこない気がする。だけど、対の御子ではない僕が無理に扉を開けると……」
 ルキアンは、先ほどから何度も扉の前で立ち止まり、手を掛けつつも、開けることを結局避けていた。もしルキアンが扉を開ければ、エレオノーアが命を失うかもしれないからだ。
 そんなとき、突然、彼の心の中に声が伝わってきた。
 ――ルキアン、アマリアだ。私の声が聞こえるか。《豊穣の便り》の刻印を媒介にして、君に話しかけている。
 ――はい、アマリアさん。アルマ・ヴィオの《念信》のような感じですが、しっかり伝わってきます。
 ルキアンは、掌に描かれた麦の穂を思わせる黒い紋様、すなわち《刻印》を見つめながら念じた。これに応えてアマリアの声も流れ込んでくる。
 ――よく聞いてほしい。エレオノーアを直ちに助けにいくべきだ。今、彼女の霊気がいったん安定したと思ったら、間もなく急激に減少し始め、もうほとんど感じられなくなっている。おそらく、このままだと彼女は今度こそ消えてしまう。
 悪い予感が当たっていたことを、ルキアンは確信せざるを得なかった。ここは迷うことなく了解した彼に、アマリアは続けて言う。
 ――何かあったら、今の要領で私に声をかけてほしい。ここから、できる限りのことはする。
 ――分かりました。アマリアさんも気をつけて。
 そう告げて話を終えると、ルキアンは大扉の前に立ち、敢えてゆっくりと息を吸い、長く吐き出した。そして両手で押すように扉にふれ、意識を手のひらに集中する。
 ――この扉がどうなっているかが分かる。押しても開かない。これは、闇の御子の力でしか……。
 晩餐の場でエレオノーアが消滅しかけたとき、無意識のうちに《闇》の紋章を浮かび上がらせ、《ディセマの海》を支配結界に取り込んだルキアンは、今なら自分の意志で紋章を呼び出し、その力を扱うことができるような気がしていた。
 ――大丈夫。《盾なるソルミナ》が生み出した幻の世界の中では、僕は紋章の力を使って戦うことができた。あの時の感覚は、はっきり覚えている。
 エレオノーアのはにかんだ笑顔が、《おにいさん》という彼女の愛らしい声が、ルキアンの胸の内に浮かんだ。
「僕が助けないと。《ダアスの眼》よ、開け、闇の紋章を呼び起こし、力を貸して!!」
 《盾なるソルミナ》の化身と戦ったときや、ミト―ニアでアルフェリオンをゼフィロス・モードに変形させたとき、ルキアンはすでに《ダアスの眼》を開くことができていた。御子としての本能が彼を導いているのだろうか。ルキアンが叫び、精神を集中すると、彼の心の目が何かと向き合った。魂の底から彼を見つめるそれは、御子の力の象徴たる《ダアスの眼》に他ならない。己の中の闇に心を投げ入れ、それを恐れず受け入れ、ひとつになったとき、《ダアスの眼》は開き、御子自身の目として、御子自身を見つめる。
「できた。これなら紋章の力も」
 《ダアスの眼》が自らの視線と重なったとき、ルキアンの右目に変化が起き、幾つかの微細な光が、小妖精の輪舞のように瞳の奥で煌めいた。それらは回転しながら細密な文字や図形を描き出し、ルキアンの右目に闇の紋章が現れる。その輝きは強く、彼の想いに応えようとしているかのようだった。
 だが、彼が紋章の力を扉に注ぎ込んだとき、火花が散り、焼けるような感覚が掌に走った。
「痛っ!」
反射的に引っ込めた腕が根元まで痺れている。
「《鍵》が合わないのか。それでも、何としてでも……」
 ルキアンは再び両手を扉に押し当て、魔力を集中する。
「エレオノーアは、僕が救い出す」
 痛みも、痺れも、すべて無視して耐え、ルキアンは手のひらを決して放そうとしない。なおも魔力を注ぎ込むと、掌や腕に伝わってくる痛みがいっそう大きくなった。容赦のない激痛に、うめき声を上げながらも、彼は決して諦めなかった。
「必ず、助ける。絶対、やり遂げる……」
 たとえ短くても、エレオノーアと過ごした忘れ難い時間が、ルキアンの脳裏に鮮明に浮かぶ。今度は自身に喝を入れるように、ルキアンが叫ぶ。
「想いの力を……想いの、力を……見せてやる!」
 一転、ルキアンの目が漆黒色に変わる。紋章の輝きも閃光のごとく高まった。彼の心の中でも、《ダアスの眼》のイメージがいっそう大きく見開かれる。《盾なるソルミナ》の化身との戦いの中で口にした一連の言葉を、彼は無意識に繰り返し、半ば詠唱する。
 
 僕は見た。
 生命と因果律の樹の背後に開けた
 底なしの暗き穴を。
 始まりにして終わりの知の隠されし
 静謐の座を。
 
 大扉に当てられたルキアンの両手を中心に、闇の紋章と同じ形状の魔法陣が浮かび上がる。巨大な扉が震え、大きく揺れ始める。さらにルキアンの銀色の髪がそよぎながら、次第に灰色に、そして黒、ついには漆黒の色に変わった。闇の御子が全力で力を振るうときの姿だ。
 これまでとは違う膨大な力が扉に流れ込み、表面に浮かんだ魔法陣を光となってなぞりながら、扉の中央に集まっていく。
 ルキアンは激高してエレオノーアの名を叫んだ。それと同時の一撃で、扉の中心にひびが入り、周囲に広がる。金属製らしからぬ、ガラスが割れるような高く乾いた音がして、これを引き金に扉が真ん中から砕け散った。現実味が感じられないほど分厚く、重々しい鋼材の破片が、鈍い音と地響きを伴って床に次々と落ち、遂に、人がくぐれるほどの穴が生じるのだった。
 ルキアンはそこから中に入ろうとしたが、何か目に見えないものに遮られて先に進めない。透明な壁、より正確にいえば、凄まじい水圧で流れ落ちる滝に触れたような、そんな感触がする。
「空間が歪んでいる? エレオノーア!?」
 壊れた扉の向こうにエレオノーアが倒れているのが見えた。彼女は口から血を吐き、ぐったりした様子で床に伏している。もう身動き一つできないほど衰弱しているようだ。
 今度は扉にできた穴に向かって、ルキアンが必死に魔力を注ぎ込む。だが次の瞬間、エレオノーアが悲鳴とともに起き上がり、発狂したかのような叫び声をあげ、苦痛にのたうった。ルキアンは慌てて一歩下がった。
 ――無理に開けようとすれば、中の御子が引き裂かれるというのは……まさか、僕が扉を壊そうとすると、それがエレオノーアの体を傷つけてしまうということ?
 見えない壁の向こう、エレオノーアが息も絶え絶えに座り込む。身を引きちぎられるような激しい痛みに耐え、彼女はルキアンを見つけた。
「お、おにい、さん……? なぜか、髪も、瞳も……黒いですが、おにいさん、ですよね。よかった。また会えたの、ですね……」
 エレオノーアの目から涙があふれ、彼女は立ち上がろうとして転ぶと、両腕で体を引きずるように床を這い、ルキアンのところまで必死に辿り着こうとする。
「ごめん、エレオノーア! 痛かった、すごく痛かったね。僕が扉を壊そうとするたびに、エレオノーア自身の体が傷つけられていたんだね? 本当にすまない」
 ルキアンが透明な壁に手を当てると、向こう側のエレオノーアも壁に沿って懸命に這い上がり、残った力で上体を持ち上げ、腕を伸ばし、その手を壁越しにルキアンの手に重ねる。
「体が……中から、ばらばらになるかと……思い、ました……。たくさん、血も吐いて、もう、気を失うくらい……痛かった、です。でも一生懸命、我慢して、おにいさんと、また、会えました」
 エレオノーアの声が、途切れ途切れに、か細く聞こえてくる。
「でも、おにいさん……。私は、ここまでの、ようです。身体は、取り戻したのですが。結局、私が消えようとしている原因は、元のまま……なのです」
「それは、どういうこと?」
「対になる御子を、失っている……片割れの……《アーカイブ》の御子は、とても不安定で、時が来ると、こうして……消えてゆくしか……ないの、です。それに、粒子化と実体化を繰り返した影響で、わたしの生身の体そのものも、もう、ぼろぼろで……」
 エレオノーアの体のあちこちが再び光の粒に変わり、少しずつ蒸発するように消えていっているのが、ルキアンの目に映った。
「わたしは……おにいさんの《アーカイブ》に、なりたかったです。そうしたら、ずっと、一緒にいられた……。でも、おにいさんの紋章は、対になる《アーカイブ》の人の紋章と、すでに結ばれています」
「そんな!? それじゃあ、エレオノーアはもう、助けられないの?」
 ルキアンが思わず声を上げると、エレオノーアは首が折れたかのようにがっくりとうな垂れ、そこから顔を上げる力をもはや失った。
「仕方が、ない、のです。それでも……わたし、満足です。こうして、おにいさんと会えた。短い時間、だったけど……とても、嬉しかった。幸せ、でした。ありが、とう……」
 永遠の別れを思わせる言葉をエレオノーアが口にし始めたため、ルキアンは必死に考えた。今できることを、エレオノーアをこの世に引き戻す決定的な何かを。
「ちょっと待って。《アーカイブ》と結ばれるために、闇の紋章が必要なら……。紋章がもうひとつ、あれば、もしかすると」
 何かを決意したような、哀しくも真剣な顔をして、ルキアンが急に立ち上がった。エレオノーアは虫の息で、壁にもたれかかって座っている。
「神でも悪魔でも、何でもいい。お願いだ。エレオノーアを助けたい。たとえ、この左目が光を失っても構わない。だから、紋章を……」
 ルキアンの闇の紋章が再び光り輝き、彼の背中から莫大な霊気が立ち昇る。
「なんとなく、前から感じていた。左目の……違和感を。でも怖かった。いまの右目の紋章だけなら、僕の力でも何とか制御できる。しかし、もし、もうひとつの紋章が目覚めてしまうとしたら……僕の力ではどうにもならない、かもしれない。これを開いてしまうと、僕は本当に戦うだけの、兵器のような存在になってしまうんじゃないかって、恐ろしくて、知らないふりをしていた。だけど……」
 彼の発する闇の力はさらに強まり、透明な壁越しにもエレオノーアが異変に気づくほどだった。彼女は首を傾け、弱々しく唇を開いた。それが唯一の反応だった。
「エレオノーア。僕の声、聞こえる? ごめんね、話すのは辛いよね……。お願いがある。もし、僕がいつか、敵を殺戮することしか考えない機械のようになってしまったら……そのときは、君が僕を殺して、止めてくれる? とても身勝手なお願いだけど、エレオノーアにしか、頼みたくない。許してほしい」
 そのように口にしたとき、ルキアンは、アルフェリオンの最終形態である《紅蓮の闇の翼》、かつて旧世界の時代に《天空植民市群》を滅ぼし尽くすために作られた殲滅兵器である《アルファ・アポリオン》と、自身とが一体化してしまうことを、不穏にも予感していた。
 エレオノーアからみれば、突然に、予想もしていなかった問いかけだったが、彼女には驚く力すらなく、ただ頷いた。聞き取れないほど小さな声で、ひとこと、ひとこと、言葉が絞り出される。
「はい……。おにいさんが、心から、そう望むなら。でも……そうならないように、私が……ずっとあなたの側で……見守って、いられたら、よかったな」
 最後の力を出し切るような、エレオノーアの切々とした言葉に、ルキアンの目から自然と涙が流れた。
「本当に、ありがとう」
 少し沈思した後、ルキアンはエレオノーアに問いかけた。簡素な言葉に、いま精一杯の想いを込めて。
「エレオノーア、僕の、《アーカイブ》になってくれる?」
 命も尽きようとしていたエレオノーアが、その言葉に大きく反応し、目を開いた。
「なりたいです。だけど……そんなこと……。夢でも、いいから、なりたいな……」
「分かった。僕も勇気を出して、君の願いに応えたい。君だけをひとりで逝かせはしない」
 ルキアンはわずかに背中をかがめ、息を吸うと、一気に叫んだ。彼の絶叫が続く中、左目に血が滲み、その血が次第に一定の形を描く。淀んでいた建物内の空気が彼を中心に動き出し、渦を巻いたかと思えば、気温は急激に下がり、肌を刺す冷気が周囲の石壁から激しく伝わってくるようだ。そして重力も異常をきたし、床の小石や砂が浮き上がり、近くに置かれている燭台や調度品がカタカタと音を立てて揺れている。
 これまでのルキアンとは別人のような、底なしの濃い霊気が辺りを支配し、神殿一帯をたちまち覆い尽くしていく。突然に強大な魔力が海底神殿から感じられたことに、アマリアが驚いてルキアンに呼び掛けてくる。
 ――ルキアン、そこで何が起こっている? 一体、この膨大な魔力は!?
 だがルキアンは答えずに叫び続けた。そして不意に沈黙し、何かに取り憑かれたかのような、ぼんやりとした、遠い目で淡々と語り始める。
「エレオノーア、君は僕の《アーカイブ》だ。なぜなら……」
 ルキアンが両目を閉じ、ゆっくりと開いた。右目に闇の紋章。そして左目に輝くのは……。
 いち早くそれを感じ取ったアマリアが、声を震わせて言う。
 ――あり得ない、そんなことは。《双紋の御子》が、同じ属性の紋章を二つ持っているだと? いまだかつて、そんな御子など誰一人としていない。
 普段とは異なる冷厳とした口調で、ルキアンは続ける。
「なぜなら、僕のもうひとつの、左目の《闇》の紋章とエレオノーアの紋章は、いま結ばれるのだから」
 
 ――《アーカイブ》との契約を承認。両者の《紋章回路(クライス)》をスキャンし、リンクを準備中です。
 
 ――おにい、さん? おにいさんの闇が、わたしの中に、入ってくる……。怖いほどに、こんなにも……孤独で、痛々しい。これまで、寂しかったのですね……。ずっとずっと、辛かったんだね。
 目に見える体の動きを生じさせる力は、もうエレオノーアにはなく、言葉を発することすらままならなかったが、彼女はルキアンに届けと心の中で思った。
 ――そうか、わたしと同じ、なんだ。こんなにも暗く、光の届かない心の闇を、独りで背負うことなんて、できないです。それでも負い続けようとして、ますます、闇は、深くなり、あきらめに押し潰されて、もう、取り返しのつかないほど心が侵食されてく……。それ、知ってます。
 輝きを失ったエレオノーアの瞳が、目尻の方に向かって微かに動いた。
 ――あぁ、会えてよかった。わたしにしか、支えることの……できない人に。これからは、一緒に……背負わせて……ください。
 
 ――リンクが正常に構築されました。《執行体》と《アーカイブ》の接続を確立。
 
 ルキアンは、おもむろに右目を手で覆う。彼が再び手を放したときには、右目の紋章はいったん消えていた。肩の力を緩め、溜息を付くルキアン。紋章が左目のものだけになった後、ルキアンのまとう雰囲気も、話し方もいつもの彼に戻った。
「エレオノーア、いますぐ回復するよ。頑張ったね。今なら、《アーカイブ》の、君の力のことが自然に分かる。僕が、君を、死から取り戻す」
 ルキアンは見えない壁に手をかざし、座り込んで動かないエレオノーアに向けてつぶやいた。
「冥府の門を開け放ち、かの者の物は、かの者へ、時のことわりを超えて此方に返せ、引き換えて新たな災いは招き入れ、封じよ」
 その呪文の長さに応じた極めて強力な治癒魔法、いや、それ以上の計り知れない魔法だろうか。詠唱が続く。
「暗黒の神々の書に名を刻まれし忘却の公主に、我らの地より、遠く願い奉る。哀れなこの者、すでに逝きつつある者の時を戻したまえ」
 神話の戦いの折に、とある書に記され、それ以来、《人の子》の世界からは失われていたといわれる秘術の名を、ルキアンは唱える。
 
「時無しの糸をもって、その青白き指で導け……絶対状態転移魔法……《エテルナ・オブリアータ》」
 幾拍かの間隔があってから、エレオノーアの肩が動いた。彼女は首を起こし、寝ぼけたような顔で目を開き、呆然と周囲を見回している。それから立ち上がると、ようやく驚いてルキアンの方を見た。
「お、おにいさん! わたし、元気になっています、生き返った、みたいですが!? 本当に死んでしまいそうだったのに。これが……真の闇の御子の力、《アーカイブ》と結ばれた《執行体》の力なのですね!」
 瀕死の状況にあったエレオノーアが、心地よい朝の目覚めのように、澄んだ目と健康的な頬の色でルキアンに向き合い、一瞬で立ち上がった。ほぼ死者を生き返らせるに等しい、これほど高度な治癒魔法は、本来ならルキアンが知るはずもなく、使えるはずもない。
 エレオノーアには、ルキアンの行ったことが完全に把握できているようだ。彼女は意味ありげに目を細めて言う。
「《エテルナ・オブリアータ》、効果の見た目からは、違いが分からないようにみえますが……この術は、治癒や回復はもとより、より高度な蘇生の魔術でもありません。対象となるものの状態自体を過去のあるべき姿へと帰す、神の手、《絶対状態転移》の魔法です。私の《書庫》の中に、こんなとんでもない呪文が眠っていたのですね」
 《神の手》とすら呼ばれるその呪文の圧倒的な効果は、もはや天に召されようとしていたエレオノーアが、気力に漲った姿で目の前にいることをみれば、一目瞭然であろう。
「すごいです、おにいさん! 《アーカイブ》の私が蓄えている呪文を――それはつまり、《アーカイブ》とつながっている《ディセマの海》に記憶された、そうですね、いったい、どれだけ沢山の魔道書庫に匹敵するのかさえ想像もつかないほどの、伝説の時代から今日に至るまでの膨大な《闇》属性呪文を、ですね、私が瞬時に検索し、提案し、おにいさんは最適なものを実装して発動させることができます」
 対になる闇の御子が結合し、完成された《聖体》本来の力は、《人の子》たちの想像の及ぶ範囲を遠く超えている。エレオノーアは胸に両手を当て、何か大切なものを抱くような格好をした。
「まだ信じられません。でも、とにかく嬉しいです。おにいさんとつながっています。確かに感じます。わたし、わたし……おにいさんの《アーカイブ》に、なれたんですね!!」
 彼女はそこで思い出したかのように、自身の胸に手を当てたまま、力を発動させる。
「我が体に宿れ、《言霊の封域》」
 彼女のそのひとことで場の空気が変わった。ルキアンは驚愕の目で、エレオノーアの顔を改めて見つめた。試練の間に入る前のエレオノーアとは別人ではないかと思うほど、力の言葉を唱える彼女には威厳があった。
「大切な人のために、わたしの想いは鋼よりも固く、金剛石をも凌駕する」
 ルキアンの目をじっと見つめ、エレオノーアが言葉を続けた。
「だから、わたしは痛みなど一切感じない」
 エレオノーアは、自身とルキアンとを隔てる壁に手を当てると、決意に満ちた目でルキアンに頼んだ。
「わたしに構わず、この壁を壊してください。早くおにいさんのところに行きたいです。壁を壊せば、これまでとは比べ物にならないほど、その、とても痛いかもしれませんが……おにいさんが元に戻してくれたおかげで、《言霊の封域》が使えましたから、何とかなるかもしれません」
 ルキアンはエレオノーアを見つめ、小さく頷いた。壁に手を当て、魔力を注ぎ込む。
 短く、鋭い、喉を絞るような苦しみの声をあげたエレオノーア。だが彼女は片膝を床につきながらも、恐ろしい激痛に耐え切った。壁が割れる音が間もなく響いた。
「エレオノーア、よく頑張ったね」
 ルキアンの手が差し伸べられる。今度は二人の間に何の障害もなく、エレオノーアもルキアンの方に手を伸ばした。
「おにいさんっ!!」
 なおも激痛に表情を歪ませ、足取りもふらつきながらも、エレオノーアはルキアンに駆け寄った。
「もう、離れるのは嫌です。絶対に一緒です、わたしのおにいさん!」
 エレオノーアはルキアンに抱き付く、いや、勢い余ってしがみ付くと、子供のように大声で泣き出した。ルキアンは敢えてそれをなだめようとはせず、黙って彼女を抱き止め、そっと頭を撫でている。そして穏やかに語りかけた。
「さぁ、帰ろう。二人で」
 
 そのときアマリアが、珍しく若干の遠慮を伴って、低めの声で伝えてきた。
 ――盛り上がっているところ、水を差すようで悪いのだが。そこから帰ってくる間、何が起こるか分からない。十分に気を付けたまえ。
 エレオノーアが、目を赤く腫らして、まだ涙声のままで言う。
「そうですね。何か、嫌な予感がします。早くここを出ないと……」
 そう言いかけ、エレオノーアが窓から、あるいは窓の姿をした特殊な結界から外を見たきり、そのまま動かなくなった。彼女の手が震えている。
「あ、あれを、見て……。おにいさん」
 ただ事ではないその様子にルキアンも外へ目を向けると、舞い上がる土煙の向こう、最初は、あまりにも大きすぎて、視界すべてをその巨体に遮られ、《それ》が動いているということがよく分からなかった。暗い深海にいっそう黒々と濃く、悠然と泳ぐ漆黒の影。その巨躯は天界に迫る高き塔のように、《虚海ディセマ》の深層から中層へと突き抜け、ひょっとすると水面の上まで続いているのではないかと思われた。長大な尾がひと振りされると、莫大な深海の水が渦を巻き、蛇のような体が這うと海底は歪み、崩れ、その地形すら刻々と変わっていくようだった。
「とてつもなく、大きな蛇? それとも、竜? でも、この《虚海ディセマ》に生き物など存在しないはずです」
 心配そうにルキアンを仰ぎ見たエレオノーア。彼の表情にも、これまで以上の緊張が走る。
「つまり、あれは、結界の外から……。しかし、そんなことができるのは?」
 ルキアンは拳を握り締め、その手を――おそらくは怒りゆえに――震わせ、自身とエレオノーアに言い聞かせるかのように、静かに、ゆっくりと言った。
「ただひとつ、確かなことがあるんだ。あの竜の姿を見ているだけで、言いようのない激しい怒りがわいてくる。あれは必ず倒さないといけないものだと、御子たちの魂の記憶がはっきりと告げている」
「わたしもです、おにいさん。あれは、これまでに幾度となく《再起動(リセット)》されて滅びていった、すべての世界の御子たちの敵。《人の子》の歴史をもてあそぶ存在、わたしたちの宿敵です!」
 向き合って互いに頷くルキアンとエレオノーア。エレオノーアの命は確かに救われ、彼女とルキアンは対の闇の御子として結ばれた。だが、この戦いに勝利しなければ二人に未来はない。
 彼らの心に、アマリアからの声が直に響いてくる。
 
 ――我々が見ているのは、間違いなく《始まりの四頭竜》の姿だ。世界が創造され、《あれ》の力が、つまり《すべての根源たる絶対的機能》の作用が及び始めたとき、その自己展開が予め定められた通りに進められるよう、物理世界に干渉するための手足として最初に生み出された《万象の管理者》……それが四体、いや、四柱の《時の司》。《石板》によれば、それら《時の司》の正体は、四つの頭をもった最も古き神竜だとされている。ただ、幸いというべきか、いま我々の前にいるのは、四頭竜のただの似姿、しかもその思念体にすぎない。しかし、何とも直接的な方法で介入してきたものだな。そうやって、我らを力ずくで蹴散らせると考えているのなら、永劫の時を経て貴様らは呆けたか。死とは無縁の永遠性をもつ神的存在とはいえ、無駄に長く生き過ぎたな、《時の司》たちよ。《人の子》の限られた命というものの一瞬の輝きを、それゆえの強さを、貴様らが正しく想像できるはずはあるまい。
 
 彼女は初めて口にした。御子の奥義として伝わる究極の術の名を。
 
 ――さぁ、《古き者たち》よ、《今回》の世界は今までとは違うぞ。貴様らと戦うために、私は、善悪や是非を超えて、ただ結果だけを告げよう。真の闇の御子が《聖体降喚(ロード)》によって降臨したおかげで、《永劫の円環》の呪いは打ち砕かれ、《人の子》の歴史が始まって以来、すべての御子が同じ時代に初めて揃った。私を含め、そのうち五人のことが明らかになっている。この意味が分かるか。じきに、御子の真の力を見ることになるだろう、すなわち、《五柱星輪陣(ペンタグランマ・アポストロールム)》を。
 
【第56話「五柱星輪陣(後編)」に続く】
 
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