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猿沢池案内

2024-03-08 12:41:58 | 日記

猿沢池案内

 近鉄奈良駅を下りたすぐのところが東向き商店街で、東向きの名前の由来はここの商店がみな東向きに立っていたことにあるという。今は東西両方に向かっているが西向きの商店は昔はなかった。今西向きの商店が立っている場所には興福寺の塔頭一乗院のお庭であったという。ここには昔足利義昭が住んでいて、本当ならここで人生を終えるはずであったが、明智光秀に担がれて京都へ戻った。ここから今の奈良県庁の前を通って北向きに折れて東大寺の横を通る道が京都に向かう道であるからここを通って行ったのであろう。

 興福寺は宗教施設の役割だけではなく、このように将来政治に必要になるかもしれない人材を一時隠しておく場所として設計されていたように思う。都から離れていてかつ忍者のいる伊賀甲賀柳生名張に近いので全国の情報が集まる。静かなところで将来のために勉強してもらうには最適であろう。

 時の権力機構からはある程度独立して情報を集めて何かを企んでいる機関であるから、扱いに困ったはずである。江戸幕府で出世すごろくを登っていくお役人の振り出しは、奈良町奉行であったという。その仕事は、興福寺をはじめとする寺社との付き合いであったらしい。奈良町奉行所は今の奈良女子大のあたりにあって、その正門が興福寺の方を向いて立っていることから、一番大事な仕事が興福寺対策であったことは建物の配置からもわかる。ついでに、今の奈良県庁も正門は興福寺の方を向いて立っている。

 明治の初めの政治家は本当にすごかった。こんなややこしいところのある寺院を倒してしまうために廃仏毀釈運動を始めた。賢い政策である。興福寺の僧侶は一夜にして春日大社の神官になったという。今の奈良公園に立っていた興福寺の僧の役宅は焼けたか倒されたかどちらかであろう。自分が手を汚さずに倒してしまった。自分でやると面倒だから民衆の力を借りたのである。今でもこれと同じような政策はあちこちでやられているであろう。頭のいい人にはかなわない。

 興福寺南側に石の階段があって52段あるのでなんの芸もなくこの階段は「五十二段」と呼ばれているが、降りたところが芥川竜之介の短編小説にも描かれるところの猿沢池である。このほとりには柳の並木があって艶な雰囲気を醸している。そのすぐ向こうに、日本最古かどうか知らないが、吉原なんかよりはるかに古い花街があった。こんな寺から見えるところに花街があるのはあかんのじゃないかと昔思っていたが、ここが義昭さんのようなヒトが勉強させられる場であれば納得できる。勉強の憂さ晴らしに花街に出かけたであろう。行って田舎は嫌だ、ああ京都へ行きたいと思ったであろう。足利義昭はどんな人か知らないが、この階段を下りながら結局京都には行ったけどこの人気の毒な人生であったろうと想像した。操られただけの人生じゃないのか。