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東大寺私見

2024-03-05 22:29:42 | 日記

東大寺私見

 聖武天皇は仕事をしんどいと思った人ではないかと同情する。経験がないので想像しかできないが、四六時中皆から仰ぎ見られるのは、上司同僚部下からつまんないことをワーワー言われるのと変わらないくらいつらい立場なような気がする。そこで自分の身代わりに巨大仏像を作ってみんなあれを仰ぎ見ろ、自分(聖武)は、三宝の奴であるから自分を仰ぎ見るなと東大寺を作って巨大仏像を作ったと想像する。

  平城宮にあった政治の中心は一時的に東大寺に移ったのではないか。儀式は大仏の前で執り行われる。大仏に捧げられた宝物は、大仏の後ろに建てられた正倉院にしまい込まれるのでここは今でも皇室の命に依らなければ開いてはいけないことになっている。

 儀式や重大な決定は東大寺で行われるとしても、行政はその近くで別組織が必要である。ちょうど永田町の近くに霞が関があるようなものである。それが、興福寺であり藤原氏が当時の政治を壟断しようとしていた証であろう。このような事情でいまだにこの二つの大寺には宗教色が薄くて、数珠を持参して長年にわたる願いを例えば大仏の前で吐露して叶えてもらおうとは思わないのはこのような事情があるからと思っている。東大寺は宮殿の成り代わったものである。

 その後東大寺は普通の寺社と同じように荘園の寄進をうけて荘園領主になるが、平氏によって焼き討ちに会い源頼朝によって復興している。この焼き討ちにあったときに正倉院が燃えなかったのは凄いことである。奈良盆地は大昔湖の底であったため今でもあちこちに小さい池が散在するが、結構大きな池が正倉院の斜め前にあってあるいはこれあるが幸いしたかもしれない。ついでに、頼朝は奈良に来ている。一番北の端にある門を手貝門(転害門)と呼ぶがこの門から入ったのだそうである。(京都からやってきて一番近いのはこの門である。)この門だけは燃えなかったらしくてもう千年くらいたっているらしい。木材は本当にこのくらい長くもつのか、不思議な気がする。この門には仁王さんが居ないので観光ルートから外れてしまっており折角頼朝さんが下をお通りになった由緒があるのにさっぱり観光客がこない。

 ヒトを呼び込むには南大門みたいに像が必要である。しかもヒトに似せた形であることが必要である。狛犬やライオンのようなのもあるけれど、どういう訳か左右一対のヒトに似ているものが宜しいようである。そういえばニュース番組のアナウンサーは左右一対のヒトによって読まれているものが標準になっている。将来AIがこれにとって代わるかもであるが、わたしはAIによるニュースの読み上げは成功しないと思う。ヒトを和ませるものはヒトしかいない。そうしてヒトは和みたいといつも思っているものだからである。南大門の像は、怖い顔をしているがそれでもヒトを和ませるものである。運慶快慶はそのことを知っていた。運慶快慶とその手下数十人は優れたエンターテナーであったと思う。もっと高く評価すべきである。