長屋王の御飯
国立東京科学博物館で長屋王の御飯の展示があったので見てきた。わたしは小学生のころ不覚にも長屋王というのは、皇族ではあるが気の毒にも零落して長屋に住まざるを得なかったからこんな名前になったのだと思い込んでいた。そこで政治に不満があって、のるかそるかの反乱を起こして負けてしまったのが長屋王の変だと勝手に解釈していた。(当時から私は授業を聴かないで勝手な解釈をするのを常にしていた。)その後そうでもなさそうとは考えなおしたが、最初のイメージから抜け出られなかった。しかし今回この展示を見てやっと完全に最初のイメージが払しょくできたことは良いことであった。大変贅沢をし、おそらくその贅沢を支えるだけの強大な権力を保持していた人であろう。
当時は昼ごはんは食べなかったはずだから朝か晩であろうが、朝からこんな沢山はいくら何でも食べきれないから晩御飯であろう。一人でこれだけ皆食べたのかどうか疑わしいが、それはそれはたくさんの品数が載っている。今なら三万円くらいのコース料理であろう。毎日これならおいしくて大満足だが、痛風とかの病気に悩まされる可能性がある。隣に当時の庶民の御飯が展示されていて、こちらは青菜汁と雑穀と塩だけでこれでは腹が減ってやりきれない。(庶民の方は塩がやたらに大量でちょっととりすぎな気がする。これでは庶民の方は血圧に気を付けないといけない。)いずれも科学博物館であるからいろいろ調べた挙句の事実に近いものだと考えられる。
長屋王はなぜか歴史番組であまり語られないが、天智天武の孫くらいに当たる皇族で何らかの権力闘争に負けて軍隊に取り囲まれ自害したらしい。大きなクーデタであるからもっとテレビの歴史番組で取り上げてもらいたいものである。
近鉄奈良線で大和西大寺をでてしばらく奈良の方へ行くと線路の南側に大きな建物(もとの奈良そごう、今は何に使われているか知らないのだが。)が見えるが、ここが長屋王の邸宅跡である。ここから線路を挟んですぐ北側に大極殿があった。距離にして一キロあるかどうかである。権力の中心の近くに次の権力を担うヒトが集まってくる。社長室の隣に筆頭副社長室があるようなものであろう。社長室のすぐそばに平社員の机は置かないはずである。
この邸宅の料理人は筆まめな人であったと見えて、木簡にメモを残したので長屋王の御飯が復元されたようである。しかし貨幣のない時代である、これだけのものを税として輸送するのはどうしたのかを知りたいと思っている。近場や瀬戸内海沿いはまあいいけど、山陰や尾張の国あたりは税金をどうして運んだのかを知りたいものである。同じことは、初期の平安京にも言えることで都の消費財はどうやって運んだのか。税を貨幣として集めないと巨大な都市の運営はできないはずであるから、平城京も初期の平安京もごくごく小さなスケールであったろうと考えられる。
平城京でも平安京でも、しゃれた和歌がたくさん詠まれていたからさぞやスケールの大きな都会であったよに思うが、実際は権力を中心として大きな屋敷がいくらか並んでいるだけのものであったような気がする。