本の感想

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長屋王の御飯

2024-03-14 23:01:49 | 日記

 長屋王の御飯

国立東京科学博物館で長屋王の御飯の展示があったので見てきた。わたしは小学生のころ不覚にも長屋王というのは、皇族ではあるが気の毒にも零落して長屋に住まざるを得なかったからこんな名前になったのだと思い込んでいた。そこで政治に不満があって、のるかそるかの反乱を起こして負けてしまったのが長屋王の変だと勝手に解釈していた。(当時から私は授業を聴かないで勝手な解釈をするのを常にしていた。)その後そうでもなさそうとは考えなおしたが、最初のイメージから抜け出られなかった。しかし今回この展示を見てやっと完全に最初のイメージが払しょくできたことは良いことであった。大変贅沢をし、おそらくその贅沢を支えるだけの強大な権力を保持していた人であろう。

当時は昼ごはんは食べなかったはずだから朝か晩であろうが、朝からこんな沢山はいくら何でも食べきれないから晩御飯であろう。一人でこれだけ皆食べたのかどうか疑わしいが、それはそれはたくさんの品数が載っている。今なら三万円くらいのコース料理であろう。毎日これならおいしくて大満足だが、痛風とかの病気に悩まされる可能性がある。隣に当時の庶民の御飯が展示されていて、こちらは青菜汁と雑穀と塩だけでこれでは腹が減ってやりきれない。(庶民の方は塩がやたらに大量でちょっととりすぎな気がする。これでは庶民の方は血圧に気を付けないといけない。)いずれも科学博物館であるからいろいろ調べた挙句の事実に近いものだと考えられる。

長屋王はなぜか歴史番組であまり語られないが、天智天武の孫くらいに当たる皇族で何らかの権力闘争に負けて軍隊に取り囲まれ自害したらしい。大きなクーデタであるからもっとテレビの歴史番組で取り上げてもらいたいものである。

近鉄奈良線で大和西大寺をでてしばらく奈良の方へ行くと線路の南側に大きな建物(もとの奈良そごう、今は何に使われているか知らないのだが。)が見えるが、ここが長屋王の邸宅跡である。ここから線路を挟んですぐ北側に大極殿があった。距離にして一キロあるかどうかである。権力の中心の近くに次の権力を担うヒトが集まってくる。社長室の隣に筆頭副社長室があるようなものであろう。社長室のすぐそばに平社員の机は置かないはずである。

この邸宅の料理人は筆まめな人であったと見えて、木簡にメモを残したので長屋王の御飯が復元されたようである。しかし貨幣のない時代である、これだけのものを税として輸送するのはどうしたのかを知りたいと思っている。近場や瀬戸内海沿いはまあいいけど、山陰や尾張の国あたりは税金をどうして運んだのかを知りたいものである。同じことは、初期の平安京にも言えることで都の消費財はどうやって運んだのか。税を貨幣として集めないと巨大な都市の運営はできないはずであるから、平城京も初期の平安京もごくごく小さなスケールであったろうと考えられる。

平城京でも平安京でも、しゃれた和歌がたくさん詠まれていたからさぞやスケールの大きな都会であったよに思うが、実際は権力を中心として大きな屋敷がいくらか並んでいるだけのものであったような気がする。


猿沢池案内

2024-03-08 12:41:58 | 日記

猿沢池案内

 近鉄奈良駅を下りたすぐのところが東向き商店街で、東向きの名前の由来はここの商店がみな東向きに立っていたことにあるという。今は東西両方に向かっているが西向きの商店は昔はなかった。今西向きの商店が立っている場所には興福寺の塔頭一乗院のお庭であったという。ここには昔足利義昭が住んでいて、本当ならここで人生を終えるはずであったが、明智光秀に担がれて京都へ戻った。ここから今の奈良県庁の前を通って北向きに折れて東大寺の横を通る道が京都に向かう道であるからここを通って行ったのであろう。

 興福寺は宗教施設の役割だけではなく、このように将来政治に必要になるかもしれない人材を一時隠しておく場所として設計されていたように思う。都から離れていてかつ忍者のいる伊賀甲賀柳生名張に近いので全国の情報が集まる。静かなところで将来のために勉強してもらうには最適であろう。

 時の権力機構からはある程度独立して情報を集めて何かを企んでいる機関であるから、扱いに困ったはずである。江戸幕府で出世すごろくを登っていくお役人の振り出しは、奈良町奉行であったという。その仕事は、興福寺をはじめとする寺社との付き合いであったらしい。奈良町奉行所は今の奈良女子大のあたりにあって、その正門が興福寺の方を向いて立っていることから、一番大事な仕事が興福寺対策であったことは建物の配置からもわかる。ついでに、今の奈良県庁も正門は興福寺の方を向いて立っている。

 明治の初めの政治家は本当にすごかった。こんなややこしいところのある寺院を倒してしまうために廃仏毀釈運動を始めた。賢い政策である。興福寺の僧侶は一夜にして春日大社の神官になったという。今の奈良公園に立っていた興福寺の僧の役宅は焼けたか倒されたかどちらかであろう。自分が手を汚さずに倒してしまった。自分でやると面倒だから民衆の力を借りたのである。今でもこれと同じような政策はあちこちでやられているであろう。頭のいい人にはかなわない。

 興福寺南側に石の階段があって52段あるのでなんの芸もなくこの階段は「五十二段」と呼ばれているが、降りたところが芥川竜之介の短編小説にも描かれるところの猿沢池である。このほとりには柳の並木があって艶な雰囲気を醸している。そのすぐ向こうに、日本最古かどうか知らないが、吉原なんかよりはるかに古い花街があった。こんな寺から見えるところに花街があるのはあかんのじゃないかと昔思っていたが、ここが義昭さんのようなヒトが勉強させられる場であれば納得できる。勉強の憂さ晴らしに花街に出かけたであろう。行って田舎は嫌だ、ああ京都へ行きたいと思ったであろう。足利義昭はどんな人か知らないが、この階段を下りながら結局京都には行ったけどこの人気の毒な人生であったろうと想像した。操られただけの人生じゃないのか。

 


東大寺私見

2024-03-05 22:29:42 | 日記

東大寺私見

 聖武天皇は仕事をしんどいと思った人ではないかと同情する。経験がないので想像しかできないが、四六時中皆から仰ぎ見られるのは、上司同僚部下からつまんないことをワーワー言われるのと変わらないくらいつらい立場なような気がする。そこで自分の身代わりに巨大仏像を作ってみんなあれを仰ぎ見ろ、自分(聖武)は、三宝の奴であるから自分を仰ぎ見るなと東大寺を作って巨大仏像を作ったと想像する。

  平城宮にあった政治の中心は一時的に東大寺に移ったのではないか。儀式は大仏の前で執り行われる。大仏に捧げられた宝物は、大仏の後ろに建てられた正倉院にしまい込まれるのでここは今でも皇室の命に依らなければ開いてはいけないことになっている。

 儀式や重大な決定は東大寺で行われるとしても、行政はその近くで別組織が必要である。ちょうど永田町の近くに霞が関があるようなものである。それが、興福寺であり藤原氏が当時の政治を壟断しようとしていた証であろう。このような事情でいまだにこの二つの大寺には宗教色が薄くて、数珠を持参して長年にわたる願いを例えば大仏の前で吐露して叶えてもらおうとは思わないのはこのような事情があるからと思っている。東大寺は宮殿の成り代わったものである。

 その後東大寺は普通の寺社と同じように荘園の寄進をうけて荘園領主になるが、平氏によって焼き討ちに会い源頼朝によって復興している。この焼き討ちにあったときに正倉院が燃えなかったのは凄いことである。奈良盆地は大昔湖の底であったため今でもあちこちに小さい池が散在するが、結構大きな池が正倉院の斜め前にあってあるいはこれあるが幸いしたかもしれない。ついでに、頼朝は奈良に来ている。一番北の端にある門を手貝門(転害門)と呼ぶがこの門から入ったのだそうである。(京都からやってきて一番近いのはこの門である。)この門だけは燃えなかったらしくてもう千年くらいたっているらしい。木材は本当にこのくらい長くもつのか、不思議な気がする。この門には仁王さんが居ないので観光ルートから外れてしまっており折角頼朝さんが下をお通りになった由緒があるのにさっぱり観光客がこない。

 ヒトを呼び込むには南大門みたいに像が必要である。しかもヒトに似せた形であることが必要である。狛犬やライオンのようなのもあるけれど、どういう訳か左右一対のヒトに似ているものが宜しいようである。そういえばニュース番組のアナウンサーは左右一対のヒトによって読まれているものが標準になっている。将来AIがこれにとって代わるかもであるが、わたしはAIによるニュースの読み上げは成功しないと思う。ヒトを和ませるものはヒトしかいない。そうしてヒトは和みたいといつも思っているものだからである。南大門の像は、怖い顔をしているがそれでもヒトを和ませるものである。運慶快慶はそのことを知っていた。運慶快慶とその手下数十人は優れたエンターテナーであったと思う。もっと高く評価すべきである。


奈良興福寺の迦楼羅像から読み解く国家運営

2024-03-04 12:52:13 | 日記

奈良興福寺の迦楼羅像から読み解く国家運営

 興福寺の仏像はいずれも美術品の意味合いが強くて、例えばお稲荷さんのようにここで心願成就のお祈りをやろうという気にならない。ここには、名前の後ろに羅のつく像がたくさん並んでいてその中で迦楼羅像は鳥を連想させるお顔立ちである。京都三十三間堂にも同じ名前の嘴があって横笛を吹くかわいらしい像があってこれも迦楼羅像と書いてある。

 たぶん当時の奈良は国際都市で、ヨーロッパアメリカアフリカは無いと思うが世界中のあちこちから人がやってきた。その人々の集団はそれぞれ、自分たちの先祖に関する神話を持っていたに違いない。そのシンボルになる動物が鳥であって音楽が得意な民族がいた。たぶんガルーダがもとの名前であるインドネシアからやってきた民族の象徴がこの迦楼羅像になったと考えられる。ガルーダは大きな鳥らしいが、迦楼羅になると小さくなって他の小さな羅のつく像と一緒に並んでいる。今はないけど当時は多分中心に大きな観音像が置かれていたに違いない。

 多民族国家だとそれぞれが利権争いして紛争が絶えない。そこで藤原不比等であったか誰かは分からないが藤原氏の氏寺の長は、各民族の象徴を観音像の周りに集めた配置にして見せることで、皆は観音さんの保護のもとに平和に暮らしていると目に見えるように示そうとした。さらに観音さんが一番偉いということを目に見える形に表そうとした。美術品はこのように政治に利用するとのお手本のような作戦である。宗教や美術を政治に利用するとはこのことかと思い当たるところがあった。また、政治権力の中心に美術品がたくさん集まるのはこれが原因だろう。(空海の創設した寺院の仏像配置にも同じような意味があるのかもしれない。)

 権力闘争では利用できるものは何でも利用しようとする。新聞でも映画でもテレビでもネットでも利用する。当時は、このように美術品を利用したのだろう。うまい手である。せっかくのうまい手にもかかわらず、平城京は決して平和ではなく陰謀だけでなくテロの嵐が渦巻く街であったらしい。これだけのことをしても効果はたいしてなかったということで、人の世の権力闘争の根深さに思いを馳せることになった。

 どうやらインドネシアは今経済発展が凄いようで、この迦楼羅像の周りにもインドネシアのお客さんが大勢見物されている。果たしてこのお客さんが、この像をガルーダと同じであるとご存じなのかどうかと尋ねるわけにもいかないまま、あれこれ考えているうちに上のような思いを持った。

 迦楼羅に限らず羅のつく像はみなかわいらしいので、諸外国も含めて中年の女性に人気である。1250年も経つと藤原の氏の長者の初期の思惑は、遺憾ながらもう何の効果もない。単にきれいで可愛いのである。