映画ベネデッタを見る。①
どうもフランスのキリスト教を扱う映画は見ても東洋人にはしっくりこないところがある。聖なる印とか幻想か実際かもわからないがキリストさんを見るとかましてやそのキリストさんと結婚するとか、はてはキリストの妻になったから出世をするとか、さらにはそういうことを喋ると火あぶりになるとかはなはだ理解に苦しむようなことが一杯出てくる。遺憾ながらストーリーに引き込まれることはないが、それでも見ながら様々なことに思いを巡らせた。いろんなことが思い浮かぶというのがいい映画であるからそういう意味ではとてもいい映画であった。
まずこの映画の中の修道院の中では権力闘争が露骨である。(これは日本の寺院の中でも露骨であったらしいからあっても可笑しくはない。)普通だったら一つの閉じた集団の中でその第一位二位三位と順位をつける争いはあんまりやりすぎると弊害があるけど、何もしないで順送りで決めると戦う人がトップに立てないからその組織が他の組織と戦えなくなってしまう。戦ってトップの座に就いたものだけが他の集団と戦える気力があると認められてトップに就く、そこまではいい。しかし修道院や寺院は他の寺院と争うための組織ではなく勝ち負けが必要ないのでそこでは権力闘争はないと外部の人はついつい思ってしまう。しかしわが身を傷つけてでも出世しようという人に満ち満ちた世界であるとこの映画は映し出す。同じくどんなことしてでも仕返ししてやろうという人もいる。
さらには、修道院はヒトに「欲深いことはいけないことです。」と教える組織であるからついついここに居る人は大変立派で無欲な人であると思ってしまう。しかしのっけから子供を預かるのにこれだけ寄こせと言う値段交渉からこの映画は始まる。何も知らないナイーブな人がついつい思い込んでいることをひっくり返すことも(ほかにも言いたいことは一杯ありそうである。)この映画の作者の意図であろう。デカメロンと同じくペストが流行った時代背景の映画であるからボカッチオと同じ意図で作成されているとみられる。
ここに描かれていることは、ちょうど学校で先生が朝礼台に登って児童生徒にいじめがいかにいけないかを長々と説教する、やっと説教が終わって職員室に戻って今度は先生同士が激烈ないじめをするようなものである。それはないだろうということが行われている。皆さんが信仰している神さんてこんなもんですよと言っているのである。まあ適当に付き合ってあげてくださいねというのが言いたいことなんだと思う。