俄 浪速遊侠伝(司馬遼太郎 昭和47年刊)をよむ
これは大衆小説ながら立派な全集の装丁になっていて豪華な気分で読むことができた。江戸末期を舞台に浪速で活躍したという設定になっているがモデルになる人物がいたのかどうかも分からない。遊侠の世界に生きるものが偶然本人の意思と関係なく武士の末端に取り立てられていくというかなり荒唐無稽な物語だからモデルになる人物はいなかったのではないか。昭和40年代に流行った東映の時代劇映画を彷彿させるようなストーリーである。そもそも遊侠の世界に生きる人物がその心掛けをあまりカエルことなくリアルの世界で思いがけない働きをしていくとの設定にはいかに混乱した世の中であっても無理がありすぎる。しかしこの時代(昭和40年代)にはこのようなニヒルな主人公がもてはやされた。そのニヒルな主人公がほんの10年間ぐらいの間で大衆小説から突然いなくなった。これが不思議なところである。
当時は会社なり役所なりに勤めることが当然とされた時代である。それ以外の生き方は当然のように絶対許されないとされていた。それでは仕方ないからまあそれには従っておくが内面は自由に生きたいとする欲望を満たすために、人々はこのような主人公に自己をかさね合わせる必要があったと考えられる。(主人公は心掛けを変えることなく出世していくところに注意が必要だろう。)それがバブルの時代には勤めるとか内面の自由とかはどうでもいい時代(短い時間ではあったが)を経て、今日のどうあがいてもひどく苦しい時代になった。もうニヒルな主人公の出番はなくなってきたと考えられる。ここから考えて、人々は生き方を強制されてそれと自分の内面の葛藤に悩む必要がなくなったか、そんなことを言っている余裕もなくなったかのいずれなのかもしれない。もし前者であれば今のヒトの方が昭和40年代のヒトより幸せであるということになるからそれはおかしいだろう。ならば、後者であろう。昭和40年代の人は会社へ一生奉公させられることへの怒りを薄いながら生涯抱き続けた。だからと言ってこうしたいということも見つからなかった。通勤電車のなかでこの本を読みニヒルなそれでも上手くいく主人公に自分の生涯を重ね合わせてわずかなうっぷん晴らしをしたと考えられる。
だったら現代の大衆小説の主人公は、思わぬ幸運に恵まれ社会の上層に上がっていくわらしべ長者タイプか、独立自営から起業するアップルタイプか、会社の中でうだつが上がらないが何かの拍子に急に仕事しだして出世する三年寝たろうタイプかと思われる。しかし、そのいずれも可能性が薄いので小説の主人公にならないだろう。この本を読みながらここ数十年の間の世の中の変化の速さに改めて驚かされた。
今人々が求めているものはハラスメントのない組織または集団であろう。街ゆく人々の後姿を見ながらそう思うことがある。そのような大衆小説や映画は受け入れられるだろう。または、ハラスメントの少ない組織を運営できれば人々は喜んで働きに来てくれるかもしれない。