映画 サントメール ある被告
ずいぶん重い悲劇であるが、これを見て気分が良くなって帰りの足が軽くなる経験を久しぶりにした。実際に有った事件を取り扱った法廷映画で、よくあるアメリカのものとは根本的に異なる。アメリカの映画は弁護士が大活躍して黒いものでも白くして白くしてやるから金払えという、見ていてムーとするようなのがあるがこれは違う。
ギリシア悲劇を現代風の悲劇に書き換えて観客に見せる。悲劇を見て気分が良くなるのは、「自分より苦しい人がいるのを見てそれより自分は楽だから気が軽くなる」というものではない。どうやら生きている人は皆言葉にできない表現できない苦しみを抱えているようで、それがおそらくお釈迦さんの言う生老病死のうちの生の苦しみに相当するものだと思う。
それがこの悲劇を見ている間にその人の意識に登ってくる(フロイトの言う意識化)ことによって、その人の心が楽になるのであろう。無意識に潜んでいる闇が少しの間だけでも虫干しされるのである。時々虫干ししないと心が重くなって動きが悪くなる。
この現代の悲劇では、周りに対する不満からこういう犯罪を犯したのではなく自分を消し去りたいからではないかという弁護士の弁論が説得力をもつ。(この弁護士は大変な好演である。この場面がこの映画のクライマックスである。)この自分を消し去りたいが「生の苦しみ」というものであろう。わたしは、ヒトが都市の中に住むようになった時にこの「生の苦しみ」に悩まされることになったと思う。昔のギリシアの人は都市に住んでかつ(奴隷制であるから)労働がなかった。他にやることがないのであるから、これではきっと「生の苦しみ」に悩むことになる。
我が国では、鎌倉武士が都市に住んで「生の苦しみ」に悩んだのであろう、お能の中には悲劇が語られている。ついでに音楽も必要であった。見たことないけどギリシア悲劇にも音楽があったと推察される。笛の音に導かれて自らの心のうちにある「生の苦しみ」に到達しそれを虫干しすることによって気持ちを楽にすることをしていたと考えられる。都会に住むと便利だけど、こういうものを見に行かねばいけないといういらざる手間がかかる。
交際せねばならない人間が固定しており、虫や鳥が飛び回り草木がどんどん生えてくる環境では「生の苦しみ」を意識する必要が薄いのはなぜかはまたいつか考えないといけない。
今の日本は自然は失ったが、終身雇用であったから交際せねばならない人間が固定であった。大都会であっても半分だけ都市化されているのである。これから退職金に課税するのであるから本格的に人々が流動化しそうである。日本はこれから本当に都市化されそうである。
これでは日本人で「生の苦しみ」に悩む人は激増しそうである。お能を現代風の題材にしたものを我々は月一回は見に行かねば心がもたないようになるのではないかと密かに恐れている。