小説 新坊ちゃん⑪ 食堂
話は職員旅行以前に戻る。学校の食堂というのはまずくてとても食べられないものであった。よくあんなものを食べて昼からの授業ができると感心する。もっとも教師で食堂を使っているのは、わたしを含んで二、三人であった。校門のすぐそばには普通の飯屋があってお値段はあんまり変わらない。そこへ行きたいのだが、ご飯時は黒田またはその手下が校門で生徒が外出しないか見張っている。こいつらにあいさつすれば外の御飯屋にいけるんだが、アンマリ関わり合いになりたくないので(この人相はわたしの大ばあちゃんの話では付き合ってはいけない第一の人物である。)我慢して学校の食堂で済ますことが多かった。これでは牢屋の中に入っているのと変わらない。そして高い金を払ってまずい飯を強制されている。自分たちは給料を貰って牢屋の中のヒトになっているんだから自業自得みたいなもんだが、生徒は授業料を払って牢屋の中に入るのであるから気の毒極まりないことになっている。
ある日、校長に廊下ですれ違いざまになにか困ったことありませんかと聞かれたから、あんなまずいもの食って昼からの授業は出来かねる、生徒もあれじゃ勉強する気にならないだろうということをもっと丁寧な言葉で答えておいた。校長は困惑した顔であったが何も言わなかったので、これはいずれ改善されるとお人好しにもその時は期待していた。わたしのお人好しは治らない病である。
次の日の朝出勤すると授業の前にキツネ目がやってきて、あんた食堂の御飯に不満なんかと怖い顔して聞いてきたのであれはちょっと不味すぎるあれでは昼の授業に差し障ると答えた。キツネ目は何も言わずに立ち去った。校長は早速他人の困りごとを他のヒトに喋ったようだ。ここは管理職が率先して密告をするところか。ここでは何もしゃべらないでおかねば生きていけないのか。
キツネ目との会話をよこで聞いていた村田先生が、
「あなたは知らないでしょうが生徒指導部は、食堂も管轄しているんです。生徒指導部のやってることを批判することになりますから以後気を付けたほうがいいですよ。」
と穏やかな口調で忠告する。村田先生には、はいとだけ答えておいたが不承である。黒田だって四十そこそこである、わたしとそんなに給料が違うわけでもあるまい。なんでまずいものをまずいと言っていけないのか。それに生徒指導部を批判したらひどい目に会うとは生徒指導部とは秘密警察みたいなものなのか。
その日の晩、土谷君に電話して今日あったことを話した。彼の答えは驚くことに黒田は、食堂から不正なおカネをとっているという話である。なるほどそれで分かった。昼食時に生徒を外に出さないように見張っているかがである。見張っておれば生徒は已むをえず食堂で食べざるを得ない。食堂は儲けが出る。黒田一派は見張り賃を食堂から受け取っているに違いない。その金を黒田は多分手下に一杯飲ませて親分風を吹かせるのに使っているんだろう。土谷君によるとさらに制服販売やアルバム販売さらには運動用具の納入業者からもカネをせしめているという噂である。道理であんなペラペラの安物の制服が五万円もするはずである。それで黒田一派が生徒に大声で生徒に制服の着用を強制する理由も分かった。制服は黒田の儲けの一部になっている。
当時ソビエトはまだ隆々と栄えていた時代である。ソビエトの中と同じようなことが学校の中で行われていたに相違ない。ソビエトの食堂もまずいという噂であった。わたしはいよいよ辞める決心を固めた。これではわたし自身も黒田一派の栄養分になってしまうではないか。世の中はこんな風になっているのかと初めて現実を見た。予備校の時は、わたしが理事長の栄養分になっていることは承知の上であった。しかしわたし一人ではできかねるような校舎を建て生徒募集の広告を打ち職員を集めテキパキ働くようにしむけるには相当の努力がいる。わたしはそこに乗っからせてもらって結構な給料(実際は講演料という名目である)を頂いた。その対価に理事長が高給を食むのは何ら問題がない。しかし門番をやって門番の手数料を食堂から召し上げるのは良いことなのか。食堂も必死であるから提供する物を不味くしてでも門番代を払うのであろう。
さらに次の日、村田先生に昨日土谷君から聞いた内容の話をして本当なんですかと尋ねると、上品な表情は変えないままであったが真剣な面持ちで
「うーんもっともっと複雑なんです。とても手を付けられない問題なんです。これに首を突っ込むことはやめておいた方が身のためです。」
と教えてくれた。
いらざることに首を突っ込むのは時間と手間の無駄であろうが辞める前にあいつらを滅茶苦茶にしてやろうと考えた。しかし世間というのは思った以上に悪辣な人間の幅を利かすところである。わたしの力の及ばぬところであることをその数か月後に思い知ることになるのである。それに、結局はわたしは意気地のない人間である辞めることさえなかなか決断はついているが行動を起こす勇気がない、この状態は大変苦しい。
むかし将棋や麻雀をするときに相手が悪いヒトかどうかは考えないで済んだ。または勉強をするとき教えてくれる人は悪人でないに決まっている。今は相手が悪いヒトかどうかまず考えねばいけなくなっている。昔が懐かしい。