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本の感想

本の感想など

映画 リトルマーメイド

2023-07-16 19:30:58 | 日記

映画 リトルマーメイド

 北欧の童話はアンデルセンにしてもグリムにしてもなぜあんなに残酷なのかを見ながら考えようと見に行った。日本昔話も残酷なのがあるが、北欧とは比較にならない。昔それについて書いてある新書を見つけたが買いそびれてそれ以降気になっているので自分で考えてみようとした。

 わたしの結論はこうである。

 北欧の童話が残酷なのは、苛烈な面のある家父長制(キリスト教がそれを補強した)が理由でありわが国の童話がそうでもないのは南方の妻問い婚の影響を日本文化が(東日本でさえ)持っているせいではないかと思う。その代わり日本では村のなかで皆に気を遣わねばならない、自分だけガメツク蓄財してはならない。それゆえがめつい爺さんや婆さんがえらい目に会っていい爺さん婆さんが良い目にあうというストーリーになっているではないか。

 北欧の家長が何でも決める制度では、嫁に行った女性は嫁姑問題を抱える。それが白雪姫でもシンデレラでも今回の人魚姫でも露骨に表現されている。日本でも嫁入りは問題を引き起こしたはずであるが、北欧ほどの厳格さを持たなかったのではないか。ここから類推してグリム童話では子供がえらい目に会うのと魔女が出てくるのが多い。ドイツには、子供を虐待とまではいかずとも可愛がらない文化があるのではないか。それからドイツの森林には魔女または魔女相当のものが居たと考えられる。どうも昔の北欧ドイツは住みにくい場所の様な気がする。

 ところでサルカニ合戦はインドネシアの童話らしいが、えらい目に会う者が居ない。のんびりしていていい感じである。南方は暑くてたまらないが、モノなりが豊かで競争する必要が薄いのでそこに住むものはいい人生であったような気がする。

 モノなりが豊かで競争が無いと娘のもとに男が通って、できた子供は娘とその親が育てるようになるのがごく普通のことだろう。嫁姑問題は起こり様がないし、娘も自分の恋愛にさほど真剣にならなくて済む。数が等しいから順番は廻ってくるであろう。家の前で男が歌を歌うのだそうである。なんだか鶯鳥の求愛みたいである。光源氏も鶯と同じである。

 北欧では環境が厳しく厳格な家父長制をとらざるを得なかったため、特に女の子の人生が捻じ曲げられるようなことが起きたのでそれを反映して童話が残酷になったというのが私の結論である。厳しい環境下での家父長制度は、本来の人間性に反するところがあるが社会全体としては競争力ありなのでその後世界を席巻して現在に至るとみられる。競争が必要なくなったらいつまでも本来の人間性に反する制度はやめにすればいかがか。

 お話かわって、古代ギリシャは現代みたいな家族制ではなかったとみられる。妻問い婚とまではいかずとも女性の力が普通に強かったとみられる。ソクラテスの妻クサンチッペは大変な悪妻とされているが当時のギリシャの社会では、妻の旦那に対する悪い評価を口にしてもそれは当然とされていたのではないのか。この映画を見ながらクサンチッペは一方的な悪妻評価は些か気の毒な気がしてきた。

 

 さてこの映画は予想以上のデジタルアートが使われていて、どこまでが描いた絵でどこからがデジタルアートかは観客は判断がつきかねる。いつぞや見たチャンイーモウの中国映画をはるかに凌駕するデジタルアートが使われている。米中対決はこの二つの映画だけで判断してはいけないとは思うが今のところ映画に関しては米国の勝ちであるとせざるを得ない。これだけの数のデジタルアーティストを使いこなすのは至難の業であろうがディズニーはちゃんとできている。これを金融などに応用すれば巨大な富の創造が出来そうである。最近銀行が破たんしたので、米国の衰退が云々されているがこれを見る限りでは米国はなお隆々と栄えるであろう。

 

 映画ではもちろん子供向けだからハーピーエンドになるようになっている(実際の童話とは真逆に)のだけど、女の子の父親に対する思いが反映されている。それがお涙頂戴というように見えるんだけど、わたしはアメリカでは自分の父親に会えないまたは知らない子がかなりの数いる、その子たちに対するサービスのつもりでこのハッピーエンドを創作したように見える。日本の女の子にとってはなんのことはない場面であるがアメリカの女の子にとっては一瞬でも淋しさを忘れる場面であろう。このあたりのシナリオもよくできている。

 全編オペラみたいなものであるから音響効果の高い映画館で鑑賞することが良いと思う。これはテレビで放映されてもテレビで見てはならない。音楽に値打ちのある映画である。値打ちのない見方をしては見る時間の無駄になる。

ディズニーランドは行ったことがないけど大人も楽しいらしい。映画ももちろん同じである。

 

 


小説 新坊ちゃん 終章 それから

2023-07-16 09:55:40 | 日記

小説 新坊ちゃん 終章 それから

 やめたあとは、途方に暮れた。年収二百数十万でも無いとひどく困る。やむを得ず実家の近くに場所を借りて、占い屋を始めたところ、母親はいい顔をしなかったがまずまずの客入りで何とか口に糊することができた。入試前日の夜半に見た人相と手相を描いた大きな白い布と全く同じものを左右に掛けて、いかにも由緒ありげな小屋を建てた。この仕事は資格が要らない。ただしいかにもあたりそうという雰囲気がいる。あの布と全く同じものを今ならネットで売っているだろうが開業当時は手に入れるのに苦労した。看板みたいなもんだからあれは無しという訳に行かない。

 いろんな人の悩みを聞くとわたしよりもっとすごい苦しみの中を生きている人が一杯いる。わたしも卦辞を読むときになるたけ難しそうな漢字だらけの本にして、本の中身は読まないで読んでいるふりだけであるが、どう答えればこの人の気分を軽くすることができるかを日々考えている。決して楽な仕事ではない。

時々は、敵情視察も兼ねて他の占い屋さんの門をたたくこともある。この人は駄目とかこの人は伸びるだろうとかいうランク表を作っているが同業者のことでもあるのでまさか発表するわけにはいかない。

 人生至る所青山ありというのは本当である。その後逼塞していたわたしにも縁談を持ってくる人がいて今度は本当のビルオーナーの家のお嬢さんであった。月四万円とかいうのではない。紆余曲折はあったが何とか結婚して今はたくさんあるビル管理の手伝いと趣味の占い屋をやっている。

岳父はなかなかシブチンな人でわたしの給料は極めて低いがいずれはわたしが丸儲けさせてもらえそうであるからあと少しの辛抱である。わたしは自分のことを占って「いずれ丸儲け」の卦を得てひとりニヤニヤしている。わたしはほとんど入り婿同然であるが、幸いにも布団と湯飲みを玄関から放り出されるメにはまだあっていないし、近い将来起こりそうな気配もない。

予備校からはついに採用がなかった。そのうち受験産業全体が傾いてきて規模を縮小しだしたので予備校へ行くことはあきらめざるを得ない。栄枯盛衰はどんな世界にもあることである。もし、あの時予備校を辞めなければ、この受験産業の衰退にお付き合いしてちょっと苦しいことになったかもしれないことを思うと、案外わたしは運のいい人間であったのかもしれない。

お話変わって「運」のことであるが、運という字に「しんにょう」がついているのは当然である。「しんにょう」は土煙を表象している。土煙をたてて運が向かってきてまた土煙をたてて去っていくのである。運を頂いた時はそれを大事にし、去ったときは追いかけないで次の運が巡ってくるように「運を呼び込む生き方」をするのが宜しいですとお客さんにお話ししている。みなこれで納得してくれる。それは わたしが自分自身にも語り掛けている言葉にもなっている。

 占い屋は世相の移り変わりとそれでも動かぬ人情を如実に見ることのできる仕事である。むかし、吉田兼好という人は、朝廷の占い専門の中下級の公卿で、同僚貴族の占いをするものだから人間観察の機会に恵まれていてそれをもとに「徒然草」を草した。(この人権力の中枢に居なかったこと鴨長明紫式部清少納言に同じである。文筆家で権力の中枢に居たのはわずかに鴎外チャーチルくらいか。)

それに習ってわたしも「新徒然草」を少しずつ書いているところである。わたしも権力の中枢に居なかった。しかし権力闘争の周辺にいてそれを観察しそば杖もしたたかに喰らってしまった。ペンネームを吉田にするのはいくら何でも厚かましすぎるから、兼好法師の先祖の苗字「卜部」をそのまま頂いて「卜部兼一」としている。

 最近夕刊に黒田がどんな事件を起こしたのかは分からないのだが、傷害罪で懲役三年の実刑判決という豆記事を見た時は本当に嬉しかった。

中国の偉い人の言葉「天網恢恢疎にして漏らさず」というのは実にいい言葉である。思うに中国の偉い人の言葉はこうあるべきだという理想を述べるのと、放っておいてもこうなるという自然現象を述べるのとがある。理想を述べる言葉には特に注意すべきである、その通りしようとしてできるもんではない。しかし自然現象は待っていれば自然にそうなるから待っているだけでいい。そうして本当にそうなるのである。

 この記事は拡大コピーをして土谷君におくってあげたんだが、彼からはその後どこから聞いたのか電話で二人の消息を知らせてくれた。それによると油爺は、宴会で乾杯の音頭をとって一杯飲んだとたんに卒中をおこしてそのまま身罷ったらしい。(ついでにその宴会は始まったとたんにお開きになったので会計担当者が大慌てしたという話である。)あれだけのことをした割には幸せというべきである。キツネ目は退職後、なぜ貧窮したかは分からないのだが貧窮のうちに亡くなったという。これを聞いてわたしは溜飲がわずかに下がった。あの苦しかった時代がやっと終わったのである。

油爺の話を聞いた時は「天道是か非か」というコトバを思い出したが、黒田とキツネ目の話を聞いた時は「天罰は必ず下る」というコトバを思い出した。できればもっと早くに天罰を下してほしいと切に願うものである。なぜ年収二百数十万もらうだけであれだけ苦しいのか。職場はもっと安全な場所であるべきだというのがわたしの主張である。

最近、水色のワンピースを召された女性を電車の中で見て昔の木曽先生を思い出した。わたしとお話した唯一の時の服装と同じ色であったので突然思い出した。それによって懐かしさのあまりこのような思い出の文をながながと草してしまった。

 

あとがき

 再び書くがこれは完全なフィクションである。どこにも似たような事件似たようなヒトすらいないのである。

決して昔の新聞を読み返すなどということをしてはならない。

それでもわたしは、今でも明るい水色のワンピースを見るたびにドキとすることがある。

組織を管理する人々にお願いしたい。他人の名誉をどうかもう少し守るようにしていただきたい。自分さえよければというのはやめてもらいたい。最近は組織管理の方法も変わってきたと聞くが、まだまだ類似のことがないかどうかを心配している。

マスコミは嘘はつかない、しかし大事な背景を語らない。意識的ならいけないことである。知らないでするなら無能ということである。それがあの日の夜見たテレビの報道から受けたわたしの印象である。