映画 リトルマーメイド
北欧の童話はアンデルセンにしてもグリムにしてもなぜあんなに残酷なのかを見ながら考えようと見に行った。日本昔話も残酷なのがあるが、北欧とは比較にならない。昔それについて書いてある新書を見つけたが買いそびれてそれ以降気になっているので自分で考えてみようとした。
わたしの結論はこうである。
北欧の童話が残酷なのは、苛烈な面のある家父長制(キリスト教がそれを補強した)が理由でありわが国の童話がそうでもないのは南方の妻問い婚の影響を日本文化が(東日本でさえ)持っているせいではないかと思う。その代わり日本では村のなかで皆に気を遣わねばならない、自分だけガメツク蓄財してはならない。それゆえがめつい爺さんや婆さんがえらい目に会っていい爺さん婆さんが良い目にあうというストーリーになっているではないか。
北欧の家長が何でも決める制度では、嫁に行った女性は嫁姑問題を抱える。それが白雪姫でもシンデレラでも今回の人魚姫でも露骨に表現されている。日本でも嫁入りは問題を引き起こしたはずであるが、北欧ほどの厳格さを持たなかったのではないか。ここから類推してグリム童話では子供がえらい目に会うのと魔女が出てくるのが多い。ドイツには、子供を虐待とまではいかずとも可愛がらない文化があるのではないか。それからドイツの森林には魔女または魔女相当のものが居たと考えられる。どうも昔の北欧ドイツは住みにくい場所の様な気がする。
ところでサルカニ合戦はインドネシアの童話らしいが、えらい目に会う者が居ない。のんびりしていていい感じである。南方は暑くてたまらないが、モノなりが豊かで競争する必要が薄いのでそこに住むものはいい人生であったような気がする。
モノなりが豊かで競争が無いと娘のもとに男が通って、できた子供は娘とその親が育てるようになるのがごく普通のことだろう。嫁姑問題は起こり様がないし、娘も自分の恋愛にさほど真剣にならなくて済む。数が等しいから順番は廻ってくるであろう。家の前で男が歌を歌うのだそうである。なんだか鶯鳥の求愛みたいである。光源氏も鶯と同じである。
北欧では環境が厳しく厳格な家父長制をとらざるを得なかったため、特に女の子の人生が捻じ曲げられるようなことが起きたのでそれを反映して童話が残酷になったというのが私の結論である。厳しい環境下での家父長制度は、本来の人間性に反するところがあるが社会全体としては競争力ありなのでその後世界を席巻して現在に至るとみられる。競争が必要なくなったらいつまでも本来の人間性に反する制度はやめにすればいかがか。
お話かわって、古代ギリシャは現代みたいな家族制ではなかったとみられる。妻問い婚とまではいかずとも女性の力が普通に強かったとみられる。ソクラテスの妻クサンチッペは大変な悪妻とされているが当時のギリシャの社会では、妻の旦那に対する悪い評価を口にしてもそれは当然とされていたのではないのか。この映画を見ながらクサンチッペは一方的な悪妻評価は些か気の毒な気がしてきた。
さてこの映画は予想以上のデジタルアートが使われていて、どこまでが描いた絵でどこからがデジタルアートかは観客は判断がつきかねる。いつぞや見たチャンイーモウの中国映画をはるかに凌駕するデジタルアートが使われている。米中対決はこの二つの映画だけで判断してはいけないとは思うが今のところ映画に関しては米国の勝ちであるとせざるを得ない。これだけの数のデジタルアーティストを使いこなすのは至難の業であろうがディズニーはちゃんとできている。これを金融などに応用すれば巨大な富の創造が出来そうである。最近銀行が破たんしたので、米国の衰退が云々されているがこれを見る限りでは米国はなお隆々と栄えるであろう。
映画ではもちろん子供向けだからハーピーエンドになるようになっている(実際の童話とは真逆に)のだけど、女の子の父親に対する思いが反映されている。それがお涙頂戴というように見えるんだけど、わたしはアメリカでは自分の父親に会えないまたは知らない子がかなりの数いる、その子たちに対するサービスのつもりでこのハッピーエンドを創作したように見える。日本の女の子にとってはなんのことはない場面であるがアメリカの女の子にとっては一瞬でも淋しさを忘れる場面であろう。このあたりのシナリオもよくできている。
全編オペラみたいなものであるから音響効果の高い映画館で鑑賞することが良いと思う。これはテレビで放映されてもテレビで見てはならない。音楽に値打ちのある映画である。値打ちのない見方をしては見る時間の無駄になる。
ディズニーランドは行ったことがないけど大人も楽しいらしい。映画ももちろん同じである。