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都立上水高校 第1期社会科部OB・OG会公式ブログ

第1期社会科部は平成21年3月12日消滅。本ブログは現在活動中の新生「社会科部」様や都立上水高校とは一切関係ありません。

新部活動社会科

2006年05月18日 21時51分26秒 | Weblog
画像は同好会時代のバナー(今までの苦労は無にしません)

 3年次の皆さん、これまでの活動ご苦労様でした。
さて、活動の主権が2年次渡りはや2週間が経ちました。
来週の前半は定期考査のため、水曜日より本格的に始動していきます。
初代部長(構成員C)は右も左も分からぬままに部長という大役を引き受けていただいたので、我々ベテラン?勢がそのアシストをしていきます。
ただ、昨年までの主要メンバーは、ほぼ現3年次であり、その3年次が事実上の引退(実際に引退されてしまったら、同好会に逆戻り…。)をしてしまった今、我々2年次がどれだけ活躍できるかが社会科部の運命を握っています。
 これからもこの社会科部に大いなる声援をお願い申し上げます。
                                (おわり)
                         著者:元研究関連担当代表

PS.これまで毎日更新をしておりましたが、構成員多忙のため、更新頻度は控えめにさせていただきます。
頻度は落ちますが、社会科部クオリティーは維持いたしますので、これからもご愛読の程をよろしくお願い申し上げます。

社会科部昇格記念祝賀会・式典を開催!

2006年05月14日 17時09分59秒 | Weblog
 平成18年5月11日(木)放課後、「社会科部昇格記念式典」兼「3年生勇退記念セレモニー」兼「1年生歓迎記念祝賀会」兼「社会科部昇格記念祝賀会」を実施しました。
 当日は部員8名(4名欠席)と顧問、又、昨年の高文祭や上水祭でお世話になった放送部部長ら来賓3名が参加しました。
 式典と祝賀会は4時25分より同時並行で行われ、顧問による乾杯の音頭のあと、社会科部部長のあいさつや勇退する3年生のあいさつ、さらに来賓の方々からご挨拶を頂きました。多少の脚色は混じっているでしょうが、どの方の挨拶も素晴らしいものでした。
 そして、顧問よりご挨拶を頂きました。3年生の活動の成果や部を取り巻く現在の状況について話された後、「これまでの良い部分を活かしつつ、それにとらわれることなく活動をして行こう。」と1・2年生の方々を鼓舞されるなど、非常に感動する内容でありました。
 そして最後に、顧問の音頭のもと三本締めを行い、一次会は終了しました。

 5時ごろより、二次会(ゲーム大会)が行われました。12人が参加してウノを行いました。大変白熱しましたが、人数が多すぎて1回戦うだけで20~30分かかってしまいました。

上水カラー「グリーングリーン」

 こうして午後6時、大盛況の中祝賀会は終了しました。(執筆:元三代目会長)

社会科部に栄光あれ

2006年05月10日 15時22分49秒 | Weblog
 先日就任された初代部長(旧同好会のT会長に続き、かなり優秀な人です。)のブログ書き込みにもあったように、部長はまだ入部してから1ヶ月ぐらいしか経っていません。通常であれば、年功序列式で部長などが選出されるのでしょうが、社会科部は能力・人脈などがあれば、在籍年数に関係なく部長を投票で選出するような空気があります。はっきり言ってしまえば、『自由主義』が社会科部のことを良く表す言葉だと思います。それ故、上水高校の中では異彩を放っていることと思いますが、むしろ上水高校内で堂々と『自由主義』を貫くことは尊いことだと思います。
 私は旧社会科同好会の設立当時から、この団体に参加していたので社会科部から引退することは、かなりの寂しさを感じざるを得ないのですが、2年次部員がかなり優秀なので、安心して社会科部を任せることが出来ます。
 これからは、たまにぷらっと活動場所に寄るのがせいぜいだとは思いますが、その時はよろしくお願いしますよ。執筆:元渉外担当代表
 ※「第二生徒部になった生徒会」は、後日お送りいたします。

構成員Cの呟き

2006年05月08日 01時13分06秒 | お知らせ
 初代会長様お疲れ様でした。現任ブログに関しては私、構成員C及び5月11日発令の正式な人事により決定しようかと思考中

 皆さん始めまして、初代部長に就任致しました構成員Cと申します
>>〔経歴〕なし(平成18年4月入部のため)
をご覧の通りなのですが4月に入部しました為右も左も分からず毎日を奮闘中の最中・・・。これからが活躍の場、及び発展の場と考えておりますので以後どうぞ宜しくお願い致します。

注:画像はランダムにて
 

(執筆:構成員C<この響き気に入りました>)

ご愛読ありがとうございました

2006年05月07日 22時52分14秒 | お知らせ
 5月1日まで社会科同好会の会長を努めておりました、元三代目会長です。おかげさまで本ブログも7ヶ月目を迎えようとしており、たくさんの方々のご愛読ありがとうございます。
 さて、私はこの4月に3年生となり、来る大学入試のために徐々に社会科部の活動から手を引いて参りました。1日には会長を辞任し、本日でゴールデンウィークが終わります。そこでこれを機に、本日をもって私はブログ更新の第一線から身を引くことにしました。
 社会科部では退部届が出ない限り、卒業まで部員としての籍を有することになっていますので「引退」という言葉は適切ではありませんが、私は11日(木)の社会科部昇格記念式典をもって「事実上の引退」をするつもりです。こうした事情から、今後は私が積極的にブログ更新を行う機会は少なくなります。それでも当面は、休日などに時々ブログ更新をお手伝いしようと考えていますので、私の記事を含め、本公式ブログの引き続きのご愛読のほど、どうか宜しくお願い申し上げます。(執筆:元三代目会長)

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 最終回(第16回)

2006年05月06日 22時48分28秒 | 【連載】横浜をゆく
波乱の旅終了す
先ほどから気になっていたのだが、海岸通を挟んだ向かい側にある建物は、謎の音楽をずっと流していた。「貿易会館スカンディア」からであろうか。周囲の人たちに迷惑のような気がするが・・・。
ともかく私どもは、開港資料館前交差点から日本大通を進んだ。日本大通はここから横浜公園までの約400メートルほどしかないが、横幅はかなり広い。解説板によると、慶応2年(1866年)10月20日、横浜で日本人街の3分の2、居留地の4分の1を焼失する火事があり、そのため日本人街と居留地に区画整理し、その真ん中に延焼を防ぐための大きな通りをつくることになったという。鉄の橋(吉田橋)を設計したブラントンによって設計され、1872年に日本大通が誕生したそうだ。
キングの塔・神奈川県庁前を通り、横浜港郵便局前交差点を渡って3時46分頃に日本新聞博物館の入口に到着した。ここで解散することになり、顧問などのお話の後、3時47分に解散した。

私どもは全員、みなとみらい線を利用するため、地下深いホームへ向かい、3時55分発『急行・渋谷行』に乗車した。渉外担当・全権代行・研究関連担当は横浜で、顧問は武蔵小杉で降車し、私は終点・渋谷まで向かった。
このようにして、平成17年度の特別研修旅行はすべて終了した。<完>

 ご愛読ありがとうございました。今回で「横浜をゆく」は終了です。今後とも、公式ブログのご愛読のほど、お願いします。(執筆:元三代会長<今後、私の署名はこのように表記します>)

初代部長が就任!

2006年05月05日 22時32分08秒 | お知らせ
 平成18年5月1日(月)、旧社会科同好会の社会科部昇格とともに、同好会三代目会長が任期途中で辞任しました。
 これにより、「第1回部長選出選挙」が実施されました。結果は次の通りです。

<選挙結果>(有権者数:12名、投票者数:10名、欠席:2名)
 構成員C(2年男子):7票
  〔経歴〕なし(平成18年4月入部のため)
 研究関連担当代表(2年男子):3票 
  〔経歴〕現・特別研修旅行事業担当者会代表、同副代表、新年度活動検討事業担当者会代表、広報事業担当者会副代表 元・総合統轄担当副代表 ほか
  
 任期は平成18年10月12日までです。
 尚、大会則の規定により人事は次の通りになっています。
  代表部:会長全権代行・研究関連担当代表・出納担当代表
      渉外担当代表すべて会長が臨時代行
  事業担当者会:すべて変更なし

 代表部の正式発足と各事業担当者会の正式な人事は、5月11日発令の予定です。(執筆:広報事業担当者会) 

第二生徒部になった生徒会2

2006年05月04日 21時36分49秒 | Weblog
 先日、上水高校で行われた『生徒総会』の中で、いまいちピリッとしない生徒会役員達と対照的に元気だったのが文化祭実行委員会の委員長でした。
 委員長は今年の活動方針説明の場面で、もし学校側が今年も文化祭に対して多くの規制をかけるようとするのであれば、それに対して生徒が納得のいくような説明を求めると説明しました。この委員長の発言に対しては、私を含めて生徒達も感嘆を隠しきれませんでした。さすが文化祭実行委員長になるだけはあって、腹の括り方が違います。
 そもそも、生徒会役員の中には『推薦入試』でポイントになるという理由で立候補する不逞の輩がたまにいます。そんな輩は先ず100%の確立で学校側に対して意見を言うようなことはしませんし、学校長の顔色を損ねたらそれこそ一大事です。
 話はそれましたが、文化祭実行委員長の発言に呼応したような形で、3年次のある生徒がマイクの前に立ちました。
 その生徒は、マイクの前に立ちますとマイクの向きを生徒会役員の方向ではなく、体育館の後方で見守る先生方の方向に向けました。
 すると、その生徒は先生方に直接訴えるかのように発言をし始めました。
 発言の内容としては、自分達3年次の生徒は1年次のころから、文化祭に関して様々な理由で規制をかけられ、『飲食店・模擬店』などの出店をすることが出来なかった。今年は自分達は受験があるので、練習等が大変なクラス劇・ダンスなどだけを文化祭でやらせるのではなく、比較的に負担の軽い『飲食店・模擬店』も許可してほしい。生徒の発言は以上のようなものでした。
 私の考えでは確かに過去2年間、私達生徒は文化祭において『飲食店・模擬店』が一切許可されないので、クラス単位で劇・ダンスを強制的にやらされることが多かったのです。これではまるで、私達は北朝鮮の如く学校側に対しての『喜び組』とならざるを得ませんでした。(つづく) 執筆:旧社会科同好会渉外担当代表

第二生徒部になった生徒会1

2006年05月03日 21時45分38秒 | Weblog
 去る5月1日、世間で言うところの『メーデー』でありますが、上水高校では年に1度の『生徒総会』が行われました。今年の生徒総会では、社会科同好会が社会科部へ昇格することが承認され、めでたく上水高校社会科部になることが出来ました。社会科同好会の活動に対して、皆さんのご理解を賜ったことを大変感謝いたします。
 その『生徒総会』での議論は過去2年間のものとは違い、かなり踏み込んだ内容となりました。生徒会役員の人達が、生徒会意見箱に寄せられた各種要望に対しての回答が壇上で行われました。
 
 ※※再現(要約)※※ 『A.』は生徒会役員の発言
 Q.ポロシャツの着用(学校での)を可能にしてください。
 A.現状では無理です。着用を認めると服装が乱れる可能性もあります
 
 他にも様々な意見が意見箱に寄せられていたようですが、それらに対する答えは「無理です。」「規則によりますと・・・。」などといったような、まるで生徒部(いわゆる生徒指導部)の代理人のような回答が行われていました。
 生徒会役員による回答の後は、回答に対する質疑応答でした。

 ※※再現(記憶が曖昧ですが要約)※※
 Q.ポロシャツのほうが様々な面でメリットが多いのでは・・・?
 A.やはり、着用を認めると服装が華美になる恐れがあります。

 Q.華美かどうかはどのように判断するのか。基準が無い。
 A.基準は無いので各自で考えてください。

 Q.関係ないのだが、部活のときはジャージ登校を認めてほしい。
 A.むりです。

 実際はこんなにも単刀直入な言い方ではなく、いろいろと前置きをした上での回答でした。しかし、このような回答をしていたのでは、とても生徒の利益を守るどころではありません。
 私としてはここで一言発言しなくて、社会科部員としての本領は果たせないなと思い、挙手をした後にマイクの前に立ちました。

 ※※再現(記憶が曖昧ですが要約)※※
 私の発言.先ほどから、「無理です。」とか「規則の問題で出来ません。」とか言っていますが、はじめからそのようにあきらめるのではなく、可能性は低くても何らかの行動をして、例えば校長室にかち込むぐらいの勢いが必要なのではないでしょうか。
 A.話し合った末の回答です。

 何となくつれない回答です。その後の展開については続編をご覧ください。(つづく)  執筆:旧社会科同好会渉外担当代表

 

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 第15回

2006年05月03日 21時36分35秒 | 【連載】横浜をゆく
横浜開港資料館
外に出て階段を下りると、門が閉められていて私どもは拘束されるのではないか、と危惧されたが、手で簡単に開けられたので、風などによるものだったと見られる。
シルク博物館の前の開港広場交差点には「史跡 英一番館跡」の碑があったが、その後ろにはこれまたセクシーな像が建っていた。芸術というのは悩ましい。
さて、大桟橋通を渡ると開港広場である(2時53分)。ここは日米和親条約締結の地で、そのモニュメントは何故か地球をかたどった球状であった。

私どもはその隣にある横浜開港資料館に向かい、2時54分に8分早く到着した。まず中庭に至ったが、そこには玉楠の木(たまくすのき)という木があった。これは教科書にも載っている、1854年のペリーの横浜上陸時に随行画家・ハイネが描いた絵の一番右側にある木であるそうだ。関東大震災で焼失したが、その根から再び芽が出て今の姿になったという。すごいなア(博物館のパンフレットの表現のまね)。

さて私どもは建物内に入り、チケットを購入して常設展示室に入った。しかし、そのあまりの狭さに私は驚いてしまった。後に顧問がおっしゃっていたが、10年ほど前に来た時から、展示内容も全く変わっていないそうである。本日のはじめに訪れた横浜税関資料展示室と日本新聞博物館は新しく、きれいであったが、後の方になるにつれて規模・きれいさのグレードが落ちてきてしまった。しかし、展示内容はかなり面白かった。どこかで見たことのある有名なものもあった。だが、やたら複製品が多かったのは残念であった。
興味を持ったのは、咸臨丸(かんりんまる)についての展示である。1857年につくられた625トンの船で、1860年に勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎らによって日本初の自力太平洋横断を果たしたことで有名だが、その後は小笠原諸島の測量や北海道開拓使の物資運搬に使われ、1870年に北海道沖で難破したそうだ。なんだが、寂しいものを感じた。尚、見学中の2時58分、顧問よりWBC決勝が終了したことが伝えられた。
2階は横浜の街についての展示であった。今日一日、横浜市中区内のいたるところを訪れたのでなかなかなじみが感じられた。横浜ステーションや鉄(かね)の橋などの模型もあった。鉄(かね)の橋は朝訪れた吉田橋のことで、1869年に英国人技師・ブラントンによって木製から鉄製に変えられた。長崎のくろがね橋に次いで、日本で2番目の鉄橋だそうだ。
この後、企画展「創業の時代を生きた人びと」展を見た後、1階の受付脇のミュージアムショップへ行った。色々な書籍があったが、常設展の図録はなく、顧問は小中学生向きの「横浜のあゆみ 改訂版」(815円)を購入なさっていた。
中庭を出ると渉外担当と全権代行がおられ、旧館の記念ホールをすぐ見た。その途中には「喫茶室ペリー」と書かれた案内板があり、顧問は「ふざけたネーミングですね~。」と渉外担当とともに失笑していた。

3時40分、14分早く出発した。(つづく)(執筆:会長)

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 第14回

2006年05月02日 21時24分44秒 | 【連載】横浜をゆく
横浜中華街④ ~観光~(2)
結局崎陽軒のシュウマイはなく、再び歩いて「重慶飯店(じゅうけいはんてん)第二売店」に入った。この店には色々な月餅が売っていて、非常に驚いた。月餅って、こんなにバリエーションがあるのか~。しかし、シュウマイは重慶シュウマイというものしかなかったため、店を出た。すると、およそ2軒先に「崎陽軒」の店自体が見つかった!「崎陽軒」の文字が金色ででかでかとあり、な~んだと思いながらも安堵した。

研究関連担当のみがそこに行き、顧問は奥さんからおもしろい食べ物を買ってこいと連絡があったそうで、再び「重慶飯店」へ買いに行かれた。
こうして買い物を終え、2時7分に出発した。途中で顧問はサクラソフトクリームを買われ、再び歩いて「China Town80」というインフォメーションセンターに着いた。ここは横浜中華街の様々なパンフレットがあったのでそれを頂き、2時12分に東門である朝陽門をくぐって中華街とお別れした。予定より5分早かった。

シルク博物館
本町通などを越え、2時15分、山下公園中央口交差点に着いた。私どもはそこから山下公園通を北西に進み、山下公園には入らなかった。顧問が「カップルだらけでしょう。」というように、公園内はすごい数のそういう人だらけだったからである。
山下公園通を歩きながら顧問は、次に訪れるシルク博物館に行くのは始めてである、とおっしゃっていた。横浜には何度も来ていて、10年程前には前々任校の遠足のコースに入っていたが、顧問は別の所にいったため訪れられなかったとのことである。
さて、シルク博物館の前に着いた。入口は2階部分のようで、外の階段を登っていた。ひっそりとしていて、やっていないのではないかと思われたが、開館しており2時23分に中へ入った(7分早い)。

受付でチケットを買い、早速見学した。「絹と生活ゾーン」では私どもの生活の中で身近な絹製品が展示されていて、布団や衣料だけでなく食べ物もあって驚いた。又、武蔵村山市の伝統工芸である「村山大島袖」の服もあり、思いがけない出会いであった。さらに、「絹ができるまで」ゾーンでは蚕から絹ができるまでの過程が展示されてある。蚕が吐き出す糸の直径は0・02ミリで、1粒の繭から1300メートルの糸がとれるという。とてもロングである。
その後、「絹のあゆみ」ゾーンということで、世界と、そして上の階に日本の民族衣装・風俗衣装が展示されてあって、2時40分頃に鑑賞が終了した。
個人的な感想だが、あまり面白くはなかった。衣装に興味がある人には面白いのかもしれないが、これで入館料が大人・500円、高大学生・200円は高いと思う。顧問も「大して面白く無かったですね。」とおっしゃっていて、見学者も私どもの他はまばらであったのも自然であろう。
休憩した後、予定より11分早い2時49分に出発した。(つづく)(執筆:会長)

社会科部昇格!! ご声援ありがとうございました

2006年05月01日 15時31分06秒 | お知らせ
 本日午後、本校第5回生徒総会がおこなわれました。
 皆様のご声援・ご協力に支えられ、午後1時49分、社会科同好会は「社会科部」に昇格しました。本当にありがとうございました。
 生徒会の方の情報によりますと、本年度からは各部の構成員数の管理が厳しくなるそうです。社会科部は今後1年間、10名を下回ることはないと思われますが、平成19年度以降も引き続き部であることが出来るよう努力してまいりますので、引き続きのご支援・ご協力をお願いします。

 なお、社会科部昇格と同時に部・同好会の変動があったそうですね。
  新設:水泳部
  廃会:ソフトボール同好会
 水泳部は説明を聞く限りでは、通常の部・同好会と異なる特別形態の部のようです。昨年新設された「新体操部」と同じですかね~。
 ソフトボール同好会廃会の情報は4月27日(木)に入手していたのですが、驚きました~。昨年5月の新設でしたが、1年しかもちませんでしたね~。我々が廃会・廃部第1号になるのではないか、とずっと危惧していたのですが、我々より早く廃止になるとは…。部・同好会の運営は大変です。

<新しい人事>
 同好会消滅と同時に、会長が辞任しました。しかし、選挙がまだ実施されていないため、会長がそのまま暫定部長に就任し、代表部メンバーがそのまま各暫定担当代表に就任しました。(執筆:暫定部長)

明日生徒総会 社会科部昇格へ!

2006年04月30日 22時35分49秒 | お知らせ
 明日5月1日の午後、本校生徒総会が実施されます。社会科同好会は「社会科部昇格願」を議案として提出したため、採決が行われる見込みです。皆様のご協力をお願いします。
 議案が承認された場合、その時点をもって本同好会は「社会科部」に昇格します。これに伴い、本ブログをはじめとして諸事業・組織等の名称の変更が行われる予定です。改称されるものについては、明日発表の予定です。尚、本ブログは明日夜に名称を「都立上水高校 社会科部公式ブログ」に名称を変更する予定です。(執筆:会長)

会長が辞任表明 5月1日選挙へ

2006年04月29日 22時29分34秒 | お知らせ
 4月27日(木)、三代会長が5月1日付けで会長を辞する旨の辞表を社会科部部員総会に提出しました。現会長は10月までの任期の途中で、理由を「3年生となったため勇退する。」と明らかにしました。
 これに伴い、「第4回会長選出選挙」を以下の日程で実施します。
 尚、5月1日の生徒総会で本同好会が部に昇格することが確実なことから、現会長は、昇格の議案が承認された時点を本同好会の発展的昇格時刻とし、同好会の消滅と同時に会長を辞任する旨の要望を伝えてきています。そのため、今回の選挙は「社会科部初代部長」選出選挙となる見込みです。又、社会科部昇格時点~初代部長選出までの部長空白時については、社会科部基本大会則第24条の規定により、現会長・代表部が暫定代行を担います。

<第4回会長選出選挙告示>
【社会科部部員総会議長発表=平成18年4月27日(木)】
 社会科部基本大会則(以下、大会則)第18条の規定に基づき、第4回会長選出選挙を以下の要領で実施する。
1、選挙の実施方式
 大会則第20条の規定に基づき、社会科部部員総会が実施・運営する。尚、大会則第21条に定められてた選挙に関する会則が存在しないため、社会科部部員総会議長裁量でこれを行う。
2、部昇格に伴う規定
 本選挙実施前に本同好会が部へ昇格し、大会則第56条の規定が消滅した場合は、本選挙は「第1回部長選出選挙」と名称を変更する。
3、選挙する役職と定員等
 本選挙では、本同好会会長(第4代)を1名選出する。但し、前項の規定が適用される際は、社会科部部長(初代)を1名選出する。
任期は、大会則第17条の規定に基づき、これを平成18年5月1日(月)から平成18年10月12日(木)までとする。
4、選挙権・被選挙権
 選挙権は、社会科同好会若しくは部構成員であれば、これを有する。但し、期日前投票等は行わない。
被選挙権は、社会科同好会若しくは部構成員であれば、これを有する。再選は、大会則第19条の規定により、これを妨げない。
立候補受付は、下記の期間実施する。社会科部部員総会議長が担当する。
 4月27日(木)部員総会終了後 ~ 5月1日(月)本選挙開始時
5、選挙に関連して実施すること、及びその日程
 4月27日(木):告示、立候補受付開始
 5月1日(月):立会演説会、投票、開票、結果発表、異議申し立て受付、結果確定

 選挙結果等は5月1日にお知らせします。(執筆:広報事業担当者会)

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 第13回

2006年04月28日 21時41分27秒 | 【連載】横浜をゆく
横浜中華街③~観光~(1)
私どもはもと来た道を戻り、関帝廟(かんていびょう)通りに出た。そこには山下町公園があった。有名な山下公園の類似品である。
そして天長門をくぐり、南門シルクロードを進んで媽祖廟(まそびょう)を通過し、1時19分、朱雀門に着いた。ここは中華街の南門で、地図が設置してあったためこの後の行動計画を練った。
1時21分、南門シルクロードを引き返し、1時22分、媽祖廟に着いた。ここは4日前の3月17日に開廟したばかりで、かなり新しかった。顧問も「こんなに早く訪れたと写真を見せれば、自慢できますよ。」などとおっしゃっていた。廟の周りに掘られた動物の彫刻は、大変精巧であった。なお、この地は当初、大京によってマンション建設が計画されていたとのことである。

1時28分、媽祖廟を出発し、天長門を再びくぐって関帝廟通りを進んだ。顧問が全員に、各自購入したいものを尋ねると、渉外担当が肉まんを、研究関連担当が崎陽軒(きようけん)のシュウマイを、そして私が月餅(げっぺい)をあげたので、売っている店を探しながら歩くことにした。また、私が顧問に「ソフトクリームは買わないんですか?」と伺うと、「人が多いのでくっつけてしまいそうだから、様子を見ています。」とのことだった。
肉まんを売っている店は多くあった。しかし、1個300円と高かったり、行列になっていたりして渉外担当はなかなか買えなかった。又、やたら天津甘栗を売っていて店頭で試食として配布していたが、私は栗が大嫌いなので嫌悪感を抱いた。
1時31分、山下町公園前を通過し、1時35分に関帝廟に着いた。

関帝廟は古くからあり、関東大震災、太平洋戦争と1986年の火災によって3度焼失し、現在のは1990年に完成した4代目で、きれいであった。隣には横浜中華学院が見えるが、グランドが土や芝生でなくコート状で、「バスケットコートは狭くないか?」という声が上がった。又、渉外担当は顧問に「ここは治外法権なんでしょうね~?」と質問し、顧問は「おそらくそうなのではないでしょうか?」と答えておられた。しかし、門は高く厳重なのだが、関帝廟からならいくらでも入り込めそうである。
さて1時39分、私どもは関帝廟を出発した。中国風のデザインが施された自動販売機や、「日本における新聞誕生の地」の碑を見た後、地久門についた。角にあった華都飯店(かとはんてん)を見てみると月餅があり、さらに肉まんが250円ぐらいであったため、私と渉外担当はお土産として購入した。
1時44分に出発し、長安道を歩いた。途中の横浜中華学院の門の前で立ち止まり、私は自動販売機でお茶を買い、渉外担当は今食べるための肉まんを買いに行った。又、研究関連担当は近くの店へ崎陽軒のシュウマイを探しに行ったが、残念ながら見つからず、再び歩いた。
1時48分、善隣門に到着し、中華街大通りを進んで行った。崎陽軒のシュウマイを見つけるべく、まずは「老維新號(ろういしんごう)」に入った。私はせっかくなので、あんまん(200円)を買って食べた。おいしかったのだが、よく考えたらこういう所のあんまんは冷凍食品のあんまんと大して味は変わらず、反対に肉まんは大きく異なるものだから、肉まんにするべきだったと今になって後悔している。(つづく)(執筆:会長)