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都立上水高校 第1期社会科部OB・OG会公式ブログ

第1期社会科部は平成21年3月12日消滅。本ブログは現在活動中の新生「社会科部」様や都立上水高校とは一切関係ありません。

お久しぶりです。

2007年02月23日 18時45分36秒 | お知らせ
 お久しぶりです。旧社会科同好会初代会長兼渉外担当代表の者です。昨年の4月か5月ごろに、もう3年だから受験に備えようということでブログ更新にかかわることをストップしたのですが、入試の全日程が終了したのでこうして書き込みをするにいたりました。(一応『滑り止め』は確保しております。)
 これから卒業までの短い間、もう後腐れはないということでブラックなアート集などを掲載いたしますので、よろしくお願いいたします。
                執筆:旧社会科同好会初代会長兼渉外担当代表

鎌倉街道を行く~文字でふり返る研修旅行~(その3)

2007年01月29日 00時02分00秒 | 【連載】鎌倉街道を歩く第2区
第2章:鎌倉街道を行く~前編~
第1話:小平6小と冷暖房完備計画
 小川駅東口に出て、誰が先頭になるか少々紛糾したものの、ルートマップを持っていた私が水先(道先?)案内人として先頭を勤めることとなった。
 私たちは、東口ロータリーを出発し、駅前通りを東へと進んだ。するとすぐにブリヂストンの工場が見え、目の前に片側2車線の大きな通りが出現した。これが府中街道である。ここからは、右に左に曲がりながら、鎌倉街道入口まで歩く。
 この先の交差点で右に曲がるので、ひとまず府中街道を渡り、南に向かう。「紳士服のアオキ」の看板が目に飛び込んできた。すると先生が「昔、武蔵村山教員宿舎(上水高校の裏手)に住んでいた頃、そこの洋服の青山までスーツを買いに来ましたよ。」とおっしゃった。ところが、私の目に見えるのは、「アオキ」だけで、「青山」は見えなかった。すると先生が「そこですよ、そこ。」と指差すので、そちらを見ると確かにあった。
 歩くこと数分、小平6小の北側に到着。ルートマップによればここを曲がり、6小の北側から回り込んで鎌倉街道に出るようである。6小を右手に見ながら再び東へ、そのとき、部長がふと「ここの小学校だけ設備が最新なんですよ。」と言った。確かに外観からして公立校というよりかは私立校の面影が漂っていた。おまけに冷暖房も完備らしい。小学校から一度とて冷房のある教室で授業受けたことがない(特別教室を除く。)私にとっては羨ましいかぎりである。しかも東京都の計画であれば、私たち2年生が卒業した翌年度から冷暖房を完備する(=暖房もない高校もあるということ)とのことであり、私たちはその恩恵を受けることが出来ない。しかし、1年生である構成員Aは該当するのである。それを聞いた部長が、「あと1年計画を遅く出来ないのか?」と皮肉めいたことを言っていた。すると先生が「都知事が『やっぱり必要ない』と言って計画を中止すればなかった事になるんじゃないの?」とおっしゃった。本当にそうなれば皆こう言うだろう。「そんなに金がないのか東京都…。」(笑)
 小平6小を通過した私たちは、三度進路を変え南進した。
(つづく…)
研修旅行コラム
府中街道と鎌倉街道
 府中街道は、鎌倉街道に並行している路線であり、鎌倉街道が住宅街の路地となっていることから、鎌倉街道を移設、拡幅した道ではないかと思われる。正式名「都道17号所沢府中線」と言う。府中街道は、小川駅付近で片側2車線の幅広い道となっているが、そこまで交通量が多いとは言い切れなかった。(朝のラッシュは相当なのだろうか。)
(おわり)

鎌倉街道を行く~文字でふり返る研修旅行~(その2)

2007年01月24日 01時02分57秒 | 【連載】鎌倉街道を歩く第2区
研修旅行コラム
研修旅行の概要
 この第3回特別研修旅行は前述の通り小平市小川町から府中市分梅町までのおよそ15㎞の区間を歩いたものである。所要時間はおよそ6時間。参加者は4名であった。
 道中、国分寺市内に東福寺、姿見の池、国分尼寺跡、府中市内に分倍河原古戦場碑、高安寺等を訪れ、構成員によるガイドウォークも実施された。このガイドウォークの詳しい内容は、後日発行の「部報JS社会」に掲載するので、そちらをご覧いただきたい。
この文の構成
この作品は、
プロローグ
第1章:小川駅集合
 第1話:小川駅到着
 第2話:小川駅での雑談
第2章:鎌倉街道を行く~前編~
 第1話:小平6小と冷暖房完備計画
 第2話:鎌倉街道突入!
 第3話:鎌倉橋と玉川上水
 第4話:恋ヶ窪
 第5話:東福寺
 第6話:姿見の池
第3章:西国分寺でのひととき(1話のみ)
第4章:鎌倉街道を行く~後編~
 第1話:伝鎌倉街道と国分尼寺
 第2話:東芝と謎の電車
 第3話:東芝専門?北府中
 第4話:東芝町と日鋼町
 第5話:鎌倉バイパス?
 第6話:多摩川の戦い
第5章:街道を逸れて
 第1話:砂利と競馬と鉄道と
 第2話:牙城の寺
 第3話:旅の終わりに…。
エピローグ
の全19話で構成されている。このブログでは、毎回1話の本編とそれに並行するコラム的な文を1つ載せていく予定である。

本編:第1章小川駅集合
第2話:小川駅での雑談
 先生と構成員Aは切符売り場に前にいた。私は構成員Aに対し、「彼(部長)のことだから、もしかして自転車で来たりして…。」と話すと、「それはあると思いますよ。」と返された。どうやら二人して同じ考えをしていたようだ。構成員Aは「西武でもICカード(たぶんSuicaのこと)が使えればいいのに」とぼやいていたので、即座に「あと3ヶ月の辛抱ですよ。」と返した。もちろん3月18日から使われるICカード「PASMO」のことであるが、詳しいことについては、ブログの関係上割愛させていただく。
 さて、先生に、誰か部長と連絡を取ってくれと言われたので、即座に携帯のメールを打とうとするのだが、構成員Aの方が連絡を取りやすいと思うので、やめた。
 しばらくもせずに、部長からのメールはすぐに返ってきた。それによれば、今こちらに向かっているとのこと。だとすれば、彼は新宿方から来るので、時刻表に照らし合わせると、9時58分「普通…拝島行」ではないかという判断に至った。9時58分。案の定、部長がやって来た。出発時刻2分前。ギリギリであった。どうやら乗る電車を1本逃してしまったようだ。
 とにもかくにも部長は来た。ところが、構成員Bが来ない。部長が彼にメールを送ったそうだが、返ってきたのは結構後のことだった。
 10時9分。「普通…西武新宿行」が来たものの構成員Bは来なかった。次の電車は10時20分。さすがにそこまでは待てないので、仕方がなく出発することにした。10時10分頃小川駅を出発。この時点で10分の遅延である。
(つづく)
著者:研究関連担当代表

鎌倉街道を行く~文字でふり返る研修旅行~(その1)

2007年01月22日 00時05分02秒 | 【連載】鎌倉街道を歩く第2区
プロローグ
 平成19年1月21日(日)、冬晴れの天気の中、平成18年度第3回特別研修旅行~鎌倉街道を歩く~の第2区が挙行されました。第2区の区間は東京都小平市の小川駅から同府中市の分倍河原までのおよそ15㎞です。
凡例
人物名は以下の通り記載します
部長
筆者(研究関連担当代表)→私
構成員A
構成員B
顧問の先生→先生
第1章:小川駅集合
第1話:小川駅到着
 9時10分、私は小川駅に到着した。定期券で乗車したため、精算機で精算をして改札を出た。集合時間まで40分ほどある。無論誰もいる訳がない。私は、東口のセブンイレブンで朝食を購入し、駅ロータリーのベンチで食べた。
 再び駅に戻り、入場券を購入し改札内に入る。この入場券には「当日1回限り有効」と記されており、JRのように時間制限はないようだ。
 9時33分。「普通…東村山行」が到着。先生は国分寺方面から来るはずなので、この電車に乗っているのではないかと考え、人ごみの中から先生を探す。先生はすぐに見つかった。案の定この電車に乗っていたようだ。先生には私以外誰も来ていないと話した。
 9時40分。「普通…西武新宿行」が到着。客足が一段落したが、誰もいなかった。私はもしこのまま誰も来なかったら、中止するしかないと考えていた。
 9時50分。「急行…西武新宿行」が到着した。集合時間は9時50分。これに誰も乗っていなかったら…。と思ったそのとき、構成員Aがやって来た。これで何とか挙行最低人数がそろった。しかし、まだ部長と構成員Bが来ない。あともう少しここで待っていてもいいのだが、これ以上いてもきりがないと見て改札をあとにした。
(つづく…)
著者:研究関連担当代表

左右の全体主義と対決!

2006年07月05日 22時18分11秒 | Weblog
 お久しぶりです。私が旧社会科同好会の会長であった当時、上水ではまさに『全体主義』の風が吹き荒れていました。
 具体的には、合唱祭・文化祭の準備などと言って、夏休み中のほとんどの日に召集をかけるようなクラスがあったりしました。また、今話題の北朝鮮のマスゲームに勝るとも劣らないぐらいの、不自然な状況下で、ダンスの練習などを強制されている生徒を目撃したこともあります。
 このような状況下ではありましたが、本同好会には『自由』を志向する生徒が多く集まりました。そのなかには、私が驚くぐらい『自由』に対する意志の固い人もいました。
 そんな『自由』な同好会の中でも、当然上水ですから『自由』に対する意識が低く、やはり全体の雰囲気に合わせて合唱祭・文化祭に手を貸そうという、協調を第一とするような人も、ごくわずかではありましたが存在していたことは事実です。
 しかし、全体の空気にあわせて、個人をないがしろにするような伝統が上水に脈々と受け継がれたならば、損害をこうむるのは生徒ですし、耳と目と口をふさがれた北朝鮮国民にどこか似た状態になってしまいます。
 ですから、私は会長としてできるだけ『自由』を擁護するようにしてきました。
 話は変わりますが、北朝鮮がミサイルを本日早朝から夜にかけて7発発射したと報道されています。自由主義国家の日本と米国は、窮屈な生活を強いられている北朝鮮国民と拉致被害者を救出し、社会主義国家という地球上で最も嫌悪すべき存在を消し去るために、協同して開戦すべきであると私は以前から考えております。
 今後の動向を見守りつつ、社会科部の発展を祈ります。 執筆:旧社会科同好会初代会長兼前渉外担当代表

橋本龍太郎元首相が死去

2006年07月01日 19時45分00秒 | Weblog
 お久しぶりです。
 本日午後2時、橋本龍太郎元首相が68歳で亡くなりました。かなりお若い死です。私の記憶にある元首相は村山富一氏からですが、現在の小泉首相まで5名のうち、橋本・小渕両氏2名がすでに亡くなったということです。人生、分からぬものです。
 私はかつて、歴代総理大臣について色々と調べたのですが、それによると…

 元首相の死去は平成16年(2004年)7月の鈴木善幸(享年93歳)以来で、今世紀2人目。これにより、現在存命の元首相は中曽根康弘・海部俊樹・宮沢喜一・細川護煕・羽田孜・村山富一・森善朗の7名。
 1年間に最も多く元首相が亡くなったのは、1948年。鈴木貫太郎(4月17日)、米内光政(4月20日)、広田弘毅、東条英機(以上2人は12月23日:東京裁判絞首刑)の4名。
 1番最初に亡くなった元首相は黒田清隆(1900年8月25日:59歳)。
 最も若くなくなった元首相は近衛文麿(1945年12月16日:54歳)。
 最も長命だった元首相は、東久邇宮稔彦王(1990年7月20日:102歳)。
 
 尚、橋本元首相は1937年7月29日生まれ。この年は、小渕恵三元首相(6月25日)、森善朗元首相(7月14日)も生まれた。

 以上は私がかつて調べたものであり、入力ミス・確認ミス等で間違いが有る可能性があります。又、こうしたデータを列挙するのはいささか不謹慎かもしれませんが、ご了承下さい。
 誤り・疑問点等がありましたら、お知らせ下さい。
 橋本元首相のご冥福をお祈りします。(執筆:元三代目会長)

羽村をゆく~文字で振り返る羽村研修~(その5)

2006年06月14日 23時24分34秒 | 【連載】羽村をゆく
耐震強度偽装問題in羽村ふたたび
 出発にあたって先生から簡単にご挨拶頂き、つづいて元会長から例の物件を見学する提案がなされた。すると、メンバーは大喜び?で承認された。(今思えば、大喜びで承認するのは、結構不謹慎なことだが・・・。)こうして11時35分に羽村駅を出発した。(例の物件の場所はすでに私が知っていたのだが、元会長とすれ違いになってしまい、教えることができなかった。)
 ロータリーを横切りながら周囲を見渡すと、右手に渋い紺色の看板をつけた西友が見えた。西友が普通は赤色だと思うのだが。(この看板も赤に変えられました。《6/14確認済み》)又、左手には餃子の満州が見えた。私は、元会長に昼食場所を伝えておいた。
 そして11時37分頃、例の物件の前に到着した。メンバーの間から歓声とも嘆きとも取れる声が響いた。12月に行った活動納めの会の際に、この件が話題に上ったことから、耐震強度偽装問題に関心を持っているようである。それにしても不幸なニュースであることだ…。
 先生は、「こんな駅前に建っていて、しかも両脇は建物に囲まれているので、もし倒壊したら大変じゃないか。」と危惧されていた。言われてみれば、もしもの時に大変である。この事件の対処がなかなか進まないが、本当に迅速な対応が必要であることを感じ、この事件の影響が根深いことを実感した。(耐震偽装疑惑の当事者は逮捕されたそうですが、この建物は今現在も放置され続けています。関係各所には、国民に負担がかかったとしても、取り壊しまたは耐震補強等の措置を講じてほしいものです。)
 又、元会長からビデオ撮影を頼まれたのだが、あまり、この様なものを面白半分で映すべきではないと考え、撮影を自粛させていただいた。「なるほど、冷静になることも大切である。」(元会長談)私は至って冷静です。(笑)
 さて11時39分頃、例の物件の前を出発していったん羽村駅の方に歩き横断歩道を渡って五ノ神社へと向かった。(ここからは私が先導しています。)
                                (つづく…)
                          著者:研究関連担当代表

羽村をゆく~文字で振り返る羽村研修~(その4)

2006年06月12日 21時13分44秒 | 【連載】羽村をゆく
仮遅刻と本遅刻
 11時25分。元会長と構成員Aが帰ってきた。元会長は耐震強度偽装疑惑のある物件を発見したといっていた。しかし先生の周りには誰もいない。そのとき、私はというと、次の電車が駅に到着するので、再び改札口に張り付いていた。(3回目)
 さて、そのとき先生は、「会長(ここで言う渉外代表)はよく遅れますから、心配は無用ですよ。」(実際のところ『心配無用』ではない気が…)とおっしゃり、構成員Aに、「小平のとき出納代表は、突然自転車で『よっ!』と現れてですね~、そのまま自転車を持って行ったんですが、東大和市駅で私が『おまえ、この先に自転車を持っていっちゃだめだ。』といって、駐輪場に置かせたんですよ。だけどその後土砂降りになって、彼はどうしたのかな~。」と回想しておられた。
 11時27分。出納代表がやって来た。私は、ほかのメンバーが待っていることを伝え集合場所へ連れて行った。
 11時28分。出納代表を連れ、集合場所に戻った。すると彼は、すぐさま先生にある紙切れを手渡した。これすなわち「参加承諾書」である。しかし、なぜか文字の色が茶色っぽい。先生がそれを指摘すると、出納代表は「PDFファイルで印刷したら、こうなった。」と。実は、元会長が万が一承諾書を紛失した際に、公式メールに配信をしておいたものだが、使用する人がいたのである。「報われました、嬉しいです。」(元会長談)
 しかし、元会長宅のスキャナーは安物でおかしいところがあるらしく、モノクロの文章を設定を誤ってカラースキャンをしてしまうと、色が変色するらしい。 
 さて、出納代表は来られたが渉外代表が現れなかった。すると誰かの携帯に「少し遅れます」とのメールがあった。先生は動じずに「11時30分までに来れば、学校では校門で引っかかる仮遅刻(黄色紙)になって、HR(ホームルームと読む。学活のこと。)で出席をとっている間に現れるというようなものですね~。そういう人よくいますからね~。だけど、それを超えたら本遅刻(青紙)ですよね。」と例を用いながら状況を説明してくださった。確かこの時に、出納代表が出した「参加承諾書」を遅刻指導の紙(黄色紙と青紙)に見立てていたと思う。仮遅刻が良いのかどうかは想像にお任せするとして、とにかく続きを…。(笑)
 11時34分。ホームに立川方面からの電車が到着。私は4度目の改札口張り付きに向かった。少しして渉外代表がやって来た。私はほかのメンバーはもう来ていることを伝え集合場所に戻った。9分の遅刻。さきほど先生が述べていた言葉に当てはめると…、残念ながら、本遅刻…。(爆)
 今回は最初から混乱が生じたが、何とか皆さんが集まり、いよいよ第7回特別研修旅行の幕が開いた。
                                (つづく…)
                          著者:研究関連担当代表
PS.部報「JS社会」第3号64ページ3段目、左から2行目の「仮遅刻になって、HRで~」の部分にてHRHP(ホームページ)になっておりました。訂正してお詫び申し上げます。

羽村をゆく~文字で振り返る羽村研修~(その3)

2006年06月11日 11時36分12秒 | 【連載】羽村をゆく
 耐震偽装強度問題in羽村
 私が東口へ降りると、相変わらず先生と2人のメンバーがいた。元会長が、「欠席の連絡があり今回の研修は4人で行く」と伝えたところ、「(参加者が)少ないな~」と少々嘆いていた。
 前回述べたとおり、先ほど元会長が乗ってきた電車が集合時間に間に合う最後の電車なので、(次の電車だと1分の遅刻になる)以後は26分と34分の電車が来るまで待つことになった。
 元会長と構成員Aは、「ちょっと辺りを回ってきます」といってロータリーの方へ歩いていった。羽村駅前の通り沿いに、耐震偽装疑惑が浮上している物件がある情報を掴んでいたそうで、下見がてら、そちらに向かわれたそうだ。ところが、手持ちの地図が五ノ神4丁目14番地までしか表示されていなかったらしく、探し当てるのに難儀したようで、線路沿いに青梅方面に向かい、その後北に進路を変えたものの、市役所通りが前方に見えてきた。そのため次の字路を右へ曲がり、例の物件の左後方から回り込むかたちでたどり着いた。しかし、その位置では逆光で写真は撮れないようなので少し、建物に近づいて撮影をした。構成員Aも写真を撮ろうとするのだが、かなり難儀してしまったので、元会長が後で写真をコピーをして渡したようだった。構成員Aは「知人に耐震偽装の物件だ、と写真をばらまくぞ~。」といっていたそうだが、それからどうしたのかは、私は知らない。(笑)
 集合時間の11時25分にもうじきなりそうだったので、2人は駅へと戻ってきた。
                                (つづく…)
                          著者:研究関連担当代表

羽村をゆく~文字で振り返る羽村研修~(その2)

2006年06月10日 23時14分10秒 | 【連載】羽村をゆく
 羽村集合の章
 いよいよ羽村研修の始まりです。まずは、各構成員が羽村に着くまでの様子を並行してお伝えします。
 当日、10時30分過ぎ。私は、父の車に乗り自宅を出発。自宅は青梅市にあるので、羽村駅までは15ほどで着く。10時50分より少し前であっただろうか。私は羽村駅に到着した。そのときには既に構成員Aが到着していた。(気がする…。(笑))
 私は、いつもの通り改札口の前に陣取り、まずは時刻表の確認をした。それによると、青梅方面は10時50分・59分・11時15分・26分・34分…とのことである。羽村より西に住んでいるのは私だけであるので、集合時間から察するに、11時15分がカットラインのようである。
 10時50分。「普通…河辺行」の電車に乗って、先生がやってきた。私は、東口で構成員Aが待っていると伝え、集合場所まで同行した。先生と共に東口へと降りた後、構成員Aも交えて雑談をしていると、次の電車の到着が迫ってきたので、再び改札口に張りついた。
 10時59分。「青梅特快…青梅行」の電車が着たが、誰も来なかった。私は集合場所に戻り、先生にこの電車には誰も乗っていなく、次が最後の電車だと伝えた。
 話は変わるが、ちょうどその頃。元会長は西武拝島線に乗り、拝島駅にいた。元会長は拝島11時8分発「快速…青梅行」に乗り、羽村駅へと向かっていた。
 11時15分。元会長は羽村駅に到着した。私は、電車の到着と共に再び改札口に張り付き、参加者の到着を待つ。元会長はホーム青梅方より写真を撮影しながら改札口へと来た。彼は乗り越し精算機に定期券を入れたが、受け付けてもらえなかったようで、窓口で精算をしてから私のところに来た。私は、右に進めば、構成員Aと先生が待っていることと、これ以降の電車は遅刻になることを伝え、客の波が一段落するまで張り付いていた。ところが、元会長は一つ目の階段を下りたところで迷ってしまったようだ。とりあえず、先生を見つけたようで大事には至らなかったが、私の説明不足であったのは、わかりきったことである。
 さて、客足が一段落するまで改札口で待っていたのだが、残りのメンバーは現れなかったので、私は集合場所に再び戻った。
                                (つづく…)
                          著者:研究関連担当代表

羽村をゆく~文字で振り返る羽村研修~(その1)

2006年06月10日 19時10分13秒 | 【連載】羽村をゆく
プロローグ
 平成18年1月8日(日)、冬晴れの中、第7回特別研修旅行が行われました。
 今回は、半年に渡って玉川上水を追い続けてきたことから、その始点である羽村堰を見てみようということで羽村市での研修となりました。半日という短い時間での研修となり、少々物足りない感じもしましたが、これからの研修旅行の新しいスタイルとしてこの様な形式での実施となりました。
 本記事は、部報「JS社会」第三部「羽村市」より、「羽村をゆく~文字で振り返る羽村研修~(著者:元3代目会長)」を原作とし、私なりのアレンジを加えたものとなります。

 本記事での人物名は、原則以下の通り記載します。
 著者(研究関連担当代表)→私
 元3代目会長→元会長
 元渉外代表
 元出納代表
 構成員A
 顧問の先生→先生
 本記事の連載に関しては、厳重な管理体制の下掲載しておりますが、何かしらの間違いが起こりうると思いますので、その際には何なりとご指摘下さい。
                                (おわり)
                          著者:研究関連担当代表

合唱祭近し

2006年06月05日 17時26分55秒 | Weblog
 久しぶりの更新です。
さて、本日は学校より更新致します。ちょうど放課後の時間なのですが、各クラスの合唱祭練習が日を追う事に忙しくなっています。
 本日も、放課後の練習時間が過ぎているにもかかわらず、練習を続けているクラスもありました。(さすがに終わったみたいですが…)
 その合唱祭と言うものは、6月8日・・・そうです、3日後に迫っています。私のクラスも例外ではなく、連日練習があります。各クラスが狙うのは、当然金賞。そしてその上にある、18学級中たった1クラスのみに授けられる最優秀賞です。すなわち、実力しだいでは、下克上も起きるので、下級生でもあきらめてはいけません。現に昨年は当時の2年次生を打ち破り、1年次生が最優秀賞を取りました。ということは、我々も油断をしてはいけないと言うことでもあります。(…到底そんなことはしませんが。)
 今年は、福生市民会館で実施されます。もしお時間がありましたら覗いてみて下さい。
                                 (おわり)
                       著者:研究関連担当代表(続投)

うごきだせ!社会科部

2006年05月26日 23時16分16秒 | お知らせ

 元三代目会長様に多大なる期待を受けて日々進行中の社会科部。
なのに中の人風邪で寝込みました。鼻水止まらずもう必死ですよこんちくしょー。

 さて、毎回話題となっている研修旅行についでですが
鎌倉
浅草
アキバハラ
の3つが行き先候補として上がっている現状。先日の第55回部員総会では難航し決定は来週になりそうです。何よりテーマが決まってない現状どうしようもなかった。まだまだ修練が必要ですね、ハイ。
 うごきだし始めた社会科部。これからの社会科部が織成す微妙なクオリティーにどうぞご期待下さい。

 (執筆:構成員C)


あヽ吉野家 復活への道

2006年05月24日 22時41分29秒 | Weblog
3月のキャンペーンでゲットした吉ブーストラップ

 2004年2月11日の吉野家牛丼販売停止からはや2年。今年2月には再開されるとみられたが、アメリカのとんでもない対応により再び延期に。無念、そして絶望・・・。吉野家ファンだれもがそう感じたことであろう。その思いは、我々社会科部構成員一部も同じである。

 しかし今、7月ごろの米国産牛肉輸入再開へむけて、いよいよ動き出そうとしている。吉野家は牛丼販売再開に前向きであり、輸入再開後1・2ヶ月で販売できる見込みだという。となると、Xデーは8~9月。昨年末に結成されたものの解散していた私的団体「久しぶりに『吉野家』の牛丼を味わう会」もそろそろ再結成されるだろう。
 だが、牛丼のない吉野家の輝きは今も失われていない。豚丼は売れているそうだが、私には少々あわない。私のお気に入りは「豚生姜焼定食(480円)」である。牛丼が復活するまでもうしばらく、豚生姜焼定食を食べる事が続くだろう。

豚生姜焼定食(持ち帰り版:味噌汁なし)

  (執筆:元三代目会長)

うごきだす

2006年05月21日 21時57分03秒 | Weblog
 最近、本ブログの更新が滞りがちで、申し訳なく思っております。5月上旬の3年生勇退(引退ではありません)とともにテスト期間に入ったため、社会科部の活動は行われておりません。そのため、新しく主役となった1・2年生の方々にとってはなかなかブログのネタが無く、又、時間も無いため更新が厳しいようです。
 しかし現在、部長は第10回特別研修旅行実施や上水祭にむけて、色々と検討を始めているそうです。特別研修旅行の場所をめぐっては、現在一部構成員が提唱している候補地をめぐって、決定まで大論争が予想されますが、テスト終了とともに新生社会科部が「うごきだす」ことが期待されます。それに伴って、本ブログも更新されていくと思いますので、温かいご支援・ご愛読をお願いします。(執筆:元三代目会長)