実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

大聖寺藩・三河吉田橋の御手伝普請

2013年04月25日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す(^_^)v

加賀市観光ボランティア大学第1回講座 大聖寺藩いいとこつかみどり」で

講師の江沼地方史研究会・伊林永幸先生から教えていただいたことをもとに、

大聖寺藩が行った大変な御手伝普請のお話をご紹介します。

大聖寺藩は4代藩主利章が治めていた1751(宝暦元)年、幕府により

三河吉田藩(現在の愛知県豊橋市)の東海道に架かる吉田橋の架け替えを

命じられました。三河吉田藩は、譜代大名が歴代藩主を務め、吉田藩に

入部することが、幕閣になるための登竜門といわれた藩です。

大聖寺藩は1752(宝暦2)年3月3日に工事を着工し、5月に橋を完成させました。

5月13日には渡り初めが関係者を集めて盛大に行われたといいます。

ところが、その年の秋頃になると、できたばかりの新しい橋が曲がるという事態が

起きてしまいます。このような事態が起こった背景には当時の江戸幕府が財政難で

あったことから、主要街道に架かる橋を監督する幕府の作事方(今の国土交通省)と

安く工事を行いたい勘定方(今の財務省)の幕吏が対立していたことがあるといいます。

とばっちりを受けたのが大聖寺藩です。橋の架け替えのために、御用金2万3650両

(現在の2億4000万円近く)を負担したあげく、工事のやり直しを命じられたのです。

大聖寺藩の工事担当者は抗議のため、みんなの前で切腹したと言われています。

そして工事のやり直しには、6カ月の時間と新たに3万両の費用がかかりました。

この工事は大聖寺藩にとって、とんでもない赤字をもたらしたのでした。

当時の大聖寺藩総奉行であった野口兵部は処分を受け、失意のまま

1755(宝暦5)年に亡くなったそうです。野口兵部の墓は現在、大聖寺鉄砲町の

松縁寺にあります。

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