実高ふれ愛隊臨時隊員ももこです!
加賀市観光ボランティア大学第1回講座 「大聖寺藩いいとこつかみどり」で
講師の江沼地方史研究会・伊林永幸先生から教えていただいたことをもとに
レポートします。
1685(貞享2)年、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉は「生き物を大事にするように」
という意味から「生類憐みの令」を発しました。
一説には、世継ぎに恵まれなかった綱吉が、僧侶から“子が欲しければ
殺生を慎め”と言われたのがキッカケだとか、特に犬が大切にされたのは
綱吉の干支が戌(いぬ)だったからだ、ともいわれています。
最初は「犬・猫・牛・馬を大事にせよ」というようなの4つの条文から始まった
「生類憐みの令」でしたが、その内容は徐々にエスカレートしました。
「傷ついた犬を放置していたら町中の落ち度とする」「犬同士のかみ合いを
ふせぐ喧嘩水の用意せよ」「傷ついた犬は犬医者に治療させよ」など。
そのような中、将軍綱吉に寵愛されていた大聖寺藩3代藩主前田利直に対して、
1695(元禄8)年12月6日、「江戸の角筈(つのはず、現在の西新宿)に
犬小屋を普請するのを手伝うように」という命令が下されました。
そしてその普請の内容は2万坪の土地に、長さ40間(72.7m)の犬舎を
次々と建て、江戸で増え続けていた犬の数がこれ以上増えないように、
江戸中の牝犬を残らず収容するというもので、毎日五、六千人の人夫が
動員されました。
その結果、この土地にはなんと8万2千匹もの牝犬が集められ、犬1匹につき、
1日に米2合と銀2分が支給されたといいます。 この工事により大聖寺藩が
負担させられた金額は6986両にものぼりました。
(幕府は1年に9万8千両以上を支出したともいいます。)
仮にこの時代の1両を現在の約10万円として計算すると、大聖寺藩は
6億9860万円を支出したことになります。 このために、大聖寺藩は焼失した
江戸屋敷を新築したかったのですが、資金が不足し、本家の加賀藩から
多額の借金をすることになってしまいました。
このとき大聖寺藩が造営した犬小屋を「四谷犬小屋」といいますが、2年で
西中野に移されます。なぜかというと、幕府は西中野にさらに大きな16万坪規模の
「お犬さま御殿」をつくったからです。
総工費は20万両(約200億円)。東京ドーム20個分というスケールだったようです。
そこには25坪の御犬小屋が290棟、7坪半の日避け場が295棟、犬の養育所が
460箇所もあったそうです。
「お手伝い普請」は「参勤交代」とならんで、大聖寺藩にとってとても大きな負担でした。