実高ふれ愛隊臨時隊員ももこです!
加賀市観光ボランティア大学第1回講座 「大聖寺藩いいとこつかみどり」で
講師の伊林永幸先生から教えていただいたことをもとにレポートさせて
いただきます。
大聖寺藩3代藩主は前田利直(としなお)といいます。1672(寛文12)年に
第2代藩主利明の長男として江戸に生まれました。
1684年に5代将軍徳川綱吉に御目見得して以降、寵愛を受け、
藩主になる前年の1691(元禄4)年には、外様大名の立場にもかかわらず
奥詰(おくづめ)に任じられ、待遇も譜代大名と同格に扱われました。
奥詰は譜代大名と同格ですから、奥詰の中には、肥前平戸藩の松浦氏が
寺社奉行をつとめたように、外様大名であっても幕府の要職につくことが
できたようです。
ですから、利直は「老中になりたい」と夢見たことから、本藩の加賀藩が
やきもきしたという話もあります。
利直は綱吉の寵愛を受けていたことから、ほとんど大聖寺に戻らず、
定府大名として江戸にいたそうです。
その3代藩主利直にはもう一つ夢がありました。それは大聖寺にお城を造ることです。
1615年の一国一城令により、もともと錦城山にあった大聖寺城はとりこわされました。
現在、加賀市教育委員会によって大聖寺城の発掘調査が行われていますが、
当時の大聖寺を治めていた加賀藩が、江戸幕府の目を気にして徹底的に城の石垣を
こわしていた様子がよく分かるそうです。
ですから、利直の頃には、大聖寺藩には藩邸(陣屋)しかありませんでした。
同じ金沢前田藩の支藩である富山藩は越中国であるため、城の修復を幕府に
認められましたが、大聖寺藩は加賀国の一部にあたるため、城の再建は認められ
ていなかったのです。
そこで利直はお城が造れないのならばとばかりに、とても立派な藩邸を建設した
といいます。これには江戸幕府もビックリして、「まさかお城を造る気ではないか?」と
調査のための役人を派遣するくらいだったそうです。
その時の藩邸の様子を今に残すのが長流亭です。1709(宝永6年)に利直の別邸と
して建てたもので、とても優雅な姿を今に伝えます。
利直が藩主だった頃は、家臣団の派閥抗争や江戸藩邸の焼失などもあって、
藩財政がとても苦しくなりました。また晩年の1706年、綱吉の死去にともない
奥詰を解任された上、弟の利昌が大和柳本藩主織田秀親を刺殺して大聖寺新田藩が
改易となるなど、不幸が続きました。
そのような中、利直は1711(宝永7)年に39歳で亡くなりました。