僕たち団塊の世代が中学、高校の頃、
日本経済は圧倒的な飛躍を遂げて、
車に関しては、1955年に国民車構想が
取り上げられました。
実際の話はわかりませんが、通産省が単なる案として
いたものを、ある新聞社がすっぱ抜いて、
結局国が後押しをする結果になったらしいですね。
1958年にスバル360が発売されました。
中学の数学の先生が僕たち3人に、車を買ったから
海に遊びに行こう、と言うので、みんなその気に
なりました。その数学の先生は僕の担任だったので、
中3の時だったと思います。
先生の車はそのスバル360でした。
そして夏休み近い日曜日、みんなは学校で集まって
さあ、海に向かって出発
先生は太っていなかったけれど背丈があったし、
僕たち3人は中学生でも大柄な方でした。
そして、ある上り坂にかかった時、
車が動かなくなったのです。
先生は、重すぎて動かないから押してくれ、
と言いました。今だと“ダッサーイ”ですよね。
でも僕たちは海へ行きたいので車を押したし、他の
車のドライバーも笑いませんでした。何しろ車を
持てただけで “スッゲー” の時代でしたから。
どの海岸だったか、まるで憶えていません。
車に乗るだけでもうれしかったのです
トヨタスポーツ800です
これはトヨタパブリカを基本として開発された
スポーツカーです。団塊の世代の人はご存知ですね。
僕たちはこの車を“イモ8”と呼んでいました
さて、笑い話か、怖い話しか、皆様の判断にお任せします。
その時僕は、初代サニー(800ccだったと思います)
を借りて、首都高外回り、宝町(高速警察の出口近辺)辺り、
地下トンネルに入る下り坂で渋滞に巻き込まれていました。
僕はサイドブレーキを引いて、イライラしていたのですが、
そのうちに、キーッ、ドッカーン、それからドンッ、ドンッという
音が聞こえてきたではありませんか バックミラーを見ると、
トラックが追突して、その反動で玉突き衝突が始まったらしい
のです。むち打ち症になりたくなかったので、姿勢を低くして、
ブレーキを思い切り踏んでいました。やがて衝突の音が近づき、
僕の運転していた車に当たったのですが、それはかろうじて何かが
当たった、とわかるくらいで、僕は前に止まっていた車にぶつからない
で済んだのです。損傷は全くありませんでした
でもイヤな気分でしたね。衝突がわかっているのに避けられない。
前にも後ろにも、ましてや右にも左にも逃げられなかったのですから。
僕が世界中で一番美しいと思っている車です
アルファロメオ・カングーロ、
世界で1台しか生産されていない車です。
所有者は日本人だそうですが、まるで不明です。
高校の時にこの車のプラモデルを見て、
すぐに買って作りました。
さて、笑い話です。いや、笑っていいかな
(影の声:笑っていいとも)
僕がハンブルクで暮らし始めてからしばらく経って、ある
領事館員と知り合いになりました。当時彼はハンブルクの
副総領事の立場にあったのです。名前もイニシャルも
挙げません。
彼はハンブルクに来る前、モスクワ勤務だったそうです。
当時はまだソビエト連邦でした。
ある朝、彼が与えられたマンションから領事館に行くため、
路上に停めてあった車の所に行くと、
タイヤの代わりに頑丈な木の箱が4つ置いてあったそうです。
似たような話です。
ドイツからイタリアに、バスがツアーで行き、
運転手はホテルの駐車場にバスを停めておきました。
翌朝、次の目的地に行こうと思って、ツアー全員が
駐車場に行ったら、バスがない
一番驚いたのはバスの運転手だったでしょうね。
やがてバスは近くの公園で見つかり、金目の物は
バスの荷物室に入れてなかったし、別に取られた
物もなかったので、運転手は安心してキーを回した
のですが、エンジンがかからない。何度試しても
ダメで、運転手がエンジンフードを開けると、ベンツの
ディーゼルエンジンがなくなっていました
トヨタ2000GTです。ボンドカーですね
欲しいんですよ~ でもメンテにかかるだろうな
何度か僕のブログに登場しているF女史の話です。
当時彼女はベンツを欲しかったのでお金を貯めて
いたのですが、ある時、レンタカーの週末料金で、
ベンツのスポーツカーが安く借りられることを知って、
それを借りました。聞いた話だと、当時のレートで
金曜日の昼12時から月曜日の昼12時までで、
約2万だ、と言っていました。
それは全く問題なかったのですが、その車に
カーテレフォンが付いていたそうです。
まだ携帯がなかった時代で、どのようなシステム
だったのかわかりませんが、おそらく無線タクシーのように
センターに電話が行き、そこから通話先に転送されたので
あろうと思います。
F女史はベンツを運転できたからうれしかったので、
あちこち電話しまくりました。僕も電話をもらいましたよ。
そして月曜日、彼女が車を返しに行ったら、電話代の
請求が、レンタカー代の倍ほど来たそうです
今、F女史はベンツを所有しています
アストンマーティンDB4。これもボンドカーですね
この車の左後ろを見てください。
カー気違いだとすぐに気付く、ガルウィングの
ベンツが停まっています。何人か覗き込んでいますね。
今度はソ連時代のジョークです。
ある夫婦が一生懸命お金を貯めて、何とか
車を買えるようになったので、国立自動車販売
センターに行きました。
夫婦はそこで改めて支払いのことや価格のことを
話し合った後で、奥さんが販売員に聞きました。
「あのぅ、シートの材質とデザインですが…」
「それは選べません。その時に余っている生地で
作りますから」
「では、色ですが…」
「色も選べませんよ、余っている色で塗りますから。
戦闘用の迷彩色であればOKですが」
「いいえ、それはちょっと・・・」
「まあ車を持てるだけでもいいじゃないですか」
やがて夫婦はあきらめ、その販売員が言ったように、
車を持てるだけ幸せなんだ、と思うようにした。
そして今度は夫が聞いた。
「あのぅ、いつ納車になりますか?」
するとその販売員は、まだコンピューターがなかったので、
あちこちから書類を引っ張り出して、調べたあとで言った。
「2年後の8月22日ですね」
すると奥さんが、
「あなた、夏だったらどこかドライブに行きましょう」
しかし夫は、
「ちょっと待ってくれ」
と言って、ボロボロになった手帳を引っ張り出して、
ページをめくって見てからその販売員に聞いた。
「8月22日の何時でしょうか?」
「何時かわかりませんよ。別に何時でもいいでしょう?」
「その日の午後3時に、電気会社が修理に来るのです」
怖い話も書こうと思ったのですが、
ずいぶんスペースを使ってしまいました。
それは次回に。
では最後にこの写真を
京都、南禅寺、正確には太平興国南禅禅寺です。
では次回をお楽しみに
一生合いたくないなぁ……。
ご無事で何よりでした。
タイヤやエンジンを持っていくなんて、なんでもありですね~。
バスの話といえば、スペインの南からアフリカへ船でわたる観光バスは、帰る前に必ずすべての隙間を確認するそうです。
子供が潜り込んで密航しようとするからだそうです。
ロシアのご夫婦の話、面白かったです。
昔は物資が不足気味だったらしいですね。
日本に来たソ連のひとが、日本のお店に来て、「日本人はみなよほど貧乏なんでしょうね。こんなにものが売れ残っているなんて」
そんな話を思い出しました。
南禅寺、一昨年に行きました~。
素晴らしい建築でした。
近くに昔の線路の跡があって、歩くとドラマのワンシーンのようで素敵でした。
哲学の道も、カゲロウが飛んでいたり素敵なお店があったりして良かったです。
ずっと残していって欲しいですね。
という事故がありましたよ。濃霧は怖いです。
なんとなくまだ風邪っぽくて、思うように表現できませんでした。
ソ連の人が日本に来て… という話は聞いたことがあります。
昔は物資不足だったのでしょうね。
南禅寺、実は行った事がないんですよ~
いや、行ったかもしれないけれど、記憶にないんですよ。
中学の修学旅行が京都で、寺社等回ったのですが、
憶えているのは、夜になってみんなで枕投げをしたことだけです
ロシアのご夫婦の話も、きっとご本人達はしごく真面目な表情で会話していたんだろうなぁ…と思うと、ぷぷぷって笑ってしまいます
車はあまり詳しくないのですが、会社ではアーモンド型のジャガーの2シーターが好きです
風邪っぽくて、その頭が回らないというか
そのうちガツーンと一発…難しいかな?
僕は昔車が大好きでした。でも車は手放したし、どうしても
必要な時はレンタカーですね。安全に走ってくれれば、
それでいいと思っています。