きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

善きサマリア人

2011年01月26日 | 羊の声
今週のメッセージは、「善きサマリア人」の喩え話から。

イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った

ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」


誰でも道端で人が倒れていたら、助けてあげたい!と思う。しかし実際、その人の側に近寄って抱き起こしてあげられるか、というと、頭でYES!であっても、専ら体はNO,NO,NOだ。トヲル師も数週間前、同じような経験をして、思わず通り過ぎようとしてしまったことを証ししてくださった。思い直して抱き起こしたは良いが、倒れていた人の汚物が手についてしまった、とも聞いた。助けてあげたい!でも、自分には何もできないかもしれない、下手に関わっても嫌な思いをするかもしれない、汚れるかもしれない、傷つけられるかもしれない、そんな思いに囚われて、結局私たちはだれも助けられないのではないだろうか。そして多くの場合、道の向こう側を通って行くのだ。

しかし、近寄って介抱して下さる方がいた。たぶんそれも夕方だったように思う。日が落ちて、夜が迫り、ボコボコにされて倒れたいた人もいよいよ死を覚悟したその時、もうだめだと思ったその時、誰かが近寄ってきて助けてくれた。自分の危険を顧みず、自分が乗っていたロバのスペースを譲り、自分の持ち物をどれだけでも使って助けてくれる方がいた。それがイエス様だ。そうと信じる信仰だ。とすると、、道の向こう側を通って行ったのは、自分というより、金銭、権力、事なかれ主義、損得勘定、自己中心、そんなものとは言えないだろうか。日頃なければならない!と固守していても、いざという時に命を救えないもの。「あなたの隣人は誰か?」その答えに生きる道が確かにある。




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