きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

神様の“声”とは?

2010年08月08日 | 羊の声
今、加藤常明先生のメッセージを聞いている。敬愛するがくださったもの。先生が牧会していらした鎌倉雪ノ下教会のサイトでは、これまでにもたくさんのことを学ばせていただいたし、お会いしたことがないけれども、名人と言われる先生のメッセージを聞いてみたい!とは常々思っていた。それが叶ったのは、神様の恵みと、そんな私の思いを知って尽力してくれたの愛。感謝して拝聴している。

さて、職場関係でどうにも怒ってしまう出来事があった。「あなたの仕事のやり方がなっていないのよ!」と叫びたくなるようなこと。とばっちりを受けて、私はとても不愉快、不機嫌、不満足。ふと前を見ると、御言葉カレンダーが目に入る。

怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。(エフェソ4:26)

と思うものの、「怒っていないよ、ただ不機嫌なだけ。あ~、あとで祈ってもらおう。」と無視を決め込む。仕事を終え、何となく不快な気持ちのまま帰路へ着く。車のCDから加藤常明先生のメッセージの御言葉が語られる。

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。(フィリピ2:3-4)

.....「これは教会の中のことだよね。職場では仕事できない人はできない人だもん。私より優れているなんて、、、ねぇ。。。」歯切れ悪くなりつつも、自己弁護を続ける私。そして、LTGの場所に到着し、テキストを開いて追いついていない部分を読み出すと、そこに書かれていたのは、

まことのクリスチャンの、一番決定的なしるしは、赦すことです。

もう何も言えない。追いかける神様の声に降参するしかない。神様の“声”は、決して直接耳に入らないかもしれない。(もちろん聞こえる人もいるけれど。)しかし、聖書を通して、人の言葉を通して、祈りの時を通して、いつでもどこにでもそれはある。それら、自分にとって都合の悪いこと、従いたくないことには耳を閉ざし、「神の声が聞こえない!」と言うのは大きなマチガイ。神様はどんな時でも、私を見てくださっている。見つめ、守り、導きを様々な形の“声”で語ってくださっているのだ。それを感じたひと時だった。次は、それに従うことが課題。そんな私に、更に神様は語られる。

待った機従順を通して、日々、霊的に成長する8月となりますように。

語ってくださる神様に感謝。

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