心をひとつに~がんばろうNIPPON~
東日本大震災 第一次支援隊による支援報告会
2011年4月7日(木)18:30~肥後橋のJAFS事務所で行われた
松井聡子さんたち、南三陸町被災地支援先遣隊による現地活動報告会に参加してきました。
報告者の皆さん、多忙ななか、お疲れのなかでの準備には頭が下がる思いです。
多くの写真もまじえて、南三陸町での実際の日々の活動が手に取るようにわかるお話でした。
ほぼ全員、被災者の皆さんが、肉親や友人を亡くされている深い悲しみのなかにある集会所での活動です。
ボランティアの皆さんは、自分たちは暗い顔をせず、できるだけ被災者の皆さんの前では毎日笑顔でいようとお互い、言い聞かせていたそうです。
大きく看板を揚げてのPR目的の一時的支援ではなく、長期的に被災者の方々のお話に耳を傾けながら、寄り添いながらの支援をめざすという、JAFSの支援のあり方がよく分かる内容でした。
アジア協会アジア友の会の第1次支援隊は、3月21日朝に仙台市内に入り、登米市にある石森ふれあいセンター
(市役所総合支所)を拠点として、必要な支援を始めています。
志津川の方は、支援の手が伸びつつあるようで、さらに奥にある南三陸町歌津地区の「港親義会館」での3食の炊き出しなどを行っています。
現地では-4℃という大阪では考えられない気温の日もあるなかでの、屋外での炊き出しです。薪のあたたかさに皆が集まってくる感覚が伝わります。現地の社会福祉協議会がコーディネートされたボランティア6~7名も協力してのJAFSの活動。はるばる大阪から来てくださったと、感謝される被災者の声が紹介されました。炊き出しを遠方から寒い中取りに来るのが大変な人たちのために、急遽いくつかの拠点に大なべで配達することにするなど、状況にあわせた細やかな対応が理解できました。橋本理事が、あらためて暖かいご飯と温かい味噌汁のある幸せを強調されておられたのが実感できました。3食の炊き出しの食材の調達にも苦労された様子です。なんとまだ夜も明けず暗い朝4時半の起床、遠方のスーパーへの食材の買出し。メニューも工夫して豚汁、かす汁、散らし寿司、現地の郷土料理、味付けは向こうの人たちに合わせて塩味濃い目にしたり、おやつのプリンなど、栄養と安らぎを考えておられました。毎回400食分の炊き出し、本当にお疲れ様でした。
会館は小さくて40人ほどで避難生活。あとは倒壊を逃れた自宅などで生活されている360人ほどへの炊き出し。実は家を失った人々を助かった家族が自宅に受け入れておられるそうです。なかには10人以上で今住んでおられる家もあるそうです。このような現地のかたがたの助け合いも報告されました。皆さん本当に困っているはずなのに、あれが欲しいこれが欲しいといわずに我慢強く遠慮がち。でも少しずつお話が聞けるようになってきたそうです。
ライフラインの破壊されたなか、昔使っていた井戸(!)を再び探して活用したり、マキを割って火をおこしたり、プロパンガスの利用とか、年配の方々の昔のローテクの知恵が役に立った、田舎だから対応できたのでは、もしこれが大都会だったら・・・という精米会社のかたのお話も印象的でした。
グリーンスカウトのタケさんのお話のなかにあった、茜ちゃんというバレーボール部のキャプテンである高校生が、老人施設の被災者の遺体を見つけ出す作業の手伝いまでもするという壮絶な体験をしつつ、障害のある弟の世話もしつつ、多くの友人たちを失う悲しみのなかでも必死に生きている姿を聞いて、本当に身近ないとおしい人のように感じられました。高台にあった志津川高校は津波で破壊された町を見下ろすところにあります。3月11日地震と津波当日に部活をしていた生徒は助かりました。自宅にいた友人が亡くなった遺体が発見されて、泣いて悲しみのふちにあった茜ちゃんに、タケさんが一人じゃないからといって、リストバンドを渡され、慰められたそうです。応援メッセージつきのリストバンドでの支援、皆に呼びかけたいと思います。私がネットで調べてみたら、高校は数百人の避難所となり、校庭にはSOSの文字が大きく描かれていたのが、上空から撮影されていたのが報道されていました。私も記憶にあります。現在は避難所となっていて学校として使えないため、他の学校を間借りして新学期はスタートしたと記事検索で見つけました。
(株)東洋精米機製作所のお二人、トラックを出してくださった堺南運輸株式会社の社長さん、一緒に協力してくださったことに感謝し、ともに喜び合えた報告会でした。スマトラ沖地震にさいにも海を越えて駆けつけたJAFSの横山浩平さんをはじめ、ミャンマー水害のときに米を運んでいった永井博記さんなどJAFSには被災地支援の経験の豊かな積み重ねと人材があります。参加者の中には第三陣以降の参加予定者も何人かいて、頼もしく思いました。また、足湯、絵本の読み聞かせなど、支援の内容にも細やかで豊かな広がりが出てきたとのこと。現地の状況は集団での移転問題も含め、刻一刻と変わっていきますが、それに対応しながら今後も支援を続けていくとのことでした。物をポンと置いていくのではなく、1000食分を一度にポンと奮発してそれで終わりではなく、被災者の生活に寄り添って、我慢強く控えめな東北の方々のニーズにじっくりと耳を傾けながら活動を持続していく。報告会のお話を聞いて、今後の長期的支援に、現地にいけない私たちは、あらためて後方支援を続けてゆきたいと思いました。( 田中愛子 )