ウクライナ戦争は櫻井ジャーナルさまが詳細を述べています。2022/04/24
イタリアでは
ウクライナ戦争はアメリカとロシアの戦争だと
普通に話されているみたいです。
⭕️#31 日本のメディアが意図的に話さない重大な事とは?
https://www.youtube.com/watch?v=0H9sr-MuxAg
コロナ禍は潮時で、
次はもっとすんごい‼️惨禍です。
ネットは2014年をマイダン革命として我々の頭の中を混乱させていますが、
オレンジ革命は2004年に始まりました。そして2014年までがオレンジ革命です。
なぜ?2004年をすっ飛ばすのかはこれから考えます。何か?隠したいんですね。
オトポール革命はシカゴの学者が百ページにも満たないマニュアル本にしています。
シカゴとゆーんでしょうからシカゴ学派なんでしょうね。
オトポール革命は最後の仕上げが武力で権力を奪い取ることです。◀︎これが2014年です。
マイダン革命はネットでは権力奪取のみを説明することに使われているようです。◀︎クーデターの意味ですね。
マイダン広場(ウクライナ・ナチス・アゾフ大隊兵の銃撃)で行われた狭い意味しかマイダン革命の名前は意味しないことがわかりました。
画像 オトポール革命(オレンジ革命)
私は此の時点(2014年)でアゾフだとはちぃ〜とも知りませんでした。
ウクライナナチス・アゾフです。ネットではアゾフだとは一言もありませんでした。
情報機関員は既に知っていたんです。
ネットでは此れをマイダン革命と言っています。ただの?クーデターだと我々に思い込ませています。これぞ❗️モッキンバードです。
↓↓↓マウリポリのロシア軍制圧記事(4月22日)も我々にそうなのか?と納得させます。
ネットでは2014年からの8年間でロシア系ウクライナ人1万5000人が虐殺されたと述べていますが、
かつてヒトラーが侵攻した際に、ユダヤ人90万人もそうしたことになっている‼️ことがわかりました。◀︎彼らが内部対立を惹起する為のものだと思われます。これは勉強が必要です。私もこれから勉強します。
長い文章で読み切るのに苦労しますが頑張って読んでください。
2022.04.24 XML
米英金融資本とナチスの緊密な関係
2013年11月から14年2月にかけてアメリカのバラク・オバマ政権はウクライナでクーデターを実行、ビクトル・ヤヌコビッチ大統領を排除することに成功した。ヤヌコビッチは選挙で選ばれた大統領であり、言うまでもなくクーデターは憲法を否定する行為である。このクーデターを否定しない人物が「護憲派」を名乗ることはできない。ヤヌコビッチは2004年から05年にかけての「オレンジ革命」でも排除されたが、この「革命」を仕掛けたのはアメリカのジョージ・W・ブッシュ政権だ。
オバマ政権はクーデターを実行するため、ネオ・ナチを戦闘員の主力とする「右派セクター」を使った。この組織はドミトロ・ヤロシュとアンドリー・ビレツキーが2013年11月に組織している。
そのヤロシュは2007年にNATOの秘密部隊ネットワークに参加したと言われている。その年の5月に欧州のネオ・ナチや中東の反ロシア・ジハード主義者を統合するための会議がウクライナのテルノポリで開かれたが、その議長をヤロシュが務めている。
ウクライナのネオ・ナチはステパン・バンデラを信奉している。バンデラはOUN(ウクライナ民族主義者機構)のメンバーだったが、この組織は1938年5月に指導者のイェブヘーン・コノバーレツィがソ連の工作員に暗殺されると分裂、反ポーランド、反ロシア感情の強いメンバーはバンデラの周辺に集まった。
ウクライナをドイツが占領していた時代、OUNはドイツと結びついて「汚い仕事」を引き受けた。当時、ウクライナでは90万人のユダヤ人が行方不明になったとされているが、それもOUNが行ったと言われている。
1941年3月になるとOUNの内部対立は頂点に達し、OUN-M(メルニク派)とOUN-B(バンデラ派)に分裂、ドイツはOUN-Bへ資金を提供し、バンデラ派のミコラ・レベジはゲシュタポ(国家秘密警察)の訓練学校へ入っている。ドイツ軍がソ連へ攻め込んだバルバロッサ作戦が始まったのはこの年の6月。ドイツ軍はウクライナのリビウへ入った。
リビウを制圧したドイツ軍とウクライナ人は6月30日から7月2日にかけてユダヤ人の虐殺を開始、犠牲者は4000名から8000名だと推測されている。対象地域をウクライナ西部に地域を広げると、7月に殺されたユダヤ人の数は3万8000名から3万9000名に達するという。(Grzegorz Rossolinski-Liebe, “Stepan Bandera,” ibidem-Verlag, 2014)
8月になるとゲシュタポは暴走を始めたOUN-MとOUN-Bなどウクライナの「ナショナリスト」を摘発し始め、12月にOUN-Bは1500名のメンバーがナチスに逮捕されたと発表している。メルニクを含めて約2000人が逮捕されたともいう。(前掲書)
ドイツ軍は1941年6月にソ連への軍事侵攻を開始している。「バルバロッサ作戦」だ。西側には約90万人だけを残し、310万人を投入するという非常識なものだったが、これはアドルフ・ヒトラーの命令。西側から攻めてこないことを知っていたかのようだ。
ドイツ軍は7月にレニングラードを包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達した。10月の段階でドイツだけでなくイギリスもモスクワの陥落は近いと考えていたのだが、12月にソ連軍が反撃を開始、年明け直後にドイツ軍はモスクワで敗北してしまう。ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入するが、ここでもソ連軍に敗北、1943年1月に降伏。この段階でドイツの敗北は決定的になった。
1943年春になるとOUN-Bの戦闘員はUPA(ウクライナ反乱軍)として活動し始め、その年の11月には「反ボルシェビキ戦線」を設立した。ゲシュタポから摘発されていたはずのOUNやUPAの幹部だが、その半数近くはウクライナの地方警察やナチスの親衛隊、あるいはドイツを後ろ盾とする機関に雇われていたと考えられている。(前掲書)
ドイツ軍の敗北を見てアメリカとイギリスは慌てて動き出し、この年の7月に軍隊をシチリア島へ上陸させた。シチリア島を含むイタリアで支持されていたコミュニストへの対策ということもあり、アメリカの情報機関はこの時にマフィアからの協力を得ている。
アメリカやイギリスの支配層、つまりウォール街やシティの住人はナチスを手先と考えていた。ナチスの戦争犯罪を研究しているアメリカン大学のクリストファー・シンプソンによると、1920年代後半にアメリカからドイツへ融資、あるいは投資という形で多額の資金が流れている。ヨーロッパ大陸全域でアメリカの投資額が激減している中、1929年から40年の間に約48.5%増えているのだ。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995)
アメリカからドイツへの投資は限られた金融機関を通して行われていた。その中心になっていたのがディロン・リードとブラウン・ブラザーズ・ハリマンだ。
ドイツへ資金を流すため、1924年にユニオン・バンキングが設立されるが、その重役にはプレスコット・ブッシュやW・アベレル・ハリマンが含まれている。ブッシュとハリマンはいずれもエール大学でスカル・アンド・ボーンズという学生の秘密結社に所属したいた。
プレスコットが結婚したドロシーの父親はウォール街の大物、ジョージ・ハーバート・ウォーカー。プレスコットは1924年、ウォーカーが社長を務める投資銀行A・ハリマンの副社長に就任、ウォール街でも名の知られた存在になる。そうしたことからウォール街の弁護士だったアレン・ダレスと親しくなる。プレスコットの息子、ジョージ・H・W・ブッシュがCIA長官に就任するのは必然だった。
こうしたウォール街人脈にとって、1932年のアメリカ大統領選挙の結果は衝撃だった。ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。そこでJPモルガンをはじめとするウォール街の住人たちはクーデターでニューディール派を排除し、ファシズム体制を樹立しようとした。
クーデターの司令官を誰にするかについてウォール街の住人たちはパリで協議、選ばれたのはスメドリー・バトラー退役少将だった。軍の内部で圧倒的な人望があり、この人物を抱き込まないと計画を成功させられないと判断したからのようだ。
しかし、JPモルガンはバトラーがラディカルすぎると考えて嫌っていたという。この金融機関が考えていた人物は陸軍参謀長だったダグラス・マッカーサー。この軍人が結婚したルイス・クロムウェル・ブルックスの母、エバ・ロバーツ・クロムウェルが再婚したエドワード・ストーテスベリーはJPモルガンの共同経営者だった。
ウォール街の住人はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。フランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」のような50万名規模の組織を編成して政府を威圧、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の重責を引き継ぐとしていた。こうした計画を聞き出した上でバトラーはカウンタークーデターを宣言、議会で告発している。(Public Hearings before the Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, 73rd Congress, 2nd Session)
バトラーはその一方、信頼していたフィラデルフィア・レコードの編集者トム・オニールに相談、オニールはポール・コムリー・フレンチを確認のために派遣する。フレンチは1934年9月にウォール街のメンバーを取材、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があるという話を引き出した。(Jules Archer, “The Plot to Seize the White House,” Skyhorse, 2007)
その後、ルーズベルトは1936年、40年、そしてドイツや日本の敗北が間近に迫っていることが明らかだった44年の選挙でも勝利する。戦争が終われば、ウォール街とナチスとの関係が調べられ、責任を問われることも予想されたが、45年4月12日に急死してしまった。そして始まるのが「赤狩り」、つまり「反ファシスト派狩り」だ。
第2時世界大戦の終盤、ドイツの敗北が決定的になるとアレン・ダレスたちはナチスの幹部と接触し始める。サンライズ作戦だ。その後、アメリカの軍や情報機関はナチスの幹部や協力者を逃走させ、保護、そして雇用する。つまりラットライン、ブラッドストーン作戦、ペーパークリップ作戦などだ。
ドイツでナチスが権力を握る頃からウォール街はファシストと緊密な関係にあった。その関係は大戦後も続き、ウクライナでもその人脈が生きている。
そうした実態を新聞、出版、放送、映画、最近ではインターネットを支配するハイテク企業が封印、事実と違うイメージを広めている。ナチスは人びとの抱くイメージをコントローするすため、啓蒙宣伝省を設立していた。その機関を動かしていたのがヨーゼフ・ゲッベルスだ。啓蒙宣伝省を「民営化」すると西側の有力メディアになると言えるだろう。
2022.04.22
反クーデター派の住民が多いマリウポリをロシア軍が制圧
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ウクライナ東部にあるドネツク州のマリウポリをロシア軍が制圧したようだ。ドネツク州とルガンスク州を合わせてドンバスと呼ぶが、この地域を含むウクライナの東部と南部は歴史的な経緯からロシア語を話す住民が多く、ロシアに親近感を抱いている。そのドンバスを支配していた親衛隊の主力、アゾフ大隊(アゾフ特殊作戦分遣隊)はネオ・ナチによって編成された。
本ブログでも繰り返し書いてきたように、ウクライナの内戦は2013年11月から14年2月にかけてアメリカのバラク・オバマ政権が実行したクーデターから始まる。その際、ホワイトハウスで指揮していたのが副大統領だったジョー・バイデン、現場で指揮していたのが国務次官補を務めていたビクトリア・ヌランド。戦闘員の主力はネオ・ナチで組織された「右派セクター」だ。
右派セクターは2013年11月、ドミトロ・ヤロシュとアンドリー・ビレツキーによって編成された。ウクライナはNATO加盟国でないが、ヤロシュは2007年にNATOの秘密部隊ネットワークに参加。その年の5月に欧州のネオ・ナチや中東の反ロシア・ジハード主義者を統合するための会議がウクライナのテルノポリで開かれたが、その議長をヤロシュが務めている。その当時、アメリカのNATO大使を務めていた人物がヌランドだ。
クーデターで倒されたビクトル・ヤヌコビッチ大統領は東部と南部を地盤とする政治家。2004年から05年にかけての「オレンジ革命」でもアメリカのジョージ・W・ブッシュ政権はヤヌコビッチを大統領の座から引きずり降ろしている。
クーデターでヤヌコビッチは排除されたものの、東部や南部の住民はクーデターを認めず、抵抗を始める。それに対し、オバマ政権はCIAやFBIの専門家数十名を顧問として送り込み、傭兵会社「アカデミー(旧社名はブラックウォーター)」の戦闘員約400名をウクライナ東部の制圧作戦に参加させたとも伝えられた。
クーデター派の攻撃に対抗するため、クリミアの住民はロシアと統合する道を選ぶ。3月16日にはロシアとの統合を求める住民投票が実施され、80%以上の住民が参加、95%以上が加盟に賛成している。この迅速な動きのおかげでクリミアの住民は平穏な生活を送れた。
4月12日にCIA長官だったジョン・ブレナンがキエフを極秘訪問、その2日後にクーデター政権は東部や南部の制圧作戦を承認する。22日にはジョー・バイデン米副大統領がキエフを訪問、その直後から軍事力の行使へ急速に傾斜していった。
そして5月2日、オデッサでは反クーデター派の住民が虐殺される。住民を殺したグループの中心は右派セクターだった。サッカーのフーリガンを挑発して住民が集まっていた広場へ誘導、住民を労働組合会館へと「避難」させ、その中で住民を虐殺したのだ。このとき50名近くの住民が殺されたと伝えられているが、これは地上階で確認された死体の数にすぎな図、地下室で惨殺された人を加えると120名から130名になると現地では言われていた。
一方、ドンバスではクーデター政権と反クーデター派との戦闘が始まる。旧ソ連圏ではドイツとの戦争に勝利した記念日である5月9日を人びとは祝っていた。その日を狙い、クーデター政権はマリウポリに戦車を突入させ、住民を殺しはじめたのだ。6月2日にキエフ政権はルガンスクの住宅街を空爆、住民を殺しているが、その日、デレク・チョレット米国防次官補がキエフ入りしていた。OSCE(欧州安保協力機構)も空爆があったことを認めている。
クーデター後、ネオ・ナチと戦ったベルクト(警官隊)は解散させられ、隊員は命を狙われている。相当数のメンバーがロシアに保護を求めたり、ドンバスの反クーデター派に参加したと見られている。軍や情報機関の内部にも離反者は少なくないだろう。
クーデター直後にSBU(ウクライナ保安庁)の長官に就任したバレンティン・ナリバイチェンコは以前からCIAに協力していた人物で、前任者のアレクサンドル・ヤキメンコによると、第1副長官時代に隊員の個人ファイルをCIAに渡していたという。
今回、ロシア軍が制圧したマリウポリは反クーデター派が多い地域であり、2014年以降、ネオ・ナチに占領されていたのである。ロシア軍に救出された住民は異口同音に、アゾフをはじめとする親衛隊が住民を人質にするだけでなく拷問し、虐殺してきたと証言している。
ロシア軍のマリウポリ制圧は戦略上、重要な意味があるが、それ以上にバイデン政権が恐れているのは住民の証言だろう。配下の有力メディアを使って流してきた作り話がバレてしまう。こうした証言を無視すると同時に新たな大きな嘘をつかざるをえなくなるだろう。
自国民を虐殺するナチス=アゾフ隊 ◀︎女性二人の画像
https://twitter.com/akahiguma/status/1513716535772151811