和泉の日記。

気が向いたときに、ちょっとだけ。

S

2022-07-14 16:35:47 | 小説。
男であることは許されざる罪なのだ、とその人は言った。

幼い頃、いつもの公園で彼と出会った。
子供に優しく、私達はいつの間にか仲よくなっていた。
・・・というのは、一方的な思い込みだったかも知れないが。
アニメの話、小学校の話、お母さんの話。
つまらないだろう私の話を、彼は楽しそうに聞いてくれた。

自分のことはあまり話さないのだな、とある時気付いた。
お兄さんの話を聞かせて、と強請ったのが、私達の関係の最後だったと思う。

彼は、とても辛そうに笑って、僕は無職なんだよと言った。
無職で、独身で、身寄りもないと。
当時の私にはよく意味が分からなかったが、悲しいんだろうなと思った。
私にできることはある? と問うと、彼は思い詰めたように、協力して欲しいと言った。

僕が君を誘拐したことにして欲しい。
――狂言誘拐である。
私は、かくれんぼの延長のようなものだと思って、いいよと言った。

そこから、手をつないで彼の家へ行った。
普通のアパートだった。
私の家と同じくらいの広さ。
今考えると、とても一人暮らしとは思えない。
直近まで家族がいた気配があった。
おそらく、両親またはいずれか――。

これは勝手な想像だが、彼は親の介護をしていたのではないか。
そのために仕事を辞めるしかなく、そしてその甲斐なく親は他界してしまった。
介護ベッドや散乱した多すぎるタオル類など、そう思えなくもない。
その生活がどれほどの長さだったのかは分からない。
しかし、再就職が許されない程の長期間であったことは想像に難くないだろう。

そして彼は、私の家の電話番号を聞き、そこへ電話をかけた。
おそらく、脅迫電話。
彼の優しい声は、それとはとてもかけ離れている。
とはいえ、誘拐を仄めかす内容であるから、両親は困惑しただろう。
そこから少し話をして、彼は電話を切った。

もうすぐ警察の人が来るからね、とやはり優しく私に言う。
警察には、誘拐された、殺されそうになった、と証言して欲しいと。

それが何の「協力」になるのか、当時の私には分からない。
殺されそうになったなんて、全くのデタラメじゃないか。
優しいお兄さんに付いていって、楽しく話して、お菓子を貰った。
それが全てだ。

彼は困り顔で、お願いだよ、と言った。
そんな顔をされては敵わない。
それもひとつの遊びなのだなと飲み込み、分かったと頷いてしまった。

あとは、いつも通りおしゃべりをして過ごした。
自分のことと彼のこと、交互に話そうと提案した。
彼の話は当時の私にはよく分からなかったが、今になれば悲鳴だったことに気付く。
誰にも聞こえない悲鳴。

やがて警察が訪れ、乱暴に私を連れ去った。
誘拐というなら、こちらの方が誘拐らしい。
しかし私は泣くのを我慢しながら、誘拐された、殺されそうになった、と呟いた。
取り調べは実にスムーズだった。
私はただ前述の呪文を繰り返すだけでよかった。

恐ろしい程あっさりと彼は逮捕され、その後有罪となったと聞く。
私の両親は私の無事を心底喜び、犯人である彼の逮捕に安堵していた。
この人達は何も分かっていないのだなと思った。

――結婚式を翌日に控えた今、私はあの頃を思い出す。
彼は、生きていくすべを絶たれ、刑務所に入るしかなかったのだ。
だけど、彼は優しい人だから。
誰にも迷惑をかけたくなくて、あの狂言誘拐を企んだ。
周りからはPTSDなどを心配された私だが、何一つ傷など負っていない。

彼の目論見は異常なくらい上手くいった。
弱者である彼を、警察は一切信用せず、擁護せず、容赦しなかった。
彼は社会に殺された。
何という遠回りで、確実な自殺。

振り返ると、私は自分が女であることが申し訳ないと思ってしまう。
私は明日から専業主婦となる。
実入りのいい旦那の稼ぎで安全に暮らしていく。
彼とは何と対照的なことだろう!

私はこれまでも、そして明日からも幸せに生きていく。
その幸運が、吐き気を催す程厭だった。

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