大きな木には神が宿るといわれますが、実感出来ます。本川のOさんの持ち山の中、で一番大きな木だそうです。二本の大木と、苔むした大きな岩。何かが存在すると、肌で感じます。彼はそこに小さな祠を置いて祭っていました。その気持ちもよく分かります。そんな樹を、効率が良いと言うだけで、小さく挽いて集成材や合板を作って家を建て、木の家と言うのは、私には抵抗があります。木はあまり加工しないで使う方が、美しいと感じるし、長く付き合える。自然のままの木の形を生かし、昔の民家は作られている事が多い。その方が強度もあったし、製材機械がない時代、合理的だったのだろう。今私が感じることは、プレカットは合理的で、木の形そのままに家を立てる事が、今は不合理のように言う人がいるが、人口減の時代、あまり薄っぺらな消費前提の住宅を、建てるべきではないのではないかと感じています。
久しぶりに、FSCの取り組みをしている、檮原町森林組合に行って来ました。今回は、東京から「夢の丸太小屋に暮らす」の取材があり、案内役で来ています。檮原町は、高知大学の学生と、ツリーハウスを作った時、大変お世話になりました。取り組みが、民間と変わらずスピード感があり、違和感無く付き合える所が魅力です。
リサイクル、リディユース、リユース、の看板も年季が入って来ていました。森林資源を有効活用しようと、真剣に取り組んでいるところの話を取材しました。あっと言う間に時間が過ぎ、次の取材のため、四万十市へ移動。宮崎君達が取り組む、四万十モリモリ団の取材に行きました。森林組合と違い、誰でも山に簡単に入り、山の取り組みをしている団体です。
なんと、TVドラマ「遅咲きのひまわり」の主人公の家は、宮崎君の貸コテージで、佐田の沈下橋のほとりの、最高のロケーション。その近くに彼らが活動する山もあり、そこを取材しました。若い彼らが真剣に、長く取り組めれば、森林組合とは違った形の、山の取り組みができるのではと、少し希望も持てる取材でした。詳しくは、次号「夢の丸太小屋に暮らす」を買って読んでください。
今日は雨。台風が近づき明日も大荒れの天気予報。仕方が無い。泣く子と、地頭には勝てない。台風が去るのを待つのみです。台風が来るのを見越して、先日の日曜日、雨の中カヌーを積んで仁淀川に行って来ました。小雨の降る中出発。
直ぐに水墨画の世界へ。誰もいない幸せ。仁淀川を独り占め。何時も思うのだが、高知の人の、川への関心度の低さには驚き、感謝する。おかげでこの絶景を独り占め出来るのだ。
水質、連年の日本一の大河。浅瀬に来ると、空を飛ぶような錯覚。水量も多く、流れは速い。快適でした。
一番の難所、鎌井田の瀬を何とかクリアー。カナディアン半分水没したので水を出し、お昼御飯。メニューは何時もの、爆弾おにぎりとカップラーメン。ともかく旨い。後ろに見える瀬を見ながら、先ほどの戦いを振り返る。挑戦し、クリアー出来た達成感が凄い。
少し行くと、初めての集落が沈下橋越しに見える。越知から国道までの間に見える人家はほとんどないのが良いのだが、民家があるとほっとする。
幾つもの瀬を越え、一日水墨画の中で過ごし、充電完了。晴れのツーリングも良いのだけれど、小雨のツーリングはもっといい。正し、防水ハットと、透湿性のあるカッパは必需品。後防水バッグも。川を下って感じた事は、道路が良くなったのは良い?のだけれど。人工物のガードレールや、コンクリートのよう壁を作る時は、川から見た時の景観も考えて作って欲しい。せっかく日本一の川なのに、日本一の気づかいをして、工事をして欲しい。予算が無いの言い訳は聞きたくありません。日本一の川を、世界一の川に、育てて行きましょう。まだまだ高知の川は豊です。宝物を次世代に引き継ぐ事は、県民の意思に掛かっています。もっと川で、山で遊びましょう。
愛南町のサンルーム増設の為、デッキ撤去工事に行った時、黒漆喰のMさんが、庭にテーブルと椅子を設置したと言うので見て来ました。木で作ってと言われたのだが、屋根がないので、早く傷むからと断った経緯があります。石も風雨にさらされ、少しずつ変わって行く素材です。ずーっとこの家と共に、良い感じに錆びて行く事でしょう。変化を楽しみたいと思います。
木の家を建てると補助が出るシステムが、最近多いのですが、構造だけ木を使い、仕上げる家が多いのには、何か詐欺的な感じを覚えるのは、私だけでしょうか?家の中に使っている仕上げ材に、地元の素材は見当たらない家に、補助を出すのは、安易過ぎると感じています。山を活性化したいのなら、本当にかっこいい、地元の素材を使った家を建てるべきで、外部にサイディングを貼ったり、シックハウスになるようなクロスを貼る様な家に、補助を出すべきではないと考えています。安くを大義名分にしていますが、地元に仕事を作れない様な家は、結局地元の経済を、ますます貧しくしてしまいます。建築と言う仕事はゴミを作ると同義語です。人口減により、拡大より縮小均衡の方を目指さざる得ない日本においては、大量生産は時代遅れだと感じています。造る側もそうですが、施主自身も、将来ゴミを作らない素材を使うように考える事が、当たり前の時代だと感じるようになって欲しいし、ならなくてはいけない。
「火中の栗を拾う」と言う、ことわざがあったが、昨日いの町へ、鍵を渡しに行った時、水中の栗を、拾を拾いました。栗が、南側の吉野川に落ちた物を拾ったのだが。網を用意してくれたので、魚を取る物と思っていたのだが、水中に沈んでいる栗を、網ですくって取る物だった。手前に見える木が栗の大木。手前の崖下は南なので、栗も大きく上等な物ばかかり。沈んでいるのは虫に食われていない、100パセントの確立で実の入った良品ばかり。川で、悪い物は流れ、良い物だけ沈んでいる。理にかなった収穫法だ。トゲも無く、綺麗に洗った状態。素晴らしい収穫方法でした。
川の中の、柳の生えている所は小魚が一杯で、小さな木一本で、大きな役目を担っているのを見ると、自然の大切さが理解しやすい。この木一本の周りに、小さな魚が数百匹生活している。木の持つ役目は間接的に人間に大きな利益をもたらす事が良く分かる。