社会を見て、聞いて、感じる。

人生そのものがフィールドワーク。

4月12日(金) 標準の給食とは。

2024年04月15日 17時02分08秒 | 2024年

 6時半起床。

 朝食はソイプロテイン。

 妻を見送ってから、娘を登校班の集合場所まで見送る。保育園の頃は朝の送迎は妻の担当で、その後1人でゆっくり食事の後片付けやゴミ出しが出来たのだが、今後はそれらを終えた上で娘を見送ることになる。慣れるまでしばらくはバタバタするだろう。

 集合場所には、同じ1年生のお子さんのご両親や、上級生のお母さん方もいらっしゃっていた。

 登校班が出発後、しばらくは同じ道を後ろからゆっくり追いかけ、途中で駅のほうへ分岐する。他の班の子どもたちを見ると、お子さんの横に並んで歩く新入生の親御さんの姿も見かけた。気持ちはよくわかる。

 9時前に出勤。

 来週の大きな会議の準備を終える。これで一安心。あとは当日、頑張って説明するだけである。

 昼食は、ビストロ酒場「MEATkitchen MEとYOU」へハンバーガーを食べに行く。

 個人的にこの店名の付け方は好きだ。店主さんの明るい性格がよく出ていると思う。

 飲み物はレモンソーダ。

 黒ベーコンチーズバーガーを食べる。パティよりベーコンの存在感がすごい。

 味でもベーコンが強い。とても美味しいが、主役はやはりパティであって欲しいかなとも思う。

 午後はまったりモード。若干の急ぎ案件もあったが、日々のルーティンと先々の自分を楽にするための前倒し作業を進めることが出来た。

 定時で退社し、民間学童へ娘をお迎えに行く。娘はキッズ(放課後キッズクラブ)もこの民間学童も楽しいようで、今日もとても良い笑顔で先生とお喋りしながら部屋を出て来た。

 帰り道、今日が初給食だった娘に感想を聞いたら、「少なかった」とのこと。ご飯の量もおかずの種類も、保育園の給食のほうが多かったそうだ。また、おかわりも出来ないそうで、「あれじゃちょっとお腹空いちゃうよ」とのこと。これは学校給食がケチなのか、保育園の給食が充実していたのか、どちらだろうか。

 駅前から自転車に乗り、しばらく走ったところで保育園の先生にお会いする。娘がニコニコでお喋りしており、微笑ましかった。

 久しぶりにパントラックに寄る。娘がわざわざランドセルを背負い直してお兄さんに見せ、すごく褒めてもらってご満悦な表情を見せている。ありがとうございます。

 18時過ぎに帰宅。おやつにパントラックのメロンパンを半分食べさせてから、妻が帰って来る前に入浴を済ませる。

 妻が帰宅後に夕食。写真を撮るのを忘れたら、何を食べたのか思い出せない。

 娘と一緒に学校から持ち帰ったものを確認し、提出が必要な書類を書いてしまう。このタイミングで書いておかないとあっという間に月曜日の朝になってしまうような気がする。

 洗濯を済ませ、娘を寝かしつける。

 夜食に、パントラックで買ってきたピザパンを食べる。

 日付が変わる頃に就寝。


4月11日(木) おばあちゃんありがとう。

2024年04月14日 15時00分00秒 | 2024年

 6時半起床。

 朝食はソイプロテイン。

 身支度を整え、8時に家を出る。今日は父方の祖母のお葬式(お別れ式)である。

 首都高に乗り、埼玉方面へ。それなりに渋滞はあったものの、思っていたよりは順調…と思いきや、下道へ下りる手前から娘が「早く降りたい」とぐずり始め、その後嘔吐してしまった。乗り始めてから1時間半が経過していたので単純に飽きてきたのかと思っていたのだが、気付いた時にはもう止められなかった。もっと早くに気付かず、申し訳ない。

 一旦実家に避難し、娘と(流れ弾を浴びた)妻の着替えをする。娘の洋服は上着がなく、大人用のパーカーを羽織っている。

 無理をさせてはいけないので、妻と娘には実家で休憩してから電車で帰ってもらおうと思ったのだが、従兄弟たちに会えるのを楽しみにしていた娘が「行きたい」と言うので、当初の予定通り3人で出席する。斎場が実家から歩いてすぐのところにあって助かった。

 祖母の顔をゆっくり眺め、お線香を上げてから、納棺式を始める。納棺師さんに案内して頂きながら、末後の水、湯かん、死装束の準備を参列者全員で執り行う。その後、納棺師さんがお化粧をしてくださり、全員で納棺。記憶にある限りここまで本格的な納棺式は初めてだったが、じっくりお別れが出来る貴重な時間だったし、娘にも体験させられたのは良かったと思う。

 柩に副葬品を入れ、お花でいっぱいにする。私は秩父三十四観音霊場の納経帳と、祖母の好きだったチョコパイなどのお菓子を入れた。先日の日記でも書いたとおり、菩提寺のせいでお経を上げることは出来ないが、これで極楽浄土へは行けるだろう。しかも、道中お腹が空いたとしても、施設に入所してからはなかなか食べられなくなっていた身体に良くないお菓子をたくさん食べられる。

 出棺後はすぐに火葬場へ行く予定だったのだが、母と妻が一旦実家へ荷物を取りに行くと聞いた葬儀社の方が、「せっかくなので霊柩車も一緒に伺って、おばあ様にご自宅とのお別れをして頂くのはどうですか」と提案してくださり、お言葉に甘える。ありがとうございます。

 火葬場までは車で約30分。霊柩車の後に続いて移動する。娘の車酔いが心配だったのだが、弟家族の車に乗せてもらい、従兄弟たちと一緒に恐竜のDVDを観ながらご機嫌に過ごしたそうだ。

 祖母と最期のお別れをする。これまでの感謝をしっかり伝えることが出来た一方で、生きている間に伝えるべきだったなという後悔もある。こればかりはどうしようもないのだが。

 火葬が始まってから施設の外へ出て、こっそり手元に残しておいたチョコパイを食べながら祖母を見送る。煙が見えるかなと思ったが、やはり今時の施設は集塵機能がしっかりしている。

 火葬中に精進落とし。お弁当がちゃんと美味しい。子どもたちのお弁当も豪華でとても喜んでいた。

 1時間強で火葬を終え、お骨上げ(収骨)。1度目は妻と、2度目は娘と一緒に拾う。娘は怖がるかと思ったが、興味津々といった様子で参加してくれた。

 今回、祖母の死を通して娘に「死者を弔う」ということを体験させられて良かった。この先、娘からすると祖父母や父母(私たち)を亡くすという経験をするだろうが、そのひとつひとつが彼女の人生の糧になるだろう。もちろん、私自身もまだその過程にいる。「死」は避けられないし、怖くて悲しいものだが、遺された者にとっては意味のある経験である。

「遺産なき 母が唯一のものとして 遺しゆく死を 子らは受け取れ」(中城ふみ子)

 火葬場から直接帰途につく。妻と娘を最寄り駅まで送り(車酔い対策のため電車で帰ってくる)、1人で首都高に乗る。

 15時半過ぎに帰宅。1時間ほどかけて、レンタカーの車内を掃除する。どうなるものかと思ったが、シミや臭いもしっかり消せたと思う。

 妻と娘が帰宅する。駅前のミスタードーナツでおやつを買って来てくれた。

 レンタカーを返却しに行く。店舗の方に娘の嘔吐について説明・謝罪し、車内も確認して頂いたが、大丈夫とのこと。ありがとうございます。

 娘の担任の先生から電話を頂き、お悔やみの言葉と今日学校で行ったこと、明日の持ち物などについてなどを教えて頂いた。ご丁寧に、ありがとうございます。

 入浴を済ませてから夕食。あさりのお味噌汁が美味しい。

 鮭も脂がのっている。あさりも鮭も生協で届いたものだ。

 義父の畑で採れた春菊のベーコン炒め。新鮮だからだろうか、香り高くてとても美味しい。

 洗濯を済ませ、娘を寝かしつける。

 

 私は3歳の時に大阪から埼玉の今の実家へ引っ越してきて、それ以来社会人になるまで祖母と一緒に暮らしていた。頑固だったり非常識なところもあり、正直なところ善人だったとは言い難いが、私にとっては大好きなおばあちゃんだった。

 私は祖母からすると長男の長男ということもあって、孫たちの中でも特に可愛がってもらったと思う。父や母の言うことは聞かなくても、私の話には耳を傾けてくれるということも多かった。私が実家を出る時は本当に悲しそうにしていたし、たまに実家へ帰ると大喜びしてくれて、帰りも家の前の道まで出てきて私の姿が見えなくなるまでそこに立っていた。私が祖母の死の報せを聞いた時、真っ先に思い浮かんだのはその時の、道の曲がり角から遠くに見えた祖母の姿である。

 認知症を発症し、晩年の8年間は施設で過ごした。幸運にも認知症はそこまで悪化することなく、私たち家族のことは最後までしっかりと認識できていた。体調面でも健康そのものだったが、1年ほど前にコロナに罹患してから衰弱が始まり、最後はほぼ寝たきりの状態だった。直近で私がお見舞いに行った時もほとんど眠っていたが、それでも私に気付いた時には満面の笑顔だったし、手もしっかり握り返してくれた。

 少し前に一度危篤状態に陥ったこともあり(その時は何とか持ち直した)、私もその時が近いことは理解していたが、心の準備は出来ていなかった。祖母の死に実感が持てたのは、納棺式のおかげだと思う。祖母を棺に入れ終わって初めて、自然と涙が出てきた。

 祖母としっかりお別れが出来て良かった。良いお葬式だった。

 日付が変わる頃に就寝。


4月10日(水) 15年越しの出番。

2024年04月13日 08時02分07秒 | 2024年

 6時半起床。

 朝食はソイプロテイン。

 娘の見送りは在宅勤務の妻にお任せし、身支度を整えて家を出る。

 9時前に出勤。皆さんが温かい言葉をかけてくださる。ありがとうございます。

 昼食は、「K​itchen Van」(キッチンバン)へ。ランチにオムライスが登場している。

 サイドサラダも追加して頂いた。種類が多く珍しい野菜も入っているし、ドレッシングも手が込んでいる。

 オムライスの美味しさは言わずもがな。幸せな気持ちになる味である。

 定時で退社し、最短経路で新横浜まで戻ってきたが、明日の祖母のお葬式(お別れ会)のためにレンタカーを予約しているので、予約時間まで時間を潰す必要がある。

 せっかくなので軽く食事をすることにして、昔から気になっていたものの入る勇気がなかった洋食屋「四季彩」にチャレンジしてみる。

 このお店の売りは米沢牛のステーキとハンバーグということで、サーロインステーキとハンバーグのセットを注文。米沢牛にしては値段が安すぎると思っていたのだが、嫌な予感は的中した。サーロインステーキはステーキというより焼肉2切れだし、ハンバーグも赤ちゃんの拳くらいの小さなものだった。

 サーロインステーキではないが米沢牛ではあるのだろう、味は確かに美味しかった。一方で、ハンバーグは大量のスパイスが入っていて辛く、お肉の味がどうこうという状態ではなかった。悪くなったお肉を何とか食べようとする時の苦肉の策…ではないですよね。

 食事に失敗したので、「ポティエコーヒー」で口直し。

 キューバ産のクリスタルマウンテンという豆を選んだ。苦みは薄め、酸味はそこそこあり、飲みやすかった。

 レンタカーを借り、19時前に帰宅する。

 夕食はおかずだけ、鶏団子スープを食べる。鶏肉の出汁がよく出ていて美味しい。

 入浴と洗濯を済ませ、娘を寝かしつける。

 明日、祖母の柩に入れるものを準備する。祖母が好きだったチョコパイなどのお菓子を数点と、かつて私が秩父三十四観音霊場を巡礼、結願した納経帳(御朱印帳)である。秩父三十四観音霊場の多くは祖母(というか我が家)と同じ曹洞宗のお寺なので、菩提寺からの要請により読経が出来ない分、祖母に持っていってもらおう。

 久しぶりに中を見返してみる。発願したのは平成21年7月3日。

 結願したのは平成23年4月11日。秩父札所は秩父地域に密集しているので、2年弱で回りきっていた。ただ、山道で雪が降って車がガードレールに突っ込んだり、めちゃくちゃ良い温泉を見つけたり、良い出会いもあったり、印象的な体験は多かった。そして、少なくとも34回は真剣に般若心経を唱えた証でもあるので、これを持って行けば極楽浄土間違いなしだろう。

 日付が変わる頃に就寝。


4月9日(火) 埼玉のおばあちゃん。

2024年04月12日 00時00分00秒 | 2024年

 6時過ぎ、妻が電話をしている声で目が覚める。

 電話は私の母からだった。私は寝ている間はスマホを機内モードにしているので、連絡がつかなかったのだ。

 老人ホームに入っている(父方の)祖母の呼吸が止まった。早朝5時過ぎの見回りで呼吸が弱まっていることが確認され、その後6時過ぎに止まったとのこと。

 朝食はソイプロテイン。

 今日から登校班で登校する娘を集合場所まで送っていく。天気はあいにくの雨。しかも暴風雨である。大雨の中、同じく新1年生のお子さんのご両親と一緒に班長さんや他の上級生の皆さん、見守りに来ていらっしゃった保護者の皆さんに挨拶し、出発を見送る。妻は今日は在宅勤務なので、学校まで付き添って行ってくれた。

 私はそのまま駅へ向かい、電車の中から上司に休みの連絡を入れ、実家の近くにある祖母の老人ホームへ急ぐ。

 9時過ぎに到着。案内してくださった責任者の方からお悔やみの言葉を掛けられ、亡くなったことを知る。先述のように6時過ぎに呼吸が止まり、6時45分に正式な死亡診断が下りたそうだ。老衰により、享年94歳。大往生である。

 祖母の部屋には既に父と母、叔父、叔母、弟がいた。祖母はただ眠っているように見える。身体もまだ温かく、死んでいるとは思えない。しかし、当然ながら呼吸も、脈もない。顔を撫でても目を開けないし、手を握り続けても握り返してくれることはない。

 10時過ぎ、叔父が手配してくださった実家近くの葬儀社さんが祖母をお迎えに来る。祖母は2014年頃から認知症を発症し、2015年の年末に病院へ入院、その後この老人ホームに入居し、約8年間お世話になった。最後は職員の皆さんが勢揃いしてお一人ずつ手を合わせて拝み、とても丁寧に見送ってくださった。本当にお世話になりました。ありがとうございました。

 葬儀社さんへ移動して、お線香をあげる。それまであまり実感がわいていなかったのだが、お線香の香りで一気に現実味を感じるようになった。

 葬儀の打ち合わせにも参加する。石巻(宮城県)にある菩提寺からこちらで葬儀をする(お経を上げる)ことを許されなかったため、まずは明後日にお経なしのお別れ会を行うことになった。お経を上げない(お坊さんがいない)ことを除けば、一般的な家族葬である。私の希望(提案)も聞いてもらい、おくりびと(納棺師さん)をお願いし、納棺式から始めることにした。その日に火葬まで執り行い、四十九日のタイミングで石巻の菩提寺へお骨を持って行き、本葬・初七日・四十九日法要を行う。

 なぜお別れの流れを勝手に決められなければならないのか、なぜ火葬前にお経を上げられないのか、一体何様だよと思う。葬儀社の方も「今の時代ではかなり珍しいですね」と呆れていた。一応我が家は正式な檀家で、今は父がその役目を担っている(実態としては檀家料を払っている以外に何もすることはないが)。それを引き継ぐのは、長男である私だ。しかし、家族との最期のお別れをどのように進めるかという究極のプライベートに口を出してくるようなお寺は不要だ。私の代になったら即刻離檀する。

 お昼過ぎに打ち合わせを終え、帰途につく。最初は午後から会社へ出勤しようと思ったのだが、電車で座った瞬間に疲労感が襲ってきて、そのまま帰ることにする。

 新横浜まで戻ってから、駅ビルに入っている「串カツ田中」で昼食。

 ダメだ、全然味がしない。お店のせいではなく、私のメンタルの問題だろう。

 14時前に帰宅。娘は既に学校から帰宅しており、今日は義母がヘルプに来てくださっていた。妻は2階でテレワーク中だ。義母に温かい言葉をかけて頂き、今日起きたことをひとしきりお話ししたら、頭も整理できたし心も軽くなった。ありがとうございます。

 義母はたくさんの料理を作り、冷蔵庫を超がつくほど充実させてから帰っていった。我が家の救世主である。いつも本当にありがとうございます。

 帰りがけにスーパーで買ってきたチョコレートケーキを、娘と2人で食べる。祖母は甘いものが好きで、実家で暮らしていた頃はこういうケーキなどのお菓子をよく食べていた。私が家にいる時には私の分も買ってきてくれて、一緒に食べたものだ。認知症が始まってからはそんな甘いものへの衝動が抑制を失い、両親や私が管理しようとしてもいつの間にか買ってきて食べているという状態だった。その結果、入院前には糖尿病と診断されるほどになっていたが、施設に入って食事管理を徹底されるようになってからは一気に健康体へ回復した。だからこそ、94歳まで生きられたのだと思う。そんな祖母との思い出を娘に話し、「おばあちゃんがもう食べられない分、代わりに娘ちゃんとお父さんでケーキ食べようぜ」と誘ったのだ。ケーキを頬張る娘の笑顔を見ながら、ふと、私とケーキを食べていた祖母もこんな幸せな気持ちだったのだろうかと思った。

 妻が勤務を終えてから順番に入浴を済ませ、夕食。義母が作ってくださったクリームシチューを食べる。圧巻の美味しさである。

 洗濯を済ませ、一緒に明日の学校の準備をしてから、娘を寝かしつける。半日とはいえ、いきなりの大雨だったし、小学校の新しい環境で疲れたのだろう、あっという間に眠った。

 妻と今後のスケジュールについて話し合う。忌引きとはいえ、入学早々に娘を休ませるのはいかがなものだろうと思っていたのだが、最終的には明後日のお葬式(じゃなくてお別れ会)には3人で出席することにした。こういう言い方をすると霊安室の義母が渋い顔をしているかもしれないが、「死者を弔う」という貴重な経験をさせるいい機会である。

 23時半過ぎに就寝。


4月8日(月) 入学式。

2024年04月10日 08時02分07秒 | 2024年

 7時起床。

 朝食はソイプロテイン。

 今日は娘の小学校の入学式。学校の入口でクラス分けが発表されており、同じクラスに保育園のお友だちが3人いることがわかり、娘はとても嬉しそうにしていた。

 入学式はかなりシンプルなものだった。来賓の挨拶もなく、国歌斉唱と校長先生の挨拶、担任の先生の発表のみ。正味15分くらいだったのではないだろうか。一方で、保育園の園長先生が来賓でいらっしゃっていて、名前が呼ばれた瞬間に振り向いた娘の驚きと喜びの表情が微笑ましかった。

 写真撮影や明日以降の登校や持ち物に関する説明、教室へ移動しての担任の先生からの挨拶などを経て、11時前に終了となる。いつ来るかと構えていたのだが、PTAの役員決めなどはなかった。来月開催されるらしい授業参観・懇談会の場で行われるのだろうか。ちなみに、PTAの加入手続きなどもなかったが、おそらく自動で加入したことになっているのだと思う。

 妻と娘はお友だちと一緒に保育園へランドセル姿を見せに行くイベントがあるので、私は先に帰宅して配布された教科書への名前書きや提出書類の作成を進める。説明書きが色々な書類に散らばっていて、しかも書類によって説明内容が微妙に異なっていたりするので、無駄に時間が掛かった。

 お昼過ぎに妻と娘が帰宅し、昼食。2種類のピザを食べる。

 午後、妻が眼科へ出掛けたので、娘と2人でお留守番。お昼寝をしようと思った(何ならもう半分眠りについていた)のだが叩き起こされ、一緒にテレビを見させられた。今は『タモリ俱楽部』の「空耳アワー」にハマっているようだ。

 妻の目の腫れは花粉症ではなく、アデノウイルス(プール熱)の可能性が高いとのこと。ただ、それは症状からの医者の見立てで、検査自体は陰性だったそうだ。まあ、いずれにしても注意するに越したことはないので、入浴や歯磨き、点眼などはしばらくの間私が専任になりそうだ。

 夕食は生姜焼きと豚汁。

 生姜焼きの1枚1枚が大きくて食べ応えがある。

 入浴と洗濯を済ませ、娘を寝かしつける。やはり入学式は疲れたのだろう、電気を消した瞬間に静かになった。

 23時半過ぎに就寝。