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4月11日(木) おばあちゃんありがとう。

2024年04月14日 15時00分00秒 | 2024年

 6時半起床。

 朝食はソイプロテイン。

 身支度を整え、8時に家を出る。今日は父方の祖母のお葬式(お別れ式)である。

 首都高に乗り、埼玉方面へ。それなりに渋滞はあったものの、思っていたよりは順調…と思いきや、下道へ下りる手前から娘が「早く降りたい」とぐずり始め、その後嘔吐してしまった。乗り始めてから1時間半が経過していたので単純に飽きてきたのかと思っていたのだが、気付いた時にはもう止められなかった。もっと早くに気付かず、申し訳ない。

 一旦実家に避難し、娘と(流れ弾を浴びた)妻の着替えをする。娘の洋服は上着がなく、大人用のパーカーを羽織っている。

 無理をさせてはいけないので、妻と娘には実家で休憩してから電車で帰ってもらおうと思ったのだが、従兄弟たちに会えるのを楽しみにしていた娘が「行きたい」と言うので、当初の予定通り3人で出席する。斎場が実家から歩いてすぐのところにあって助かった。

 祖母の顔をゆっくり眺め、お線香を上げてから、納棺式を始める。納棺師さんに案内して頂きながら、末後の水、湯かん、死装束の準備を参列者全員で執り行う。その後、納棺師さんがお化粧をしてくださり、全員で納棺。記憶にある限りここまで本格的な納棺式は初めてだったが、じっくりお別れが出来る貴重な時間だったし、娘にも体験させられたのは良かったと思う。

 柩に副葬品を入れ、お花でいっぱいにする。私は秩父三十四観音霊場の納経帳と、祖母の好きだったチョコパイなどのお菓子を入れた。先日の日記でも書いたとおり、菩提寺のせいでお経を上げることは出来ないが、これで極楽浄土へは行けるだろう。しかも、道中お腹が空いたとしても、施設に入所してからはなかなか食べられなくなっていた身体に良くないお菓子をたくさん食べられる。

 出棺後はすぐに火葬場へ行く予定だったのだが、母と妻が一旦実家へ荷物を取りに行くと聞いた葬儀社の方が、「せっかくなので霊柩車も一緒に伺って、おばあ様にご自宅とのお別れをして頂くのはどうですか」と提案してくださり、お言葉に甘える。ありがとうございます。

 火葬場までは車で約30分。霊柩車の後に続いて移動する。娘の車酔いが心配だったのだが、弟家族の車に乗せてもらい、従兄弟たちと一緒に恐竜のDVDを観ながらご機嫌に過ごしたそうだ。

 祖母と最期のお別れをする。これまでの感謝をしっかり伝えることが出来た一方で、生きている間に伝えるべきだったなという後悔もある。こればかりはどうしようもないのだが。

 火葬が始まってから施設の外へ出て、こっそり手元に残しておいたチョコパイを食べながら祖母を見送る。煙が見えるかなと思ったが、やはり今時の施設は集塵機能がしっかりしている。

 火葬中に精進落とし。お弁当がちゃんと美味しい。子どもたちのお弁当も豪華でとても喜んでいた。

 1時間強で火葬を終え、お骨上げ(収骨)。1度目は妻と、2度目は娘と一緒に拾う。娘は怖がるかと思ったが、興味津々といった様子で参加してくれた。

 今回、祖母の死を通して娘に「死者を弔う」ということを体験させられて良かった。この先、娘からすると祖父母や父母(私たち)を亡くすという経験をするだろうが、そのひとつひとつが彼女の人生の糧になるだろう。もちろん、私自身もまだその過程にいる。「死」は避けられないし、怖くて悲しいものだが、遺された者にとっては意味のある経験である。

「遺産なき 母が唯一のものとして 遺しゆく死を 子らは受け取れ」(中城ふみ子)

 火葬場から直接帰途につく。妻と娘を最寄り駅まで送り(車酔い対策のため電車で帰ってくる)、1人で首都高に乗る。

 15時半過ぎに帰宅。1時間ほどかけて、レンタカーの車内を掃除する。どうなるものかと思ったが、シミや臭いもしっかり消せたと思う。

 妻と娘が帰宅する。駅前のミスタードーナツでおやつを買って来てくれた。

 レンタカーを返却しに行く。店舗の方に娘の嘔吐について説明・謝罪し、車内も確認して頂いたが、大丈夫とのこと。ありがとうございます。

 娘の担任の先生から電話を頂き、お悔やみの言葉と今日学校で行ったこと、明日の持ち物などについてなどを教えて頂いた。ご丁寧に、ありがとうございます。

 入浴を済ませてから夕食。あさりのお味噌汁が美味しい。

 鮭も脂がのっている。あさりも鮭も生協で届いたものだ。

 義父の畑で採れた春菊のベーコン炒め。新鮮だからだろうか、香り高くてとても美味しい。

 洗濯を済ませ、娘を寝かしつける。

 

 私は3歳の時に大阪から埼玉の今の実家へ引っ越してきて、それ以来社会人になるまで祖母と一緒に暮らしていた。頑固だったり非常識なところもあり、正直なところ善人だったとは言い難いが、私にとっては大好きなおばあちゃんだった。

 私は祖母からすると長男の長男ということもあって、孫たちの中でも特に可愛がってもらったと思う。父や母の言うことは聞かなくても、私の話には耳を傾けてくれるということも多かった。私が実家を出る時は本当に悲しそうにしていたし、たまに実家へ帰ると大喜びしてくれて、帰りも家の前の道まで出てきて私の姿が見えなくなるまでそこに立っていた。私が祖母の死の報せを聞いた時、真っ先に思い浮かんだのはその時の、道の曲がり角から遠くに見えた祖母の姿である。

 認知症を発症し、晩年の8年間は施設で過ごした。幸運にも認知症はそこまで悪化することなく、私たち家族のことは最後までしっかりと認識できていた。体調面でも健康そのものだったが、1年ほど前にコロナに罹患してから衰弱が始まり、最後はほぼ寝たきりの状態だった。直近で私がお見舞いに行った時もほとんど眠っていたが、それでも私に気付いた時には満面の笑顔だったし、手もしっかり握り返してくれた。

 少し前に一度危篤状態に陥ったこともあり(その時は何とか持ち直した)、私もその時が近いことは理解していたが、心の準備は出来ていなかった。祖母の死に実感が持てたのは、納棺式のおかげだと思う。祖母を棺に入れ終わって初めて、自然と涙が出てきた。

 祖母としっかりお別れが出来て良かった。良いお葬式だった。

 日付が変わる頃に就寝。