(「ジョンの魂」…ジョン・レノン・ミュージアムはどこへ?…続き)
1966年7月3日、日本公演を終えたビートルズは、香港経由で次の公演地フィリピン・マニラへ。そこでも熱烈な歓迎を受けました。↓
翌4日、マニラのリサール・メモリアル・スタジアム(野外)で公演。観客数は、これまでで最大の約10万人を動員したと言われます。↓
The Beatles Live in Manila July 4 1966
その時のコンサートの、ポスターやチケットです。↓
現在のリサール・メモリアル・スタジアム(今年1月撮影・写真やや右下)。↓
さて、44年前のここマニラで、ビートルズに一体何が起きたのか…。
その7月4日という日は、1946年に、それまでアメリカ統治下にあったフィリピンの、「独立記念日」として、アメリカが自国と同じ独立記念日に設定した日でした。このビートルズのコンサートの2年前に、独立記念日は、現在の6月12日(1898年)に変更されました。
この日のコンサートの後、実は、当時の大統領夫人イメルダ・マルコス主催のパーティーに招待されていました。ビートルズのマネージャーのエプスタインは、事前に丁重に断ってあったのですが、現地のプロモーターがメンツのために、イメルダ夫人サイドに伝えていませんでした。大統領夫人の招待を断る事は許されないと、プロモーターは断られた後も何度も執拗に依頼を続けました。ビートルズサイドが正式な断りを入れていたのにも関わらず、イメルダ夫人サイドにはパーティーの直前まで伝えられず、実際には時間寸前までパーティー出席の交渉があったといいます。
が、結局、ビートルズは、そのパーティーに出席できませんでした。
自分の招待を断った、と思い込んだイメルダ夫人は激怒し、新聞やテレビなどのマスコミを総動員して「ビートルズが勝手に約束を破った。会えるのを楽しみにしていた子供たちが可哀想だ。」などとネガティブ・キャンペーンを展開したのです。
テレビには「裏切られた!」などと絶叫するイメルダ夫人が映し出され、翌5日のフィリピン各紙には「ビートルズ、大統領一家を侮辱!」などといった記事が大々的に掲載されました。真相は、ビートルズがすっぼかしたのではなく、招待状が彼らの手にちゃんと届いていなかった事にあったのですが…。
国民感情、民族意識の強いフィリピン…。たちまち、国内に、ビートルズに対する激しい怒り、反感が広まりました。何が起こったのか分からないビートルズサイド、一行はすぐに帰途に就こうとしましたが、国際空港で、ビートルズは、怒りに満ちた民衆に取り囲まれ、こづき回され、もみくちゃにされたのでした。私の友人の母親は、民衆が(ビートルズに)トマトを投げていた、とも聞いた、と言っていました。
空港では、到着時と打って変わって、特別な扱いをされることなく、一般乗客と同じようにチェック・インしたのです。が、搭乗後も、飛行機の離陸許可がなかなか下りず、結局「コンサートの収入をすべて当局に渡す」という条件と引き換えにようやく許可が下り、フィリピンを離れることができた、という事件でした。かわいそうだったのは、ビートルズの来比を持ち望んでいたファンたちも同じだったでしょう…。
(The Manila Times -July 6, 1966)
この、ビートルズにとって、まさに降って湧いた悪夢のようなフィリピンでの災難が、その後のビートルズのライブ活動を停止する一因になったと言われています。
この件に関してポール・マッカートニーは、マルコス大統領失脚後に、「隠された真相が明らかになった…。」(自分達の無実を証明できた)、「ビートルズは、マルコス大統領に反抗した唯一のロックグループさ…。」とコメントしています。リンゴ・スターも「フィリピンは大っきらいだ…。」と、当時を振り返っています。↓
Beatles in Phillipines (1966)
(4分30秒あたりで、イギリスに戻った直後のインタビューも…。ジョンが「こんなふうだったんだ…。」と興奮気味に話しているのが印象的です。)
21年間に及ぶ、長いマルコス政権が発足して2年目の出来事でした。
イメルダ・マルコス - Wikipedia(現フィリピン下院議員)
音楽プロデューサーのいっこうさんにおほめの言葉をいただいてうれしいです(^^)。
ビートルズは、中学校に入った頃からずっとファンで…。(どちらかと言えば、ジョン・レノン派…。)今回の記事も、ネットでいろいろ調べてまとめてみました。
感情をあまり入れず、客観的な事実を書こうとしたつもりですが…。