アイ!サラマッポ in フィリピン & ジャパン!

‐Ay! Salamat sa Pilipinas at sa Japan!‐
 フィリピン、そして日本にありがとう!

日本フィリピンボランティア協会・JPVA 最高顧問網代正孝先生との出会い (調布市)

2015年03月22日 | マイ・ライフ in 調布市

 昨日、21日(土)春のお彼岸中日に、調布市西つつじケ丘の延浄寺(浄土真宗本願寺派)でお参りさせていただきました。

浄土真宗本願寺派 - 延浄寺 -

 太陽が真東から昇り真西へと沈む春分の日と秋分の日。西には阿弥陀如来様がいらっしゃる極楽浄土があり、西方に沈む太陽を礼拝し、西方浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりとされています。
 私も、正午の読経が流れる中、ご先祖様を偲び、今日まで生かされてきたことに感謝しながら心静かな時を過ごしました。

  

Taken on Mar. 21, 2015 @ 11:45

 やや肌寒さも感じる日でしたが、たくさんの檀家さん、お墓参りの方々が、ご先祖の霊に手を合わせていました。
 熱いお茶とおぜんざいには、心身ともに温まりました。ご馳走様でした。


 さて、この延浄寺のご住職であり、日本フィリピンボランティア協会・JPVAの最高顧問である網代正孝先生に初めてお会いしたのは、もう12年以上前のことです。

 

Taken on Jan. 7, 2003 at Manila International Airport (網代先生:向かって右)

「二〇〇三年一月初め、ダバオへ来られたJPVAの網代正孝会長にも、マニラの国際空港でお会いしていろいろとお話を伺うことができた。それまでにもホームページを拝見し、ずい分幅広い活動をされていることは知っていたが、直接お会いして、多くの実績を積んで来られた氏の一言ひとことに重みを感じた。浄土真宗のお寺のご住職である氏が、どういう訳でダバオと関わるようになったのか尋ねると、『ダバオで亡くなった日本人、日系人、そして太平洋戦争の犠牲者となった日比両国の犠牲者のためにお経を上げてほしい。』と頼まれたのがきっかけだそうだ。そのためにダバオを初めて訪ねた二十年前、日系人の置かれている窮境を目にし、その日系人を何とか支援したいと思ったのが、JPVAのスタートだったと穏やかな口調で話される。

二〇〇三年という年は、一九〇三年に、日本人が「アバカ」(Abaka)と呼ばれるマニラ麻の栽培、ビジネスのために、初めてダバオに移り住んでからちょうど百年目に当たる年だった。戦前のアバカ栽培の最盛期には、ダバオに二万人から三万人もの日本人国籍を持つ人たちがいたと言われている。当然のことながら、今でもダバオにはその子孫である日系人が多く暮らしていて、現在は、年配の日系二世と三世、四世、そして最近では五世までも見られるようになった。

しかし、そのアバカ栽培によるダバオの繁栄も、太平洋戦争により事態が一変する。旧日本軍に、通訳や物資調達などの面で協力した日系人は、約四年間の旧日本軍の統治、占領の後、つまり戦後、その報復を浴びることになる。日系人の苦難の道は、戦後何十年も続き、ひたすら日本姓を隠し、人目の届きにくいところに逃れ住んでいた人も多くいたという。日系人であることが分かると、時には命すら奪われかねなかったからだ。戦時中という尋常ではない状態であったししろ、旧日本軍は、それほど残虐な行為を行ったようだ。百万人のフィリピン人、五十万人の旧日本兵が亡くなったといわれるその戦争の悲惨さは、今もその生き証人である年配者から、その子孫へと、そして時にはテレビドラマなどメディアにおいても語り継がれている。」

(中略)

「マニラ国際空港での乗り継ぎの待ち時間に、ダバオでの日程を終えられた網代氏と一緒にレストランで昼食を食べる。『ダバオはよい所ですよ。』・・・氏のお話を伺ううちに、私の気持ちは少しずつダバオへと傾いていった。『それでも、ミンダナオ島にはいくつかのゲリラやテロ集団がいて危険なイメージがある。』と言うと、氏は『ダバオ市は安全な街、私が保証します。』と言われた。

別れ際、一度ダバオを訪ねることを約束し、空港の駐車場へと向かった。車を駐車してあった所まで来て下さった氏は、私があごのレバーで大きな電動車椅子を自在に操作するのを見て、『まるでベッドが動いているかのようだ。』と驚かれた。そして、ワゴン車の後部にスロープを渡して、電動車椅子ごとすんなりと乗り込み、チェーンで固定する様子にも、『へぇー、こうやって車に乗るんですかぁ・・・。』と興味深げなご様子。氏自身、社会福祉にも関わってこられただけあって、約十年も前からすでに、ダバオで日本向けのフィリピン人介護士をも育てられているとか。それでも、私が使っているような電動車椅子を目にするのは初めてだったそうだ。

それ以来、『ダバオへ越してきませんか?住みやすい所ですよ。』とのお誘いを、何度かメールでいただいた。国際社会に通用する有能な人材を育てるべく行われている教育活動と里親制度、将来の日本の超高齢化社会への不安を見越しての介護士養成活動、貧困集落の自立支援活動、環境保全活動、孤児院支援・・・、日系人支援活動から始まったJPVAの活動は、現在は多岐にわたっている。日比両国のよりよい友好関係を模索、実践されている網代氏の熱意が、メールから伝わってきた。前年に開校させたミンダナオ国際大学はJPVAの集大成とも言えるものだ、とのお話。『その大学の福祉学部の学生に、障害者として、日本人としてのマニラで生活をもとに、一度お話をしていただけませんか?テーマは自由で結構です。寺本さんの姿を見るだけでもインパクトがある・・・。』

重い障害を負って以来、自分はもう社会のお荷物でしかないのでは、と自分自身を卑下する思いから脱しきれずにいた私にとって、私の存在そのものを受け入れ、評価して下さった氏のご厚情が何よりも嬉しかった。」

(拙著『アイ!サラマッポ』上巻)

 

 2013年春、バギオ市から3年ぶりに一時帰国した際、誤って大腿骨頚部を骨折。それ以降、フィリピンに戻ろうにも戻れず、縁あって和歌山市で、一日数時間の在宅支援サービス(ヘルパー派遣)を受けながら療養生活をしていましたが、それが一転…。2014年6月中旬に、フィリピンから善意でお手伝いに来てくれていた友人(以前の専従介護者)のビザの延長申請が、入国管理局和歌山出張所で不許可となり…(信じがたい通知でした)。
 それからが大変でした。その友人のビザの期限まで1ヶ月余…。その期限までに行き場、生き場を探し求め、1分1秒を惜しんで、でき得るあらゆることをやってきました。伸るか反るか、というより、まさに「死ぬか、生きるか」の瀬戸際…、といった厳しい状況でした。重度の障がい者にとって、介護者が途切れることは、即「死」に直結していきますから。
 そんな危機的状況の中で、声をかけてくださったのがやはり網代先生でした。そして、ダバオ時代以来ずっと関わらせていただいている日本フィリピンボランティア協会の八木眞澄会長、事務局のサトシにもサポートしていただき、7月中旬に調布市へやって来ました。
 私自身、これまでの15年間のフィリピンとの関係を大切にするために、日本国内であればここしかない、という選択でした。住むアパートが見つからない場合は、もう一度フィリピンへ、とも考えていましたが、骨折後の体のことを思うと、できれば国内で…、と思っていました。

 網代先生のご親切、ご厚情に、ただただ感謝しています。

Taken on Sept. 18, 2015 @ 17:22 調布市延浄寺にて
(網代先生:向かって右、真ん中はサトシ) 

 日本フィリピンボランティア協会の会長を23年間も務められた網代先生は、2013年10月2日、名誉顧問内田達男氏とともに、現地ダバオでのフィリピン日系人会の教育支援に始まり、長年、多岐に渡る活動を通してのダバオ市へのご貢献、ご功績により「ダバオ市名誉市民」として表彰されています。

 また、調布市からダバオ市へは、故山花貞夫先生、山花郁夫先生が現地視察、環境のための植樹活動もされるなど、多くの方々が訪れています。