日曜日に読んだ『おとなの小論文教室。』(山田ズーニー)がおもしろかったもんだから、同じ著者の『あなたの話はなぜ「通じない」のか』を購入。半分ほど読みかけたままの『そろそろ子供と「本当の話」をしよう』(西部邁)は脇に置き、いつものように朝もはよからKindleで読み始めた。
冒頭、こんな文章に出会い苦笑する。
あなたを「信頼のおける人だ」と思っている相手なら、少々言葉が足りなくても通じる。しかし、あなたのことを「いつも小言ばかり言ってうるさい奴だ」と思っている相手だとしたら、あなたが「ねえ、ねえ」と話し掛けた時点で、相手は「よくないことだ」と警戒し、フィルターをかけて聞くだろう。相手から、もし、疑われているとしたら、何を言ってもダメ、信頼回復が先だ。
このくだり、身につまされてわかる。哀しくて笑えるほどわかる。とうなずくわたしは、読みながら、ある人の顔を思い浮かべ苦笑いひとつ。「ふむふむナルホド」と読み進める。すると、「ん?」、なんだか少し変だ。かまわず読み進めるが、どんどんと違和感は増幅されていく。「mmmm・・・」。「やっぱりちょっと・・・・おかしいぞコレ」。そして、「プロローグ」を走り読みし終えたところで決断。
「ダメだ。やめよう」
7%ぽっち読んだぐらいでひとつの本を評価するのは失礼なので内容の良し悪しは言わないが、少なくともわたしは、「さて、以上5つを押さえたら基礎は完了!本編で、人と通じ合うための技法をつかんでいこう。」などと書かれたこの手のハウツー本がダメなのだ。何がいいとか悪いとかはもちろんわたしなりにはあるが、理屈はともかく、とにかく読みたくない。
ということで、早々に離脱。なかったことにして、ブックスタンドに立てかけ開いたままの『そろそろ子供と「本当の話」をしよう』(西部邁)を目の前に据えた。
本当に保守すべきは、それら文化的実体(としての慣習体系)のうちにひめられている伝統なのです。そして伝統とは、「自由と秩序」、「平等と格差」、「博愛と競合」、「合理と懐疑」それぞれのあいだの矛盾を(状況のなかで)平衡させるための(認識と実践の統合としての)知恵のことにほかなりません。(P.111)
そろそろ子供と「本当の話」をしよう | |
西部邁 | |
ベストブック |
「フムフムなるほどいいじゃないか」とほくそ笑む。アッチへ行ったりコッチへ来たり、あい変わらずふらふらとした読書スタイルだが、まあそれもまたよし。
さて、今日はあたらしい仕事の現場踏査だ。
山へ上がる。
さあ、メシを食おう。
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発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う