「その13」の次ではない「その14」
いったん「お終い」としてケリをつけたつもりでしたが、案の定、というべきか、いつものように、というべきか、気がつけば、思い出したかのように思索を進めている自分がいます。
とあれば、当然のことですが出力せねばなりません。13回で終わった連続物としての『〈私的〉建設DX〈考〉』とは別に、随時つれづれなるままに綴っていこうと思います。
ですから、便宜上の通し番号(その〇〇)は振っていますが、ここから先は、必ずしも「前項を受けて」とはならず単発です。いや、そうなるかどうかさえ定かではありません。なんとなれば、そう思いついたはよいが今日このテキストを最後にあとはなし、ということにもなりかねないのですから。
ということで、『〈私的〉建設DX〈考〉』、前回までとつながってはいますが、直接的に「その13」を受けてはいない「その14」です。
そんなもん使いものにならないよ
既にあきらかにしたように、デジタイゼーション、デジタライゼーション、デジタルトランスフォーメーションは、必ずしも、多くの人たちが言うように順列でつながり、段階的に上っていくものである必要はありませんし、現実として、そうはならない方が多数を占めるというのがぼくの認識です。
とはいえ、客観的にみて、どれがより高みにあるかと言えば、やはりその順番どおりとするべきなのでしょう。つまり、順列の三段跳びはないにしても、そのステージに上下はある。しかし、上下がすなわち誰にとっても優劣に直結するかどうかについては、一概に評価することはできません。
それを考えさせられたのは、先日遭遇したある出来事からです。トンネルや橋梁点検のためのそのアプリケーションはタブレットで使うものでした。従来は紙ベースの2次元図に手描きでスケッチしていた作業を、端末のディスプレイに表示された2次元CADにペンで描画やメモをすることによって、現場と内業の二度手間を無くし、作業の効率アップを実現させ、生産性向上を図るものです。売りは「紙の操作感」のままデジタル化ができるという、いわば「電子野帳」とか「電子スケッチブック」とでも言うようなアプリケーションでした。
ところが、たぶん満を持して行ったであろう開発者のプレゼンテーションは、その場にいた聴衆から、ケンもホロロの冷ややかな反応で迎えられてします。
「そんなもんは使い物にならないよ」
ハッキリとそう指摘する人もいました。
ぼくもまたご多分に漏れず、「今さら、紙をデジタルにしただけでは、この業界が抱える問題解決にはつながらない」などと思ったものです。
しかし、それはどうなのだろう?一概にそうとも言えないのではないだろうか?
徐々にそういった考えがアタマをもたげてき始め、確信めいたものに変わると、すぐに出力をしたのです。
「これってニーズがあると思いますよ」
4階建ての般若心経
理由はこうです。
現に今、点検作業に従事する大多数が行っているのはアナログきわまりない作で、そこにおいては、そのアプリケーションを必要とする人は多いだろうし、そういう意味では、かなりの需要が見込まれるのではないか。
しかし、そのすぐあとで、こう付け足すのも忘れませんでした。
とはいっても、その作業を行うのが調査点検業者なのか施工業者なのかはともかく、どちらにしても圧倒的な人手不足のなかにあり、それが解消される見込みは絶望的なほど薄い。であれば、そのニーズはすぐに頭打ちとなり、今後はそこを突破するもの、つまり省力化に直結するようなものを開発していかないとダメだと思う。
プレゼンの主さんは素直に聞いてくれました。あまつさえ、感謝の言葉さえ返してくれたのです。
それを聞いたぼくは、後段は要らなかったなと、少しばかり後悔しました(あくまでもその時点の評価として、ですが)。4年ほど前に読んだ『真釈 般若心経』(宮坂宥洪著、角川ソフィア文庫)を思い出したからです。
著者はそこで、般若心経を四階建ての建築物に見立て、解いていきます。
1Fは出発地点で「幼児レベルのフロア」。2Fが世間における自己形成の段階、すなわち「世間レベルのフロア」、3Fは般若心経におけるキーパーソンである舎利子がいるフロア(とはいえこれは、人間としては最高段階といってもよいほどにかなりのハイレベルです)。そして最上階である4Fは般若心経の語り手である観音様(観自在菩薩)レベルのフロアだというものです。
そのモデルを前提として、宮坂氏はこう説きます。
******階上は階下なくして存在しません。二階や三階のフロアだけしかない四階建ての建物などありえません。どの階もなくてはならず、どの階にもそれぞれの意義があります。******
階上にいて階下を否定するのは容易いことです。しかし、もしも階上に行けたとして(ぼくがそうであると言っているわけではありません)、それはすなわち、そこに到達していない者を否定できるということとイコールではありません。いや、それをするということは、かつて階下の住人であった自分自身を否定すると同義であるとさえ言えるのではないでしょうか。
階上、階下を笑うべからず
話を戻します。
単純なデジタル化(アナログからデジタルへの移行)は否定の対象となってもかまわないとぼくは考えます。しかし、そのデジタルスケッチブック(のようなもの)は、仕事のやり方を変えるまでには至らないかもしれませんが、少なくとも業務プロセスの改善につながるものでしょう。しかも、その部分においては、かなりの効果が見込めるとぼくは思います。であれば、「その次の段階」に至ってないからといって、その先においてそれがダメなものであるとは限らないし、「階下」にいる人たちにとっては、むしろ有用なものでありつづけるのかもしれません。そして、その存在と「次の段階」が並立してあっても、何らの不自然さもない。どころか、それを突破口にして、仕事のやり方が変わることも十分にあり得ることです。
今日のぼくには無用なものでも、きのうのぼくには有用だったと同様に、今日のぼくには効果が見込まれないものであっても、今日の誰かや明日の誰かには大いに効果があるのかもしれない。
であれば、「階上、階下を笑うべからず」。きのうのぼくを否定しないためにも。そもそもが「階上」であるかどうかすら怪しいぼくの場合はなおさらなのです。