答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

あらためて「利他」(その7) ~エピローグ~

2022年12月24日 | あらためて「利他」

 

前回までの投稿はコチラ

↓↓

その1 → プロローグ

その2 → (談志の)『文七元結』

その3 → 「どうしようもなさ」が「利他の本質」へと反転する構造

その4 → 合理的利他主義批判

その5 → 情けは人のためならず

その6 → 下心の先に

 

 

Youtubeに平成15(2003)年10月京王プラザホテルでの立川談志の高座が残っています。演目はもちろん『文七元結』。あらためて全編を聴いてみました。そのサゲの場面です。

通常よくあるサゲで噺を終わらせるのがあきらかにイヤそうな彼は(というかハナから終わらそうとしていないように見えます)、

「(麹町貝坂に元結屋の店を出し)たいそう繁盛したというおなじみの目出度い文七元結(でございます)」

とわざとおどけた口調で言ったそのすぐあと、

「だけどコレネやっててね」

と切り出して、「う~ん」と言いながら腕を組みます。

すると、その姿に客席は爆笑、本人もつられてうれしそうに苦笑いしながら、

「照れるからさあ、感情注入だってやりようがねえんだよな。だからとにかくメチャクチャにしてみちゃおかと。しょうがねえんだもん。順序よくやるったって、そんな順序立てた人間がいたらオレ気味わるいもん・・・」

ぐだぐだとした独白で、この人情噺の代表格である大ネタを、美談として終わらせることを拒絶します。

さらにそのあとしばし脱線して余談に遊び、

「でね、えらいとこ通りかかったんだから、しょうがないからやっちゃったんだという」

と談志流文七元結の真理をさらっと何気なくつぶやいたあと、

「言い訳みたいなもんをくっつけてこのあとをやるからね」

と観客に前置きをしてつけた談志流解釈によるサゲがこれです。

 

******

「おう、おっかあなんだな、文七もよくやってくれてるしお久も幸せだ。ホントにありがたいと思ったよ。こうやって暮らせるのも文七のおかげっていうかお久のおかげっていうかオメエのおかげっていうか。ホントにオレはしあわせだと思うよ」

「おとっつぁん、なんぞっていうとそう言ってくれるのはイイッていやあイイケドさぁ。だけどアレ、お金が出たからこういう暮らしができるんだよオマエサン。アレ、出たほうが不思議なんだよ。出なかったらオマエサン、どうするつもりだったの?」

「おおそうか」

「そうかじゃないよ。前から言おう言おうと思ってたんだけど、まあイイけどさ、アレやっちゃって、名前、わかんないんだろ?なんとか思い出してくれたからよかったけど、わかんないままだったら・・」

「そう」

「何がそうだよ」

「あれはね」

「なにさ」

「聞いてくれよ」

「聞いてるじゃない」

「アレはオレがオメエ・・なんだよ・・最後の博打だったんだな。アレをうちへもってくるとね、チンタラチンタラまたやって、またおんなじになっちまわぁな。あれがホントの博打で、アレが凶と出ないで吉と出たっていうことでオレがあるんだから。アレでオレァぴたっと博打をやめたんだ」

「ほぉー、うまいこと言いやがったねぇ。そうかもしんないねぇ」

「そうだよ、それにしてもオメエなんだな、いくら貧乏ったって人のいるところでオメエ、すっぱだかで出てきたよ、よくあんなことできたな」

「おとっつぁん、アタシも裸になってはじめて人間がわかったっての」

******

 

ここでいつものように深々とお辞儀をすると、客席からは拍手喝采。

ところがそれで終わると思いきや、やはりそれでも納得しなかったのでしょう。そのあとも談志のひん曲がった口から出る言葉は止みません。首をひねりながら、しぼり出すようにしゃべりつづけていきます。そのぐだぐだとした述懐が、わたしの今の心情に不思議なほどぴたりと重なりました。

 

******

「え・・・やればやるほどなんかだんだんだんだん・・あぁ・・・ダメになってきてねえ・・・

でも今日はね・・芸能の神様がほどほどの罰則でゆるしてくれた・・でもね、じゃあなんでこの噺やったかというとね・・

ふっとなんとか・・自分のフィーリングというか思い入れで・・・そのときの様子でね・・なんとか騙して

お客さんも、ああイイよあれならっていう・・・共同のひとつの価値観が出てくるんじゃないかと思ったんですがねぇ。

当人が疑問を感じちゃった日にゃあお客さんは・・・・うん、またちょっと考えてみますよね・・・」

******

 

ということです。

ではまたいつか。

 

 

 

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あらためて「利他」(その6) ~「下心」の先に~

2022年12月23日 | あらためて「利他」

 

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↓↓

その1 → プロローグ

その2 → (談志の)『文七元結』

その3 → 「どうしようもなさ」が「利他の本質」へと反転する構造

その4 → 合理的利他主義批判

その5 → 情けは人のためならず

 

と言いつつも、企業人としてのわたしは、この頭の中からどうしても「下心」を取り去ることができません。「めぐりめぐって」をその理想としながらも、直接的な恩恵を得たいという煩悩から逃れることができません。どころか、積極的にそれを画策したりもします。そりゃそうでしょう。会社(企業)とは、利益を上げつづけなければ存続することすらできないものなのですから。

だからこそわたしは、「自己の利益を図るためには他人の利益を図らなければならない」という考えに拠って立ち、それからの方法論を探ろうとします。その考えにおいては、まず前提とされるのは「自己の利益」です。「他人の利益を図る」という行為はそのための便法としてあります。ですから、行動として優先されるのは「他人の利益」です。まず「他人の利益」あり。そうすることによって自らの利益が生まれる。

とはいえ、いつどうやって返ってくるのかわからない「めぐりめぐって」を待っていても、期待どおりになるとは限りません。短期的に見ればなおさらです。ましてや近年のビジネスは、それがよいかわるいかは別として、成果をより短期的に把握し評価するという傾向に拍車がかかっています。「下心」を前面には出さず、直接的な見返りを計算するシビアさもあわせ持っておかなければなりません。

ただ、わたしは思うのです。たとえそれが「下心」ミエミエの「見返りを求める」行為であったとしても、他人の利益を図ろうと企図して行動することの繰り返しが、それを実践する者たちの心理と言動に好い影響をおよぼさないはずがないと。そう信じています。なぜならその繰り返しは、やがて自らの方法となりスタイルとなるからです。それは、まず他人の利益を優先するというスタイルであり方法です。その方法が身体に染み入ってきたとき、自らの利益はうっちゃっておいても他人の利益を図るという行動パターンが組み入れられる可能性があらわれるかもしれません。少なくとも短期的局所的にはそうなるはずだと、体験的に断言することができます。

では、やがてそれは、短期的局所的なものから長期的大局的なものへと昇華されるでしょうか。わたしはそうなると期待します。しかしそうなると断言することはできません。ただ、短期的な利益にばかりとらわれていると、本当に大切なものを忘れてしまいがちです。より重要なのは長期的な損得、今風の言葉で言えば持続可能なビジネスができるかできないかなのです。

ですから「合理的利他主義」という直接的な見返りを期待する考え方であっても、そこに「他人を利するための行為」があるというだけで意義があるとわたしは思っています。もっともそこにおいては、胡散臭さとも呼べるものがつきまとって離れないということは忘れないでおくべきでしょう。その胡散臭さに対する世間の冷たい目から逃れるためには、それはもう、徐々にホンモノの利他へと昇華させるよう努めていくしかないのです。

わたしたちが生業とする公共建設工事の利益は、自分の利益のみを追求して得られてよいというものではないとわたしは思っています。なぜならば、社会資本をつくり、あるいはそれを維持するという仕事は、その構造的に利他であり生い立ちからしてすでに利他であるからです。

わたしたちが苦境に陥った一因は、それに胡座をかき、それをないがしろにしてしまっていたことにもありました。「構造的に利他であり生い立ちからして利他である」とはすなわち、黙っていても利他、粛々と仕事をこなすだけで利他であるということです。だからといってそれは、世間に諸手をあげて喜んでもらえるとイコールではありません。

かつてわたしたちの先人は、社会資本をつくり守るという「人さまのお役に立つ仕事」をすることで利益を得ていました。それは今でも変わらずそうなのですが、先人とわたしたちでは置かれている環境がまるっきり異なります。社会インフラというものの整備が十分でなかった先人たちの時代のそれは、受益者ができたモノを有難く思いできたモノに喜ぶという目に見える形をとっていました。それ対し、現代日本の公共建設工事業者であるわたしたちの場合は、それがどれだけ公共に資するものか、ふつうの暮らしを支え守っているのかを、わざわざ目的や意義を説明し成果を強調して、はじめて喜んでもらうかどうかのスタートラインに立つことができるのです。

自らが利益を得るためには他人に喜んでもらわなければなりません。ここでいう他人とは、地域建設業にとっては地域住民です。地域住民に「喜んでもらう」を繰り返すことによって信頼が構築され、自らの利益が生みだされていきます。であれば、あえて利他を標榜すべきでしょう。自己の利益を図るためには利他的にふるまわなければならないと心がけるべきでしょう。そこでは、既に社会資本をつくるという行為そのものが利他行なのだという驕りは捨て去るべきです。それはそれとして、自分たちが公共建設工事というビジネスにのぞむ姿勢として、あるいは行動指針として利他を採用しなければなりません。その先に信頼の再構築があるのだとわたしは信じています。

ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

ながながと書き連ねてしまいました。

他説(この場合は中島岳志さん)を整理しているときには、ある程度筋道だっていた(たぶん)はずの文章が、自分自身の考えを披瀝しだしたとたんに舌足らずになったり、アッチヘコッチヘとっ散らかっていったり、その様にあきれながら、なんとか決着をつけることができました。

とはいえその終着は、書きはじめたときに想定していた着地点ではなく、結局のところは、これまで書いたり話したりしてきたこととさして変わりがないところへランディングしてしまいました。しかし、たとえそうであったとしても、自らの考えをまとめる行為はけっしてムダなものではなかったと思っています。

そうそう、オマケがあります。あした、再度『文七元結』へと帰ります。もちろん、立川談志の『文七元結』です。

かまわなければ、もう少しおつきあい願います。

 

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あらためて「利他」(その5) ~情けは人のためならず~

2022年12月22日 | あらためて「利他」

 

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↓↓

その1 → プロローグ

その2 → (談志の)『文七元結』

その3 → 「どうしようもなさ」が「利他の本質」へと反転する構造

その4 → 合理的利他主義批判

 

ここまで『思いがけず利他』を(特に「談志の文七元結」にかかわる箇所に焦点を当てて)引きながら、中島岳志的「利他とはなんぞや」を紐解いてきました。すると当然のように、「ではオマエはどう考えるんだい?」という問いを自らに向けて立てなければなりませんし、それを避けてとおることはできません。ということで、現時点での「私と私の環境」におけるわたしの考えを記しておくことにします。

念のためことわっておきますが、この場合の「私と私の環境」とは、公共建設工事というビジネスに生きる「私と私の環境」であって、社会や家庭の「私と私の環境」はまた別のものです。ですから以下に記すのは、公共建設工事業というビジネスにおける利他とはなんぞや、どうあった方がよいのかについての私見です。

 

ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

「情けは人のためならず」と言います。「人に対して情けをかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いが返ってくるという意味の言葉です」(文化庁月報「言葉のQ&A」より)。近江商人の「三方よし」しかり、吉田忠雄の「善の循環」しかり、わが国の商行為においてはそれに類する考え方が多くあります。なにもあえてジャック・アタリの合理的利他主義を持ち出さずとも、わが国には古くから間接互恵を前提とした利他の考え方がありました。

『思いがけず利他』を繰り返し読んだわたしは、「間接互恵を前提とすることで利他が成立しなくなる」という中島岳志さんの説を腹に落としました。得心したといっても差し支えがありません。純粋利他こそが真の利他である。それはよく理解できます。しかしわたしがそれを目指すか、また行動指針として採用するかは別の問題です。

わたしは、その危険性をじゅうぶん理解した上で間接互恵を前提とする立場をとります。自分の利益を図るからこそ他人の利益を優先的に考えるというスタンスです。

なぜか。わたしたちはほぼ例外なく会社(企業)という共同体に属しているからです。そこにおいてまず優先されるのは「お金もうけ」です。会社とは、利益を上げつづけなければ存続することすらできないものです。これは言わずもがなのことでしょう。ですから見返りとしての利益を求めます。思い切って下世話な言葉であらわすと、「下心」というやつです。自らの「お金もうけ」に利するはずであると期待する「下心」です。

ここで注意しなければならないのが、その見返りの求め方です。それを説明するために、もういちど「情けは人のためならず」の意味に戻ってみましょう。「人に対して情けをかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いが返ってくる」。そこには「自分に対するよい報い」、つまり自分の利益が前提としてあります。だから「人に対して情けをかける」、つまり利他的行動を勧めるという図式です。逆な見方をすれば、もしも「よい報い」が返ってこないものだとしたら「情けをかける」意味がないとも解釈できますし、それが、よいことをすればいずれ間接的な互酬関係によって利益がもたらされるという打算的な思いが行為の動機づけとなっていくという点で問題があるというのは、前回までに紐解いてきたとおりです。

たしかに、まるで「下心」と「打算」が衣を着ているかのようなわたしには、それがよく理解できます。ただそこでわたしは、「情けは人のためならず」における「めぐりめぐって」という部分に着目し、異を唱えたいと思うのです。「情け」はいわば贈与です。贈与に対する返礼は、一般的には直接的な「お返し」という形をとります。「贈りもの」と「お返し」の交換です。ですが、「情けは人のためならず」の場合のそれは、直接ではなく「めぐりめぐって」返ってくるものとしてあります。いや、正しくは「返ってくるかもしれないもの」でしょう。「くるかもしれない」と「こないかもしれない」は表裏一体、セットで頭に入れておかなければなりません。そして、「めぐりめぐって」という言葉から明らかなのは、その主体となる者が、「情け」という贈与を受けた当の本人ではないということです。そこにおいてこの見返りは、直接的なものではなく間接的なものであると解釈することができます。

期待するその見返りが、あきらかに実現可能性が高いものであるという判断のもとでその行為を行うか、それとも現実のものとなるかどうかさえわからないにもかかわらずそれを行うか。また、その見返りが直接的なものか間接的なものか。この差が、その行為が利他的かどうかを分けるのではないでしょうか。とすれば、その一点において、合理的利他主義と「情けは人のためならず」は似て非なるものと言えるのではないかと思うのです。

 

(あと一回で終わります。よかったらもう少しおつき合いください)

 

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あらためて「利他」(その4) ~合理的利他主義批判~

2022年12月21日 | あらためて「利他」

 

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↓↓

その1 → プロローグ

その2 → (談志の)『文七元結』

その3 → 「どうしようもなさ」が「利他の本質」へと反転する構造

 

さて、中島氏が間接互恵的利他の危険性をさまざまな角度から説くそのなかで、もっともすんなりとわたしの腑に落ちたのが、頭木弘樹著『食べることと出すこと』における著者自身の体験談を紹介したくだりでした。以下、頭木氏が体験したエピソードをかいつまんで説明します。

 

まず前提として、頭木氏は潰瘍性大腸炎という持病を持っていました。そのため、なんでも食べられるわけではなかったということを頭に置いて読んでください。

あるとき、仕事の打合せで食事をすることになったのですが、「これおいしいですよ」と相手から勧められたものが食べられないものだった頭木氏は相手にそう伝えます。その場はそれでおさまったのですが、なおも相手は「少しくらいいいんじゃないですか」と同じものを勧めてきます。ちなみにその相手は頭木氏の持病のことを知っていました。

頭木氏は、いくら「少しぐらい」でも大変な結果を引き起こすかもしれないため手をつけないでいましたが、そのうち、まわりの人までがそれを勧めだし、同調圧力を強めてきます。その結果、その場は気まずい雰囲気となり、結局その相手との仕事はなくなる羽目になりました。

 

このエピソードには「利他を考える際、大切なポイント」がいくつも含まれていると中島氏は言います。

******

 まず考えなければならないのは、「支配」という問題です。「利他」行為の中には、多くの場合、相手をコントロールしたいという欲望が含まれています。頭木さんに料理を勧めた人の場合、「自分がおいしいと思っているものを、頭木さんにも共有してほしい」という思いがあり、それを拒絶されると、「何とかおいしいと言わせたい」という支配欲が加速していきました。相手に共感を求める行為は、思ったような反応が得られない場合、自分の思いに服従させたいという欲望へと容易に転化することがあります。これが「利他」の中に含まれる「コントロール」や「支配」の欲望です。

(P.107)

******

とはいえ、中島氏は何も間接互恵性を完全否定しているわけではありません。利他の可能性は「円環的な相互依存システム」である間接互恵関係に行き着くとさえ書いています。氏によれば、問題はそれを前提として「いいことをすれば、将来、利益となって返ってくる」という思いが行為の動機づけとなっていくという点にあるのです。

******

 将来の利益を期待した行為は、贈与や利他ではなく、時間を隔てた交換になっていますよね。今の行為が、将来の利益と等価交換されることが想定されており、利他の可能性が捨象されています。「今、損をしても、いずれ間接的な互酬関係によって、利益がもたらされる」という考えは、とても打算的です。「将来の自分に利益がありますように」と願って渡すプレゼントは、かなり利己的なものです。贈与ではなく、間接互恵を利用した交換に他なりません。

 利他は未来への投資ではありません。

(P.162)

******

ここにジャック・アタリの「合理的利他主義」が内在している問題があると中島氏は指摘します。

「合理的利他主義」は未来への投資としての利他であり、「利他の事後性をあらかじめ先取りする行為」です。自分にとっての利他がそのまま相手に利他と受け取られることを前提としているため、それは容易に強要へと転化します。強要とはすなわち「利他の押しつけ」であり、そこには「相手を制御し、コントロールしようとする欲望」が含まれているというのです。

その上で、「合理的利他主義」をこう批判します。

******

 因果の物語は、偶然を必然として経験し直すことです。なので、私たちが間接互恵を経験するのは、現在から過去を遡行して、因果の物語を形成する際です。

 しかし、特定の行為を行う「現在」において、未来との因果は成立していません。私たちの行為は、どのように展開し、どのように受け取られるか、未知のままです。一方、アタリの「合理的利他主義」は、不可知の未来をコントロールすることで、間接互恵を起動させようとします。

 アタリが想定する世界では、可能態としての未来が失われています。間接互恵をめぐる因果を前提とすると、未来は現在の中に飲み込まれてしまいます。現在が未来を支配してしまいます。間接互恵は前提とされるべきものではありません。あくまでも結果的に現れるものであり、因果は事後的に物語として経験されるものです。

 (略)利他は未来からやって来ます。その未来を現在化することは、利他が本質的に成立しないことを意味します。「合理的利他主義」は利他ではありません。むしろ利他の本質を崩壊に導くイデオロギーです。

(P.165)

******

そして、「長兵衛はなぜ利他の循環を生み出すことができたのか」についての中島氏の結論はこうです。

******

 長兵衛はなぜ利他の循環を生み出すことができたのか。

 それは偶然通りかかった吾妻橋で、「身が動いた」からです。身を投げようとする青年を目の当たりにして、思わず駆け寄って抱き寄せた。そのとっさの行動が文七に受け取られ、利他を起動させることになったのです。

(P.172)

******

なぜ本のタイトルが「思いがけず利他」でなければならなかったのか。キーワードは「思いがけず」です。長兵衛の純粋利他とアタリの合理的利他主義との比較において、それを了解していただくことができるのではないでしょうか。

 

(ということで、あしたから「まとめ」に入ろうと思います。うまくまとまればよいのですが)

 

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あらためて「利他」(その3) ~「どうしようもなさ」が「利他の本質」へと反転する構造~

2022年12月20日 | あらためて「利他」

 

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↓↓

その1 → プロローグ

その2 → (談志の)『文七元結』

 

******

 談志は、長兵衛の贈与を「美談」とすることを拒絶します。長兵衛が文七に共感し、青年を助けたいという良心を起こして五十両を差し出すという解釈を退けます。

 談志は一体、長兵衛の行為をどう捉えているのか。ここに私は贈与を考える重要なポイントがあると思っています。

(P.21)

******

このあと中島氏の筆は、親鸞、そして宇多田ヒカルと論を展開していきます。そこでのポイントとなるのが「業」です。

******

「業」とは、It's automaticなのです。私たち衆生の業もオートマティックなものですが、仏の業もオートマティックなものです。仏は衆生を救ってしまうのです。煩悩にまみれ、悪人としてしか生きることのできない私たちを、必ず救済する。そんな「他力」は、止まらないものです。

 仏はどうしようもなく、私たちを救済してしまう。だから仏の「業」なのです。

(P.39)

******

談志は自らの著書『「現代落語論」其二 あなたも落語家になれる』のなかで、こう言っています。

「落語とは、ひと口にいって『人間の業の肯定を前提とする一人芸である』といえる」

これは立川談志の落語論の要で、彼はさまざまな場所やメディアを通じて生涯ことあるごとに、「落語とは業の肯定である」と言いつづけました。

それをふまえた中島岳志的謎解きはこうです。

******

ポイントは、長兵衛が文七に五十両を渡すことが「業の力」だということだと思います。そうでなければ、「落語は業の肯定」という談志の卓越した定義が破綻してしまいます。

 私は、ここに「人間の業」と「仏の業」が同時に働いていると考えています。凡夫の「どうしようもなさ」という「業」が、「利他の本質」へと反転する構造こそ、文七元結の構造だと思います。

(P.49)

******

ここで中島氏は、もうひとつの重要なポイントとして、五十両を出すと決心した長兵衛が文七に言った「たった一つだけの頼み」をあげます。

それをすれば娘お久は苦海へ身を沈めざるを得ない。しかしながらそれをどうすることもできない自分。だったら五十両を出さなければよいだけじゃないか、と思うのがふつうなのですが、現代の常識や規範を当てはめることしかできないわたしなどは、どこからどう考えても理解できずに首をひねるばかりのその不思議さがこの噺を成り立たせています。

「どうしようもない」自分を認め、娘の前でさらけ出した。そしてその「どうしようもなさ」から立ち直るきっかけを佐野槌の女将から与えてもらった(この談志の女将が凄みがあって絶品なのですがそれは置いときましょう)。「どうしようもない」自分と向き合って生きていこうと決めたすぐあとに身投げをしようとする文七に出会い、何を血迷ったか五十両をあげてしまう。それによって、さらに「どうしようもない」自分へと、あろうことか自分自身の手によって突き落としてしまう。そのとき長兵衛の口から出たのが、「だったら頼みが一つある」「金毘羅様でもお不動様でもいい。拝んでくれ」という言葉でした。

長兵衛は、自分自身の行為が、あとになって自己の利益となって返ってくるとは夢にも思わなかったにちがいありません。つまり、五十両を出すという行為は、それによって未来の自らに利益がもたらされるという結果を前提とした意図的なものではなかったのです。

そのときに身体の内から絞り出された言葉。

それが「拝んでくれ」でした。

******

 自分はどうしようもない人間である。そう認識した人間にこそ、合理性を度外視した「一方的な贈与」や「利他心」が宿る。この逆説こそが、談志の追求した「業の肯定」ではないでしょうか。

(P.55)

「利他」というのは、何か単独で「利他」という観念が成立しているわけではありません。大きな世界観の中で、無意識のうちに、不可抗力的に機能しているものです。重要なのは「利他」が「利他」と認識されない次元の「利他」です。

長兵衛は、霧の吾妻橋で、そんなところに立っていたのだと思います。

(P.57)

******

 

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あらためて「利他」(その2) ~(談志の)『文七元結』~

2022年12月19日 | あらためて「利他」

 

第一回はコチラ → (その1) ~プロローグ

 

真の利他とは「無意識の利他=純粋利他」でなければならない。これが『思いがけず利他』のなかで中島岳志の説くところです。そしてその「純粋利他」の代表格が『文七元結』、しかも立川談志が『文七元結』で演じた世界だと中島氏は言います。

では『文七元結』とはどのような噺なのか。『思いがけず利他』から引いて紹介してみましょう。

最低限このあらすじがアタマに入っていないと、このあとの話の展開がちんぷんかんぷんなので、少々長くなりますが、全文を引用することとします。

******

 この噺の主人公は長兵衛。腕のいい左官職人です。しかし、あるときから博打にはまってしまい、仕事がおろそかになってしまいました。妻のお兼と娘のお久は、貧困生活を余儀なくされます。家財道具や着物は、大方売ってしまい、家にはわずかばかりの生活用品しか残っていません。それでも長兵衛は博打をやめず、なかなか家に帰ってきません。

 ある日のことです。長兵衛が博打を終えて家に帰ると、お兼の様子がいつもと違います。聞くと、お久が昨晩から家に帰ってこず、あちこち探したものの、見つからないと言います。困っていると、そこに吉原の「佐野槌」という店の番頭がやって来て、「うちへ来ていますよ」と言う。長兵衛は妻の身につけている着物を借り、吉原に駆けつけました。

 すると、佐野槌の女将が出てきて、長兵衛に説教を始めます。せっかく腕のいい職人なのに、博打ばかりして家族を困らせている。時に暴力まで振るう。娘は家を出て、吉原に「身を沈める」ことで、お金を作ろうとしている。「長兵衛さん、悪いと思わないのかね。どうする気なんだね」

 女将は一つの提案をします。今から五十両を貸すので、真面目に働いて、来年の大晦日までに返しに来ること。それまで娘は自分が預かり、用事を手伝ってもらう。もし、約束を守れず、五十両を期日までに返せなければ、娘は店に出す。「どうする長兵衛さん、性根据えて返事をおし・・・」

 長兵衛は女将と約束をし、五十両を受け取ります。そして、女将に促され、娘に礼を言います。これまで威張っていた父が、自己の不甲斐なさを突きつけっられ、娘に頭を下げるこの場面は、落語家にとって腕の見せ所です。

 店を出た長兵衛は、帰り道を急ぎます。そして、浅草の吾妻橋にさしかかったところで、一人の若者が川に身投げをしようとしていることに気づきます。慌てて若者を抱きかかえ、飛び込むことを阻止すると、若者は涙ながらに「どうぞ、助けると思って死なせてください」と懇願します。事情を聞くと、取引先から預かった五十両を道で盗まれたと言い、店の主人に申し訳が立たないと話します。何度も長兵衛が止めるものの、ふとした隙に、若者は川に飛び込もうとします。

 ここで長兵衛は苦しみます。懐には先ほど借りたばかりの五十両がある。これを若者に渡せば、彼の命を救うことができる。しかし、この五十両は娘が作ってくれたお金で、これを手放してしまうと、借金返済は不可能になる。どうするべきか。

 長兵衛は悩み抜いた末、五十両を差し出します。そして、大金を持っている事情を話し、娘が客を取ることになっても悪い病気にかからないよう「金毘羅様でもお不動様でもいい。拝んでくれ」と言います。そして五十両を投げつけて、その場を去っていきました。

 若者の名は文七。彼は五十両を手に店(近江屋)に戻ると、盗まれたと思っていたお金が届いており、取引先に置き忘れてきたことがわかります。文七は動揺します。そして、吾妻橋で死のうとしていたところ、名も知らない人から五十両をもらったことを主人に打ち明けます。

 主人は五十両を差し出した男に感銘を受け、番頭を使って探し出します。やっとのことで家を突き止め、文七と共に五十両を届けに行きます。

 主人は長兵衛に五十両を返却したあと、「表に声をかけてくれ」と言います。すると、そこにはきれいに着飾った娘のお久が立っていました。五十両を佐野槌に渡し、着物を買い与え、お久を連れてきたのです。

「お久が帰ってきた」と長兵衛が言うと、着物を夫に貸して、裸のままのお兼が飛び出してきます。親子三人、その場で抱き合って涙を流します。これが「文七元結」という噺のあらすじです。

(P.14~17)

******

このあと中島氏は、この噺のポイントを「五十両と共に起動する利他」だとします。そこでもっとも重要なのは、主役の長兵衛が「規範的な人間」ではないということ。その「どうしようもない人間」が、「思いがけず」出会った若者に大切な五十両をあげてしまった動機は何なのかが「この噺の勘所」であり「最大の謎」だと言います。

その鍵を解くのが、人情噺の代表格ともされるこの噺を、あえて美談とはしないことにこだわり抜いた「立川談志の」『文七元結』なのです。

 

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あらためて「利他」(その1) ~ プロローグ~

2022年12月18日 | あらためて「利他」

 

約一年前から聴きはじめた落語を拙講の小道具として用いたことが何度かあった今年、使ったのはふたつ、一つは(桂米朝の)『百年目』で、もうひとつは(立川談志の)『文七元結』でした。

前者は「持ちつ持たれつ」、後者は「利他」について話を展開するための導入部として使ったのですが、といってもその回数は『百年目』の方が圧倒的に多く、『文七元結』はといえばたったの一度だけ、某県の若手現場技術者研修がその機会でした。

『文七元結』と「利他」。突飛な組み合わせのように思われるかもしれません。というより、落語好き(歌舞伎の演目としてもありますが)ならいざ知らず、そうでない人にとっては『文七元結』という噺の題名を聞かされてもピンとこないのがふつうでしょう。

といっても、いつものようにわたしオリジナルの知見ではなく、中島岳志『思いがけず利他』からの受け売りです。氏はそのなかで、ジャック・アタリの「合理的利他主義」が持つ危険性を再三指摘しています。アタリは、「利他的行為によってもっとも恩恵を受けるのは、その行為を行っている自己である」という「間接互恵システム」を説いています。つまり、「利他主義は最善の合理的利己主義に他ならない」「利他行為を善意から解放し、利己的なサバイバル術として運用すべき」というのがアタリの主張であり、他人の利益を図ることがひいては自分の利益となるというのが「合理的利他主義」です。

なぜ中島氏はそれがいけないと言うのか。それは、「合理的利他主義」が前提とするのが「未来の見返り」だからです。見返りとはすなわち「自分の利益」。求めはじめたが最後それは、容易く見返りの強要へとつながってしまいます。したがって真の利他とは、「無意識の利他=純粋利他」でなければならないというのが氏の説くところで、その「純粋利他」の代表格が『文七元結』、しかも立川談志が『文七元結』で演じた世界だというのです。

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じつはこの稿、夏ごろ書き始めたのはよかったのですが、わたし自身の考えをまとめることができず、書いては消し書き直しては消しを繰り返し、とうとうお蔵入りとなっていたものでした。ところが、ひょんなことから思い出し(というか、じつはずっとアタマの片隅には引っかかっていたのですが)、この前からまた書いては消し消しては書きを繰り返しているうちに、あらためて『思いがけず利他』の要点をたどることを思いつくと、そこからもつれた糸がどんどんとほぐれていきました。

ということで、なんとか考えがまとまってきそうな気配。思い切ってアップロードしようと思いますが、どうやら長くなりそうなので、数回に分けることとします。

 

 

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