「師匠」と呼ばれることがある。近ごろ増えてきた。
とはいえそれは、わたしのことをそう呼ぶそれぞれによって温度差があり、字義どおりに「師匠」と思ってくれている人もあれば、あだ名や通り名のような感覚でそう呼ぶ人もあるのだから(たぶんソッチのほうが多い)、ニックネームのひとつぐらいの気持ちで、たいていは淡々と受けとめるようにしている。
今朝、そんななかの一人から「師匠へ」という希望にあふれたダイレクトメッセージを受け取った。どうやらこの方の「師匠」という言葉は本気らしい。奇特な人だ。そんなメッセージを受け取ると、いつもより少しだけ気持ちがぴりっと引き締まったのも事実である。
そしてそのあと、その人とはまったく異なる関係が縁で知り合いとなった会社の現場を見学するため西へと向かった。現場見学会への参加である。色んな意味で素敵だったその現場で、もっともわたしを驚かせたのが経営者さんの言葉だ。いわく、彼と彼の会社の従業員さんたちはわが社が目標なのだという。いやいや驚いたのはそこではない。自分で言うのもおこがましいが、そして「よくあること」とまではいわないが、そこまでだったらそれほどビックリすることでもない。わたしたちがどう思おうと、そしてわたしたちの内実がどうであろうと、わが社を目標にする、あるいは標的にする人たちは少なからずいる。では何に驚いたのか。吹けば飛ぶよなこの辺境の土木屋のことを彼らは尊敬してくれているのだという。
尊敬・・・、
まるっきり初めてではないが面と向かって、しかも万座の前で、しかも聴いたコチラが恥ずかしくなるほどストレートで真摯な態度で彼の口から出た言葉に
「ビックリしたなもう」
のわたしは、あろうことか突然の告白に恥ずかしくなり、すぐさま見学者の輪から外れ知らんふりをした。
とはいいつつも気になってたまらないのがオジさんの俗人たるゆえん、耳をダンボにしてそのあとの話の成り行きを聴いてもいた。そしてその話からその会社の明るい未来と彼らの成長を確信した。断っておくが、褒められたからそう感じたのではない。その理由については、何度も繰り返し書いていることだが、わたしにとっては何度も繰り返さなければならないほど重要なことなのでまた書く。
彼らはわたし(とわたしたち)から学びとれるものがあると感じた。だから学ぶ対象として決めた。コイツから学びとってやると思い定めた。だからこそ「学び」が起動した。さらにそれを他人さまに発信した。有言実行というその行為によって「学び」は深化する。この場合、わたしという人間に「師匠」と呼ばれ「尊敬している」と告白されるだけの値打ちがあるかどうかは大きな問題ではない。この文脈では、学びの対象として定めた人や組織やコンテンツにいかほどの価値がありどれだけ優れているかは副次的なものだ。それはつまり、これまた毎度毎度のウケウリの繰り返しではあるがこういうことだ。
メッセージのコンテンツが「ゼロ」でも、「これはメッセージだ」という受信者側の読み込みさえあれば、学びは起動する。(『日本辺境論』、内田樹、P.148)
とはいえ、「ゼロでも・・・」というのは内田さん得意の言い回し、つまりある意味極論なのだから、「学び」の対象として指名されたものがその事実に調子をこいて、「オレはゼロでもいいんだもんネ」とか「要はアンタらのがんばりなんだからネ」とかいって、漫然かつのほほんとしていてよかろうはずはない。自らが「何ものか」であるかないかということは別にして、その告白にきちんと正対し期待に応えるのが「学び」の対象者として指名されたものの返礼であり義務だろう。
あらあらそう考えると、恥ずかしさのあまりその場から逃げ去るなどとはナニヲカイワンヤではないか。そう気づいたオジさんは、何ごともなかったかのように話の輪に戻り、ニコニコとして彼の話を聴きながらそっと心に誓った。
よ~し、オレもがんばるぞ!
(ぼちぼちとネ)
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