昨年12月をもちまして、月刊『土木技術』が休刊となりました。
そこで、100年つづいた土木専門誌に敬意を表すとともに、感謝の意味を込めて、2015年7月、同誌に寄稿した拙文を加筆修正のうえ数回に分けて転載してみることとしました。今日はその3回目です。
前回までの稿はコチラ
#1→『なぜ北川村にモネの庭?』
#2→『再現性を優先した庭づくり』
#3→『試行錯誤の庭づくり』
#4→『独自性を加えた庭づくり』
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いち土木現場技術者として、あるいは一人の北川村民として、また(自称)「日本一のモネの庭ウォッチャーとして、「モネの庭」に関わり、この庭を通じて多くの人と知り合い、様々な体験をさせてもらうことができました。もとより、庭の良し悪しなどというものは、構造物の構築や基盤の造成、樹木の植栽などを受け持つ施工者よりも、その後の維持管理を担当して庭を育てていく庭師たちの手に、その成否の大半が委ねられています。そういったなかにおいては、私の存在など取るに足らないものに過ぎません。しかし、「モネの庭」に関わってきた年月が、私の土木技術者としての幅を広げてくれるなど、貴重な財産となって私の身体のなかにあるのは確かな事実です。そのことを、日仏の関係各位に感謝するとともに、今後も関わりつづけさせていただけたらありがたいと、あらためてそう思っています。
さて、開園初年度には入園者数が20万人を超えた「モネの庭」も、現在ではその数が激減し、約4分の1となっています。しかし、それに反比例するかのように、庭そのものは年々その魅力を増しています。そのことを如実に物語るのが、2010の開園10周年を祝い、はるばるフランスから来園してくれたユーグ・ガル氏(クロード・モネ財団理事長)の言葉です。それを紹介して拙文の締めくくりとしたいと思います。
「北川村のこの庭は、けっしてジヴェルニーのコピーではない。モネの描こうとしたエスプリがここにはある。」
2015年初夏、色とりどりの睡蓮が咲き誇る「北川村モネの庭マルモッタン」より。
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この拙文を土木技術に寄稿してから、はや7年半が過ぎました。わたしが「モネの庭」にかかわり始めてからの年月はというと、23年が来ようとしています。
あらためて振り返ってみると、いろいろな失敗や成功、さまざまな反省や愉悦、あれやこれやをひっくるめて色々様々あったわけですが、それらを自分自身のアタマのなかで整理しながら、こうやって文章に残しているかというと、そういった行為は皆無に等しいのが実際です。個々の例をあげても、これから5年後に作庭した「ボルディゲラの庭」(いわば「その後の光の庭」)にかかわる顛末(を現場技術者的観点で整理するとどうなるか)しかり、20年前の「遊びの森」造成工事やそれにつづく背後地の周辺整備工事(にもし現代のICT技術を活用するとなるとどのような方法で行うか)の再検証しかり。想像するだけで、当のわたし自身が興味津々となるような事柄があるにもかかわらず、です。
そういったことを考えれば、それらをここで披露できればと思いもしますが、思うだけで実行力が伴わないのはいつものこと。今日のところはとりあえず、「近いうちに」という曖昧な言葉で、約束にもならない約束をしておしまいにしようと思います。では。